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陶器展

 市内の複合施設で、愛知県陶磁器協同組合創立80周年事業として、組合が所管してきた所蔵品を展示する催しが開かれている。新聞でその記事を読んだ私は何故だか行ってみたくなった。柄にもないことを言い出した私に「どうせブログネタにするつもりでしょう」などと言いながらも、妻も付き合ってくれた。私はまったく陶器などと言うものに価値を見出さないで今まで生きてきた男だが、芸術の秋と言うくらいだから、たまにはそうした空気に触れるのもいいじゃないかと出かけてみた。

 

 午前中だったためか入場者も多くなく、ゆっくり鑑賞できた。写真撮影をしてもいいかと係員にたずねたら、「まあ、いいでしょう」と、苦笑しながら許してくれた。陶器が作者名と品名とともに展示棚に並べられているだけで、どういう謂れのある、どんな価値のあるものなのか、何の説明も加えられていなかったが、かえってそうした評価に惑わされずに自分の感じるまま、好き勝手に鑑賞できた。

 

まずは、この展示会の目玉と言うべき加藤唐九郎の作品が最初に目に付いた。唐九郎という人物は現在でも、毀誉褒貶、意見の分かれる怪人物だが、瀬戸焼を代表する一人であることは間違いないだろう。上の写真は若き日の作品のようだが、さらっとしてなんら嫌味のない作品に見える。

 

その横には有田焼の酒井田柿右衛門の若い頃の作品が並べられていた。私が、「なんで九州の陶器がここに飾られているんだろう?」とつぶやいたら、「陶器は九州の有田や伊万里から、こちらに作り方が伝わってきたものだからじゃないの?」と教えてくれた。妻の亡くなった父は古陶器のコレクターとしては有名な人物だったので、少しくらいはその薫陶を受けているのかもしれない、私は「なるほど」と素直に頷いた。

 

さらには、左が石川県の九谷焼、右が京都の清水焼。いずれも絵柄がきれいだ。私はこうした絵柄が好きなのでついつい写真に収めてしまったが、華やかな器は、使う者の心を浮き立たせるような気がする。こんな大皿に持った料理を食べたらさぞや美味しいだろう。

 

左が藤井達吉の黄瀬戸、右が織部、いずれも味わい深い焼きものである。私は昔から、織部の持つ、どことなく洗練されていないような風合いが好きだ。
 などなど、ざっと会場を見てきた私だが、今回一番驚いたのは、加藤民吉という現在の瀬戸焼の礎を作った人の作品が展示されていたことである。

 

これには驚いた。民吉の墓は義父の墓の近くにあって何度も見かけたことがあるが、その作品を見るのは初めてだった。これが見られただけでもう十分だった。

 しかし、展示会をするなら展示品の図録くらい作っておけばいいのに。写真を撮ってきても、どれがどんな作品だったのか思い出すのに一苦労してしまった。
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プッチンプリン

 先日スーパーですごいものを見つけた。その名も、「Happy プッチンプリン」。パーティーサイズなのか、とにかく大きい。


普通サイズのプッチンプリンが1個78gだが、これは400gある。約5個分の重さだが、これだけではどれだけ大きいものかよく分からないので、普通サイズのものを横に並べてみた。

 

ポッキーでパーティーサイズと呼ばれる大きな物は何度か見たことがあるが、プッチンプリンではこれが初めてだったから、思わず買ってしまった。買ってしまったのはいいが、さてこれをいったいどうしよう。実は私、今までにプッチンプリンというものを食べたことがなかった。昔からある有名な商品で、売れてもいるだろうから、まずいものではないだろう。しかし、今まで食べたことのない私が、果たしてこんなジャンボサイズのものを全部食べきることができるだろうか。妻や息子に食べないかとたずねても、「そんな大きなものはいらない」と答えるから、自分で処理するしかない。う~~ん、何か動機付けがあったら一度に食べられるかもしれない、と思いついた私は、どれだけの時間で食べきれるかを計ってみようと決めた。
 とは言っても、ご飯を食べた後ではとてもこんな大きなプリンは食べきれないだろう。ならば、少々きつい気もするが、朝起きて朝ごはん代わりに食べてはどうだろうと思いついた。起きたばかりなら、お腹もすいているだろうし、きっと上手くいくぞと試してみることにした。
 そこで、昨日の朝、目覚めてすぐにストップウオッチを用意して、チャレンジしてみた。

 

容器から取り出して、普通サイズのものと並べるとかなりの威圧感がある。鼻を近づけるとキャラメルのいい香りがしてくる。しかし、甘そうだ。あんの甘さならどれだけ食べても平気だが、こうした物の甘さはあまり好きではない。ちょっと尻込みし始めたが、ここで引くわけにはいかない。皿を持ち上げると、プニプニ動くプリンをスプーンで掬い上げながら食べ始めた。

