毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「彼岸過迄」
センター試験1日目の問題を新聞紙上で見ていたところ、夏目漱石の「彼岸過迄」が出題されたのを知って、驚くと同時に嬉しくなった。講評には、「過去にも出題歴がある夏目漱石からの出題。現代作家以外からの出題は2004年度の森鴎外以来である。概念的につづられている主人公の心情を、具体的にイメージして読むことに受験生は苦労したのではないか」などと書かれていたが、私個人の感想としては、センター試験の出題者もなかなかやるな、というものだった。「彼岸過迄」と言っても、漱石の作品の中ではさほど有名ではないだろう。漱石が喀血のため生死の境をさ迷った「修善寺の大患」後初めて書かれた作品であり、地味な物語と言ってもいいと思う。一応、「自意識の強い男と、天真なその従妹との恋愛を描く」などと粗筋を語ることはできようが、いくつかの短編を集めて一つの長編を構成した作品だと思ったほうがいいように思う。
私がこの作品でもっとも印象に残っているのは、発表前年の11月に、生後2年で雨の日に突然死亡した五女ひな子のことを描いた「雨の降る日」という章である。漱石自身もこれによって、「よい供養をした」と述べているほどの小編であり、最後に、「己(おれ)は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭(いや)になった」と述べているように、父親としての漱石の心情が随所に読み取れる佳品だと私は思っている。
こんなに思い入れのある漱石の文章が題材にされたのだから、普段なら終わったばかりの試験問題を解いてみるなんてことは殆どしない私でも、挑戦してみないわけには行かない。目覚めたばかりでボーっとしていたが、全文を読んでみた。
私の娘は漱石の小説は面白くないと言って、いくら私が薦めても漱石を読もうとはしなかった。それ以来娘と文学作品に関して話したことはない。漱石が分からないような奴とは話ができない、という思いからだが、高校の教科書から漱石や鴎外の文章が消えてしまった現代であるから、それも仕方のないことかもしれない。明治期の一本筋の通った文章など今の若者たちには読みこなせないかもしれない。あれほど濫読気味の娘でさえそうなのだから、今までに漱石を読んだことのない生徒では、「彼岸過迄」の文体になじめないまま試験が終わってしまった、者も多かったかだろう。もし私が高3生のときにこんな出題がされたなら、嬉しくてたまらなかっただろうが・・。
「個」という観念など持たずに営々と暮らしてきた明治期の日本人にとって、漱石の唱導する「個人主義」がどれほど理解されていたのかは怪しい。漱石はこの日本に「個人主義」が根付くことを願い、己の心の中で葛藤を続けるうちに斃れた人物であるが、その後の私たち日本人が漱石の思いをどれだけ実現してきたであろう。出題された「彼岸過迄」の全文を読むうちに、100年近く前に生きていた日本人が何を考え、どう生きていたかを現代の若者に知らせ、人間と言うものは大して変わらないものだということを教えようというのが出題者の意図なら、それは大したものだと思う。受験生はさほどの深読みをする必要は全くないが、私としては出題者が「彼岸過迄」から出題することで、受験生たちに何を求めていたのかがぜひ知りたい・・。
しかし、この出題によって、漱石のすごさというものを再確認できた。作中人物の心理分析は現代作家と比べて何らの遜色がない。
私は新聞を読みながら、実際に解答してみた。もちろん全問正解だったが、塾長としては当然のことである。高校生の頃は、出題者の見解と私の読み取りが一致せず、現国で思わぬ失点をすることがあったが、人間もここまで生きてくると、出題者の意図を裏読みするずるさも身についているので、正解を導きやすくなった。でも、漱石フリークを自認している私であるから、たとえセンター試験であっても、全問正解できたりすると嬉しくなってくる
ちいさな喜びであるが、こういう小さな喜びがいくつあるかによって人間の幸せ度合いが決まってくるように思うから、小さな喜びをおろそかにせず、少しずつかき集めていって、大きな喜びにつなげるようにしたいと思っている。
センター試験の問題
私がこの作品でもっとも印象に残っているのは、発表前年の11月に、生後2年で雨の日に突然死亡した五女ひな子のことを描いた「雨の降る日」という章である。漱石自身もこれによって、「よい供養をした」と述べているほどの小編であり、最後に、「己(おれ)は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭(いや)になった」と述べているように、父親としての漱石の心情が随所に読み取れる佳品だと私は思っている。
こんなに思い入れのある漱石の文章が題材にされたのだから、普段なら終わったばかりの試験問題を解いてみるなんてことは殆どしない私でも、挑戦してみないわけには行かない。目覚めたばかりでボーっとしていたが、全文を読んでみた。
私の娘は漱石の小説は面白くないと言って、いくら私が薦めても漱石を読もうとはしなかった。それ以来娘と文学作品に関して話したことはない。漱石が分からないような奴とは話ができない、という思いからだが、高校の教科書から漱石や鴎外の文章が消えてしまった現代であるから、それも仕方のないことかもしれない。明治期の一本筋の通った文章など今の若者たちには読みこなせないかもしれない。あれほど濫読気味の娘でさえそうなのだから、今までに漱石を読んだことのない生徒では、「彼岸過迄」の文体になじめないまま試験が終わってしまった、者も多かったかだろう。もし私が高3生のときにこんな出題がされたなら、嬉しくてたまらなかっただろうが・・。