 

24秒で、スプーン3口食べたが、思ったとおり甘い。前夜から冷蔵庫で冷やしてあったから冷たくて食べ心地はいいが、この甘さに最後まで耐えられるかがポイントだ。
 

51秒で半分以上は食べられた。甘さにも慣れてきたのかさほど気にならなくなった。元来が甘党なので、順応も早いのかもしれない。何にしてもちゅるちゅると喉の中に入っていくから食べやすい。もうあと少しだ。

 

1分17秒で、残るはスプーン2杯か3杯のところまで来た。ちょっとほっとしたのがいけなかったのかもしれない。口中に甘みが急に広がって何だかこれ以上食べるのがいやになってきた。どうしようか、と一瞬迷ったが、気持ち悪くなったらそのときだ、とにかく全部食べてしまおう、と無理やり口の中に押し込んで何とか食べ終えた。

 

1分42秒63、この記録はどうなんだろう。私は早食いで、家族からもっとゆっくり食べてよ、といつも叱られるのだが、この記録はひょっとしたら現時点での、「ハッピープッチンプリン」早食い世界記録ではないだろうか?いくら馬鹿げたことであっても、世界記録保持者であるとするならば、気持ちのいいものだ。

 まあ、誰の挑戦でも受けますけどね・・・

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冷や汗

 一昨日の火曜日、夜7時前にバイトの学生から私の携帯に電話が入った。
「もしもし、あの、今車をぶつけられたんですけど」
「えっ?ぶつけられた?」
「はい、後ろから。乗ってる生徒たちに怪我はないようですけど」
「で、君は?怪我してない?」
「ハイ、なんともありません」
「それならいいけど・・。で、状況は?」
「生徒を乗せるために停車していたら、そこに車が後ろからぶつかってきたんです。大きな音がしましたが、僕もみんなもどこか打ったりはしていません」
「そうか、それはよかった。それじゃあ、相手の連絡先を聞いてから、いったん生徒を塾まで連れて来て。その後で警察に事故の届けを出しに行ってほしいから、相手にも警察に来るよう約束してくれ」
などと、書いてしまえばスムーズに対応したように見えるが、きっとしどろもどろだっただろう。でも、生徒が無事であったことが何よりよかった。事故はあってはならないことだが、相手がぶつかってくるのは避けようがない。しかし、いくらこちらに過失がなかったと言っても、送迎中に生徒に怪我をさせては申し訳が立たない。常日頃、安全運転を心がけるように言ってはいるが、どんなに注意してもしすぎることはない、と改めて心に戒めた。 
 一夜明けて、明るいところでバスの傷み具合を調べた。思ったよりもひどい。

 

ナンバープレートの下が大きくへこみ、バンパーも下に落ちかけている。無残な姿である。相手の車の損傷はもっとひどかったらしいから、相当の勢いでぶつかったに違いない。生徒に怪我がなくて本当によかった。
 昼過ぎに相手方の自動車保険の担当者から電話が入った。前夜、私は保険代理店の友人に事故の報告はしておいたが、その際、止まっていた塾バスには過失はないから、バスの保険ではなく、相手方の保険で全部処理されるとの説明を受けていた。したがって、私が相手方の保険の担当者と直接交渉をしなければならなくなった。今までにこうしたケースは経験したことがないし、元々交渉は得意ではないから、困ったなと思いながら話していたら、何だか話があらぬ方向に行きかけたので、妻に電話を代わってもらった。妻も冷静に話そうとしていたが、保険担当者があまりに杓子定規な態度を取って誠意が感じられなかったため、半ば憤慨しながら電話を切った。私たちは、何も無理を言おうとしているわけでもないから、もっと話の仕方があるだろうに、と何だか釈然としない。事故の被害者である私たちがいやな気分になるのはおかしなものだ。それからずっと、私も妻も気分が悪い。(「JAの自動車保険の責任者出て来い!」と叫びたくなる)これでは、簡単に話がまとまらないような気がするので、面倒くさがり屋の私はもうどうでもいいような気になり始めている・・・

 ところで、先日のフロントガラスに亀裂が入った車は、きれいに修理されて戻ってきた。


何事もなかったように元通りになっているのは、当たり前かもしれないが気持ちがいい。ディーラーの担当者の話によれば、ガラスの一番端に小さな穴が見つかったから、多分そこに小石が当たったのだろうということだった。そんな事例は初めてだと担当者も話していたが、何も私の車にそんな珍しいことが起こってくれなくてもいいのに、と思わざるを得なかった。しかし、この時の保険代理店の友人の対応は迅速で、私たちによく分かる説明をしてくれたので、とても助かった。それに比べて・・などと今度の事故の相手方の対応にどうしても納得がいかなくなる。(何だか高飛車だよな、JAって・・)

 よく考えてみれば、ここのところ保険代理店に電話することが多い。遊びの相談ならいくらでもすればいいけど、事故の話で彼に電話するのはもうこれが最後になってほしい。そうなるようますます注意を払っていかねばならない。 
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かかし

 一昨日父が家の入り口に植わっている松の手入れをしていた。これは「門かぶりの松」にしようと、父が35年近く前に山から抜いてそこに植えたものだ。門などという立派なものはない家なので、厳密には「門かぶりの松」などとは呼べないけれど、長い間かかってやっとそれらしい枝ぶりになってきた。父は年に一度か二度くらいしか手入れをしないので、ほぼ自生しているようなものだが、手入れの終わったあとでじっと見ているとなかなか趣深い形をしている。


昨日私が出先から帰ってきたら、父が松のところで私に何か話したそうな顔をして待っていた。
「何かいいことでもあったの?」と私が聞くと、ニヤニヤしながら、
「今朝、この松の枝振りが気に入って眺めていたら、小さい鳥が飛んできて俺の帽子の上にちょこんと止まった。えっ?と思って、手で払いのけたら、羽が2,3枚飛んだけど、逃げていった。鳥のくせに俺をかかしと間違えやがった」と嬉しそうに話す。それを聞いた妻が、
「だいぶ枯れてきたってことかな」と笑いながら話すと、
「そうかもな。だけど、もうちょっと早く動いたら、捕まえることができたのに・・」と、相変わらず野生児のようなことを言う。もし捕まえていたら、新たな武勇伝となっていただろう、残念だ、などと私も思わず苦笑いをしてしまったが、いくらなんでも生きた人間をかかしと間違えるとは、ふざけた鳥もいるものだ。家で飼われた鳥が人の体の上で遊ぶというのはよく見聞きするが、野生の鳥が人の頭に止まるとは初耳だ。確かに父は、ひざを捻挫して以来歩き方が年寄りくさくなったとは思うが、畑に毎日出かけて行くし、なかなか元気な爺さんに見えるのだが、どうしてそんな父の頭に小鳥が乗っかったものだろう、不思議だ。

 この前の日曜日、弟夫婦が家にやって来て、私は双子の子供たちと楽しいときを過ごした。元気溌剌な甥っ子はボール遊びが好きで、ビニールボールでサッカーをしてやったら、2歳にしては驚くほど反応がいい。ボールを転がしてやるとタイミングを計ってけり返してくる。こいつは面白いと思って、バットで打ち返すこともできるかなと、甥っ子と一緒に100円ショップに行ってバットを買ってきた。袋に同封されていた小さなボールを転がしてやると、長いバットを巧みに操って正確に打ち返してくる。
「おお、すごい!!」と何度も叫び声を上げているうちに、私の父が部屋にやって来て、甥っ子に向かってボールを転がし始めた。甥っ子の妙技に父も感心して、本当に嬉しそうに顔をくしゃくしゃにしながら何度も繰り返していた。真剣にボールを見つめる2歳の甥っ子と、嬉々としてボールを転がし続ける73歳の父、どちらが幼児か分からない気がしてきて、何だか不思議な感じがした。
 
 弟夫婦が、帰り際に「もう一人子供が生まれることになった」と告げた。「おお、本当か、それはよかった」と驚きながらも私が祝福すると、少し照れながら弟は父の部屋に報告をしに行った。父も喜んでいたが、これで8人目の孫が誕生することになる。私が2人、妹と弟が3人の子供を持つことになるから、一人少ないのはちょっと悔しい気もするけれど、そんなことは今さら言っても仕方がない。ただただ、元気な子供が生まれてくるのを祈るばかりだ。
 父も、鳥にかかしと間違われるような枯れた人間になってしまうのはまだまだ早い。生まれてくる新しい孫のためにも、いつまでも元気で生き生きした毎日を過ごしていってもらわねばならない。 


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模試

 日曜日、中学3年生を集めて、愛知全県模試を実施した。これで本年度3回目の模試だが、だんだんと受験が近づいてきている中3生たちは、それなりに真剣な顔をして受験してくれた。今月末には2学期の期末テストがあり、2学期の成績いかんによって私立高校の受験先が決まるので、いい加減な気持ちで勉強してもらっては困るし、徐々にではあるが、ぴんとした空気が教室内を覆いつつある。 
 私は模試の監督官をするのが好きではない。1教科40分で、5教科を一気にやってしまうが、3時間以上ボーっとしていなければならないのが退屈で仕方ない。中学生と一緒になって問題に取り組んだりするが、20分もすれば全部解けてしまうので、残りの時間が手持ち無沙汰になってしまって困る。立ち上がってふらふら歩き回っても、私のような大男がぶらついていては生徒からみれば邪魔くさいだろうし、私もチラッと見える生徒の解答の間違いに気づくと、訂正させたくなってしまって、我慢するのに一苦労だ。一人にヒントなどを与えてしまっては、他の生徒にも同じことをしなくてはならなくなって、試験の公正さがなくなってしまう。それでは進路指導の資料として使えなくなってしまうので、私の「べからず集」の中に入れてある。 
 ならば、いっそ私が模試に立ち会わずに、生徒たちが馴染みのない者に任せたほうが、生徒たちの緊張感も出ていいだろうと思うようになって、近年は大学生に頼んで監督官をやってもらっている。私は別室で、塾の雑務をこなしているが、今までのところ何のトラブルもなく実施できているので、できればこういう形で続けて行きたいと思っている。 
 以下に実施された模試の問題からいくつかを載せてみる。

【国語】 
 ・①から④までの下線部について、漢字はその読みをひらがなで書き、カタカナは漢字で書け。
 ①最悪の事態にイタらず。
 ②その人の人柄
 ③忍耐の分量
 ④人間ドウシの付き合い

【数学】
 ① 5 + (-12) ÷ 4  を計算せよ。
  ②二次方程式 x ( x + 9 ) = 10 ( x + 3) を解け。
 ③兄と弟の所持金の合計は5000円である。2人でお金を出しあって、ある品物を買うのに、兄が自分の所持金を全額出すと、弟の出す金額は、自分の所持金の10%になり、弟が自分の所持金を全額出すと、兄の出す金額は、自分の所持金の40%になるという。兄と弟の所持金はそれぞれ何円か。 
 ④数字2が書かれたカードが2枚、数字3,4,5が書かれたカードがそれぞれ1枚ずつある。この5枚のカードの中から同時に2枚取り出すとき、書かれている数の和が、約数を2個しか持たない数(素数)になる確率を求めよ。

【英語】
 ・次の会話文を読んで、2人の会話が成り立つように、(   )内に与えられた語(句)をこの順に用いて、下線部(1),(2) のそれぞれに入る英文を答えよ。
   Daisuke:  Are you free next Saturday?
   Lisa:       Just a minute.  Yes, I'm free that day.
   Daisuke:  (1)                                                       ?  (why, go, see, me)
   Lisa:       A soccer game?   That's great!   I love soccer.
   Daisuke:  Then, let's go together.
                (2)                                                         . (gave, the tickets)
   Lisa:       Oh, your brother is very kind.

【理科】
 ①セキツイ動物は、からだのつくりや特徴から大きく5つのなかまに分けられている。次の表は、セキツイ動物の5つのなかまの特徴をまとめたものであり、それぞれの特徴が当てはまれば○を、当てはまらなければ×を記入したものである。表中のCのなかまは何類か。
       なかま                  A   B    C   D   E
  体温をほぼ一定に保つことができる    ○   ×   ×   ○   ×
  卵を産む                     ○   ○   ○   ×   ○
  卵や子をおもに陸上に産む         ○   ×   ○   ○   ×
  一生あるいは一時期を肺で呼吸する    ○   ○   ○   ○   ×
 ②地表付近の空気が冷やされて露点に達すると、空気中の水蒸気が水滴に変わり、水滴が地表付近に浮かぶ。このような自然現象を何というか。

【社会】
 ①次のA,B,Cの文は日本の文化について述べたものである。A,B,Cを、年代の古い順に並べなさい。
  A 観阿弥と世阿弥は、田楽や猿楽などの芸能を、能楽(能)として大成した。
  B 狩野永徳らは、城の内部をかざった、ふすまや屏風のはなやかな絵をえがいた。
  C 日蓮は、法華宗の題目を唱えれば、人も国家も救われると説いて、日蓮宗を開いた。
 ②次の文章中の( あ )、( い )に当てはまることばの組み合わせとして最も適当なものを、下のアからエまでの中から選んで、そのかな符号を書きなさい。なお、文章中の2か所のX、2か所のYには、それぞれ同じ都道府県名があてはまる。
  ( あ )新幹線は、XとYを結ぶ主要な交通機関である。輸送機械と鉄鋼のいずれの出荷額も上位10都道府県の一つに数えられるXで、工業製品出荷額が最も多い都市は( い )市である。Yは沿岸部にあり、鉄鋼の出荷額上位10都道府県の一つである。
  ア あ.山陽   い.大阪  イ あ.東海道  い.神戸
  ウ あ.東海道  い.横浜  エ あ.山陽    い.北九州
 ③日本国憲法では、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。社会権に含まれるこの権利の一般的な名称を、漢字3字で書きなさい。


  

 

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とろろ

 自然薯といえば我が家に秋を実感させる必須アイテムだが、近年は山にわけ入ってもなかなか見つけることができないらしい。どこの誰と比べても自然薯掘りに負けたことがない私の父が、「もう薯は絶えたな・・」と言うくらいだから、本当に見つけることは至難の業なのだろう。「あんな掘り方していたらいつか絶えるぞ」と何年か前から警鐘を鳴らしていた父ではあるが、今年のようにどこにも見つからないような事態はもう少し先だと思っていたようだ。
 しかし、先見の明はさすがで、こんな状況に備えて何年も前から自然薯の自家栽培をおこなってきた。


先週の木曜日、駐車場の裏にある小さな畑の片隅に栽培してあった薯を掘り出してきて、食べてみようと言った。私としては日曜日が一番都合のよい日であるから、弟家族も呼んでちょっとした試食会を開くことになった。


父が畑から掘ってきた薯を洗って下準備をしておいてくれた。日曜日、私は4時過ぎまで塾だったので最初から手伝うことはできなかったが、塾が終わった頃には父が一人でかなりの段階まで仕上げてくれていた。

  

やはり栽培ものは水気が多いらしく、薯自体に粘り気がない。真ん中の写真のように簡単に切れてしまう。刺身を山掛けで食べるために皿に盛っておいたが、普通だったら鼻を突く自然薯独特の香りがしない。心の中では不安が走るが、一生懸命すりこ木でこねてくれた父には迂闊なことはいえないと、黙っていた。大丈夫だろうか?

  

ここからは、妻がすりこ木を握って、私が鰹だしのしょうゆのおつゆを入れていったのだが、何杯も入れないうちに食べごろな濃さに薄まってしまった。今までだったら、この2倍も3倍もつゆを入れてのばさねばならないのだが、どうにも勝手が違う。一応は完成ということになったのだが、なかなか食べる気がしない。それでも、責任者の父は、「うまそうだ!」などと負けず嫌いを言いながら、山掛け用にとっておいた薯の中に刺身を混ぜて食べ始めた。感想を待つ私たちに、「思ったほどまずくない。これなら食べられる」と、いかにも強がりを言いながら、さらにはご飯にとろろをかけて食べ始めた。「なかなかだぞ、食べてみろ!」そう言いながらも、私たちが食べるのを見ずにさっさと自室に引っ込んでしまった。そんな父の様子を見ながら、半ば義務感から、半ば怖いものみたさの気持ちから、刺身の山掛けを食べてみた。
 「うん?何だ、これ?」そうした感想しか浮かんでこない。今まで味わったことがないような変な味がする。表現のしようがないほどだ、はっきり言って「まずい!」。かなり気持ちは萎えたが、それでもひょっとしたらご飯にかけたらおいしいかもしれないと思って、試してみた。

 

う~~~ん、やっぱりおいしくない・・・栽培してしまえば、人の力が加わって、もうそれは自然ではなくて人工になってしまうはずだ。人の手で作った薯はもう自然薯と呼べるものではなく、人工の薯となってしまう、だから、今まで私が食べてきた自然薯と同じ味がするはずもない、などと分析してはみたが、ただただ残念だった。
 これからはこんな味のものしか食べられないかと思うと、かなり落胆した夜であった。困ったなあ・・・

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まこちん

 石原まこちんというマンガ家がいる。深夜ファミレスに集ってはダラダラ過ごす3人の若者たちを描いた「THE3名様」の作者だ。それを実写化したDVDも販売されているし、先日はWOWOWでも放映されていたから、ある方面では話題となっている作品なのだろう。その彼が、自身も3年間ダラダラと過ごしたニート(Not in Education, Employment or Training、略称NEET =15〜34歳の非労働力人口のうち、通学や職業訓練などを行わない者のこと)の時代に周囲で本当にあったことを、川柳とイラストで綴った「ニートとね自分で言うのは違うのさ」(太田出版)という本を読んだ。私は、一般にニートと呼ばれる若者たちになんらのシンパシーを感じる者ではないが、石原まこちんは、「THE3名様」をビッグコミックスピリッツで読んで以来の密かなファンであるため、話の種になればと一読してみた。 
 あとがきで彼は、
『この本の中で使われている「ニート」という表現は、あくまで分かりやすさ、伝わりやすさを優先した結果でして、僕は「ニート」という言い方、くくり方は賛成してません。(中略)(ニート期につけていた日記には)何もしていないのに大変忙しく日々を過ごしている自分が記されていたのです。「何もしていないのに忙しい」のです。(中略)社会的に見れば何もしていないのですが、僕個人の解釈では、大変充実した日々を送っているのです』
 そうした『魔法のかかったようなシャンバラチックな夢の時間』を石原まこちんが、ニートという言葉が巷間流布してしまったために、魔法が解けてしまって、窮屈な思いをしているだろうと思いを寄せる人々に宛てた「ニート新定義本」である、本著の中から、私がう~んと思わずうなった、川柳のいくつかを著者自身の解説とともに、以下に抜粋してみる。  
 
 ・ゲーム誌がオレのすべての情報源  
(ゲーム情報だけでなく、音楽、映画、流行のプレイスポットなどあらゆる情報をゲーム誌からゲット。友人(ニート)へのウソにも使用されます。「オレよ~、あそこ行ったぜ!ジョイポリス!」)  
 ・床叩き階下の母呼びシカトする
(またの名を、”母の愛・海抜チェック”)   
 ・宝くじ当選日まではバイトしない
(300円で買える夢見る時間・・・ニートの贅沢ですね)  
 ・母親に履歴書書かせる夏の午後
(リビングのテーブル。コツコツ響くペンの音。老眼鏡を掛けた母。脇には国語辞典。ソレを醒めた目で見ながら、キッチンで立ったままガリガリ君を食べるニート・・・。夕方父が帰ってくる前の出来事です) 
 ・フリをしろ!思い悩んでるフリをしろ!
(重要ですね。ただ怠けているだけでは圧力もかかりっぱなしになり、自室までもなんだか居づらくなってしまいます。ここは「ニート」という、時代が作り出してくれた便利な言葉に甘えることです。「おれ・・・大丈夫かな・・・」「不安なんだよ・・・何をしててもさ・・・」など、自分がニートという病気であることを主張することです。これによりまあ、1年間はナマケを許されることでしょう)  
 ・月2度ナメラれぬための雄叫びを
(やはり、優しいだけではニートはナメられますよね。圧力もかけられます。そのバランスをとるのにとても有効なのが、「雄叫び」です。深夜3時過ぎ、皆寝静まったとき、自室の窓やドアを開け放ち叫ぶのです。「どおおおおおおおおあおああああああああおおおおおおお!」)  
 ・減ったのは友とお金と土踏まず
(ニート始めてから失うものは数々ありますが、中でも、ふと見た自分の足の裏がマッ平ら・・・。これは友からのメールが減ったときよりショックでした) 
 ・とりあえずナンデモカンデモメンドくさい
(ニートの半分はこれです) 
 ・無理だからいくら誉めても無理だから
(親兄弟、親友がニートを更生させようとするときによくやる過ちの1つが、この誉め殺しです。「お前の腕ならつとまるって!」「手先起用じゃん!」などなど誉められまくりニヤニヤするニート。あと一息で・・・と思う親兄弟。しかし、ニートのニヤニヤは、その場を穏便にやり過ごすためのウソ笑いにすぎません。心は決まっています。「ゼッテー、働かね!」 )
 ・フリーター!オレラを下に見るんじゃねえ
(ニートという言葉が市民権を得てから、確かにフリーターの鼻の下は伸びたような気がします。親兄弟にも今までより胸を張ることができるようになったことでしょう。それもこれもすべてニートのお陰なのに・・・。しかし、フリーターからの感謝はありません。フリーターからのお説教は受けることはあっても)  

 

 では、最後に私からの一句。
 「おかしくてやがて悲しきニートかな」

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あん三昧

 私のあん好きは、このブログで何回か話題にしてきた。小さなときからずっとあんを食べ続けている私ではあるが、昨日・一昨日と久しぶりにあんにどっぷり漬かった日を送ってみた。
 まずは一昨日、朝食には「小倉&ネオマーガリン」を食べた。まあ、一週間に一度は食べる定番メニューであり、相変わらずおいしい。多分死ぬまで食べ続ける大好物だ。その後、妻の買い物に付き合ってスーパーで面白いものを見つけた。「文明堂の懐中しるこ」というものだ。

 

最中の皮の中にしるこの素が入っていて、椀の中に入れて熱湯を注ぎながら皮をほぐして、しるこを作るというものだが、昼食後、早速作ってみた。

  

期待に胸膨らませて飲んでみたけれど、あまりおいしくない。薄めすぎたのかもしれないが、物足りない・・・私は元々お汁粉というものがあまり好きではない。小豆の粒が入っていないのが気に入らない。やはり私にはぜんざいのほうがずっと好ましい。それは漉しあんよりも粒あんのほうが好きだというのに通じるのかもしれない。ちょっとがっかりしたが、こんなこともあろうかとスーパーで「大判焼き」というものを買っておいた。その店では「東海道」と言う名前で売られているが、「今川焼き」という名で広く知られているものだ。

 

デパートの地下でも同じようなものが売られているが、私はこの「東海道」が一番好きだ。焼き立てをホクホクしながら食べると、皮もあんも柔らかくて本当においしい。連続で2個は簡単に食べられる。3個目を食べたくなるときもよくあるが、後で胸のつかえに悩まされることもあるので、最近は2個で我慢している。
 ここまでが一昨日のことであるが、これくらいは私にとって珍しくない。しかし、一夜明けた朝食も、アンパンにしたことはさすがに多くはない。

  

「ずっしりつぶあん大入あんぱん」という名前だけあって、手に持つとあんの重みがずっしり響く。2つに割ってみると、本当にあんがびっしりと詰まっている。パン皮が実に薄い。食べるとその感動がいっそう明らかになる。あんばかりだ!!あまり大きなパンではないが、ほとんどあんの大きさといってもいいくらいだから、あん好きにはたまらないアンパンだ。素晴らしい!
 普通ならこれだけでもう十分なのに、昨日はさらに昼食後饅頭まで食べてしまった。


右は「小豆鹿の子」というもので、表面は粒あんで中身は漉しあんでできている。
左は名物「瀬戸川饅頭」。わが市の、濁った川を象徴するような皮の色だが、これは「酒素饅頭」と呼ばれるもので、皮に酒がまぶしてあって、ほのかに酒の香りがする。すぐに皮が固くなってしまうが、焼いたり揚げたりすると別の風味が味わえ、なかなかのものである。昨日は買ってきてすぐに食べたから、やわらかくておいしかった。もちろん2つとも一口で食べてしまった。

 ここまで書いてきて、ちょっと胸やけがしてきた。うっぷ・・
 しかし、本当にあんはおいしい、最高だ!
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ぎゃあ!

 昨日、2時過ぎに出かけようと車に乗り込んだら、びっくりした。フロントガラスに大きな亀裂が走っている。


運転席の右端から、長さ30cmくらいの亀裂だ。「ぎゃあ!」きっと意味不明の叫び声をあげたことだろう。変な物がガラスに付いているのかもしれないと、拭いてみたが、違う。車を降りて、前から調べたが、どう見ても亀裂だ。


なんでこんなになってしまったんだ?午前中出かけて11時30分ごろに帰宅したときには何も変わったことはなかった。すると、それから3時間近くの間に車に何かが起こったのだ。いったい何が?とりあえず妻を呼んでみた。
 「何これ?」
 「まったくだ、何だよ、これ?」
 「でも、3時間くらいの間でしょう?石でも当たったのかな?」
亀裂を隅々まで調べても、石が当たったような形跡はまるでない。普通石が当たれば、当たった箇所には窪みができるだろうが、そんなものはどこにもない。ただ亀裂がピシッと入っている、そんな状態だ。車庫の前は舗装された道路だし、石なんか落ちていない。どう考えても不思議だ。しかし、原因はどうであれ、ガラスをこのままにしておくことはできない。修理をしなければならないが、しかし、フロントガラス1枚を交換するとなれば相当費用がかかるだろう、困った・・・
 「そういえば、この車には車両保険がかけてあったでしょう?」
 「おお、そうだった。この車にだけはかけてあったよな、そういえば」車両保険がかけてあれば、保険で直せる、私は少しほっとした。
 「でも、簡単な車両保険でしょう、確か。直るものと直らないものがあるはずだよ」
 「そうか・・。じゃあ、確かめてみる。その間にディーラーに電話して、事情を話してくれ」
そう言って、私は保険代理店を営んでいる友人に電話して状況を説明した。すると、
 「単独の事故では保険がきかないけれど、飛び石のようなものなら保険はきくよ、大丈夫だよ」
 「そう、よかった。ちょっと安心した。ありがとう」
やはり、保険というものは万一のときに備えて、できるだけかけておくべきものだ。それを報告しようと家に帰ったら、妻がディーラーの担当者と電話で話している最中だった。私が保険はきくらしいと告げると、妻も安心して電話でその旨を伝えた。
 その結果、3日か4日に車を引き取りにきて、ガラスの修理とちょうど時期になっていた車両点検も一緒にしてきてくれることになった。これで、ひとまず一件落着したが、それにしてもいったいどうしてこんな亀裂が入ってしまったのだろう。道を挟んだ反対側の車庫に止めてあるバスのフロントガラスには、石が当たってできたと思われる窪みがいくつかある。はたしてこれが駐車中に石が当たってできたものなのか、走行中に石が当たったものなのか、まったく分からないからなんとも言えないが、それでも、亀裂が入るほどのものではない。じゃあ、いったいこの亀裂はどうやってできたのだろう・・・なんだか、気持ちが悪いけれど、ディーラーが原因を調べてくれるまでは、もうしばらく狐につままれたような気持ちでいるしかないだろう。
 本当に不思議だ。

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ふっと・・

 小中学生のいじめを苦にした自殺が相次いでいる。生徒の相談に真摯に対応しなかった教師、いじめを誘発するような発言を繰り返した教師、生徒の自殺後もいじめがあったことを認めようとはしなかった学校の対応など、新聞をはじめとしたマスコミは舌鋒鋭く連日追及している。自殺を選んでしまった生徒の悲しみ・苦しみを思い、残された家族の慟哭を耳にするたび、こうした悲劇が二度と起こらないようにと願うばかりである。
 また、必修科目の履修不足問題が、全国各地の進学高校などで相次いで発覚する中、 茨城県の公立高の校長が「右願い、一命を副えてお願い致します」との遺書を残して自殺した。履修不足などずっと昔から当然のごとく行われてきたと思っていた私など、報道に何をいまさらと思わないでもなかったが、それを苦に一人の校長が自殺してしまったのには、正直驚いた。私などには分からない葛藤があったのだろうが、何故それくらいのことで?という気持ちがぬぐえない。
 教育の末端にぶら下がる者として、こうした自殺の報に触れるたびに暗澹たる気持ちに襲われる。「そんなに簡単に死ぬなよ」と言いたいが、「お前は当人じゃないからそんなことが言えるのだ」と反論されるかもしれない。確かにそうだ、私は今まで生きてきて、死のうなどと思ったことはない。「もう、死んでしまいたいよ」と半ばやけに思ったことは何度かあるが、次の瞬間には忘れている。物事を深く考えないせいなのかもしれない。いい加減な気持ちで生きているからかもしれない。大した不幸に襲われたことがないからかもしれない。しかし、死なずに生きることが生きることの根本であるとするならば、私は曲がりなりにも何とか無事にそれを全うしていると言えなくはないだろう。
 辛いことがあると、どうしても心はそれに集中してしまう。何とかそれを乗り越えようと必死に頭を働かせる。あれこれ心を砕き、ふらふらになりながらも何とか越えられればいいのだが、押しつぶされるときもあるだろう。そうしたときにふと死の誘惑に駆られてしまうのかもしれない。困難に真剣に向き合おうとする人ほど、それを乗り越えられないときの絶望は大きいように思う。私のように「別にどうでもいいや」などと開き直れるいい加減な奴のほうが、自らの置かれた状況を少しでも楽観視でき、とことんまで己を追い込まずにすむのかもしれない。それは現実を直視せず、逃避することに過ぎないのかもしれないが、直球勝負の正攻法ばかりでは、壁は簡単に乗り越えられない、必死で何度か試した後に力の限界を感じたならば、そこでふっと力を抜き、いったん休むことも必要だと思う。ピンと張り詰めた糸は容易に切れてしまう。はちきれんばかりに空気が充填された風船は少しの刺激でも破裂してしまう。そうした限界状況に達する手前で、糸を緩ませ、風船の空気を抜くような、「力の抜き加減」というものを身につけることができたら、生きることは少しでも楽になるように思う。
 
 斎藤茂太の『「心の掃除」の上手い人、下手な人』という本が家にある(新講社)。受験の重圧に負けそうになる息子に読ませようと妻が買ってきた本だが、私も時々手にとって読んでいる。その中で、第2章の『「力を抜く」と力が生まれる』、第3章『がんばる人は、がんばり過ぎない』という表題が、心の掃除のコツを言い表しているように思う。--がんばり過ぎてにっちもさっちも行かなくなる前に、ふっと力を抜いてみる--それができたら、そうするようにアドバイスできる者が傍にいたならば、現在の自殺の連鎖を断ち切ることができるかもしれない。
 だが、現実にはそういうことができず、そうしたアドバイスをしてくれる人も傍にいないからこそ、自らの命を絶つ人が後を絶たないのだろう。しかし、それだからこそ、「今生きることが苦しくてたまらない人たちが、ふっと力を抜いて、もうどうでもいいや」、と思ってくれたならば・・・などと言いたくなるのは、私が修羅の巷で生きたことのない軽佻浮薄の徒だからなのだろうか。
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