「個」という観念など持たずに営々と暮らしてきた明治期の日本人にとって、漱石の唱導する「個人主義」がどれほど理解されていたのかは怪しい。漱石はこの日本に「個人主義」が根付くことを願い、己の心の中で葛藤を続けるうちに斃れた人物であるが、その後の私たち日本人が漱石の思いをどれだけ実現してきたであろう。出題された「彼岸過迄」の全文を読むうちに、100年近く前に生きていた日本人が何を考え、どう生きていたかを現代の若者に知らせ、人間と言うものは大して変わらないものだということを教えようというのが出題者の意図なら、それは大したものだと思う。受験生はさほどの深読みをする必要は全くないが、私としては出題者が「彼岸過迄」から出題することで、受験生たちに何を求めていたのかがぜひ知りたい・・。
しかし、この出題によって、漱石のすごさというものを再確認できた。作中人物の心理分析は現代作家と比べて何らの遜色がない。
私は新聞を読みながら、実際に解答してみた。もちろん全問正解だったが、塾長としては当然のことである。高校生の頃は、出題者の見解と私の読み取りが一致せず、現国で思わぬ失点をすることがあったが、人間もここまで生きてくると、出題者の意図を裏読みするずるさも身についているので、正解を導きやすくなった。でも、漱石フリークを自認している私であるから、たとえセンター試験であっても、全問正解できたりすると嬉しくなってくる
ちいさな喜びであるが、こういう小さな喜びがいくつあるかによって人間の幸せ度合いが決まってくるように思うから、小さな喜びをおろそかにせず、少しずつかき集めていって、大きな喜びにつなげるようにしたいと思っている。
センター試験の問題
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初セルフ
2008年01月20日 / 車
車に乗ったら、ガソリンのエンプティーランプが付いた。ガソリン入れなくちゃ、と思っていたら「この車はセルフで給油してみたら」と妻が言った。「キャッシュカードでプリペイドカードを買えば後で集計も楽だし、試しにやってみようよ」と誘う。「そうか・・、一度そうしてみるか」と私も少し躊躇しながらも行くことに決めて、書店からの帰り道に、先日記事にしたセルフ給油所に立ち寄った。
まずはプリカを買うために事務室に入った。仕切りがしてある向こうには、初老の店員が一人だけいた。「カードでプリカを買いたいんですけど」「はい。おいくら?」「えっと、1万円」と言いながらカードを渡すと、「一万円ですね」とすぐに手続きを終え、「サインお願いします」とカードを返してくれた。なんて早いんだ、と思いながらサインすると、「はい、どうぞ」とプリカを手渡してくれた。あっという間で、驚いた。
車に戻って、「さあ、給油だ」と少々緊張しながら、給油手順を書いた案内板を読んでみた。
妻は寒いからと言って車から降りてこない。仕方なしに一人で試してみた。まず最初に「静電気除去シート」なるものに手をかざした。いったい何のためだろう、よく分からないがそうしろと書いてあったからそうした。その後は案内板に従って進めていった。
1.買ったばかりのプリカを挿入口に入れた。
2.ハイオクのボタンを押した。
3.車の給油口のキャップを開けた。
4.ノズルを給油口に差し込み、レバーを引いて給油を始めた。
ここまでは至極順調に進んだ。「本当に簡単だな、楽勝じゃん」と思った次の瞬間、何故だか給油が突然ストップしてしまった。
何?どういうこと?訳が分からずもまたレバーを引いたら再開した、だが、1ℓ入るか入らないかでまた止まってしまった。どうして?さらに何度か試してみたが、いつも1ℓくらい入ると止まってしまう。車中の妻に「どういうこと?」と助けを求めると、ちょっとバカにした顔で降りてきて、私からノズルを取り上げると自分で給油を始めた。「ぐっとレバーを思い切り引かないで、弱目にして少しずつ入れるといいんじゃないの。昔、スタンドの子たちが何度やってもうまくいかずに困っていたじゃない。あれと同じことだよ」などと解説してくれたが、私はどうにも腑に落ちなかった。すると、先ほどの店員が近寄ってきて、「車種によっては一気に大量に入れると、ノズルの先端にある小さな穴の中にエアーが入って、給油が止まることがあるんです。この車もその車種だね。ちょっとゆるめに持ってもらって、時間をかけて入れてください。申し訳ないですが」と丁寧に説明してくれた。「時間制限があるので、あまり時間がかかっちゃうと給油が自動的にストップしちゃいますんで注意してくださいね」とも付け加えた。なんだか面倒くさい。
言われたとおりにレバーの引き方を緩めにしてゆっくり給油していった。メーターもゆっくりと回っていくので、ノズルを持っている手がだんだん疲れてきた。と、30ℓを少し過ぎたあたりで、またガチャッと止まってしまった。もう一度と思ってレバーを引いたが、動き出さない。ああ、ストッパーがかかったんだな・・。
「今日はこのくらいにしておこうか?」と妻に尋ねたら、「とりあえずそうすれば・・」と気のない返事をしたので、やめておくことにした。
どうなんだろう、もうちょっと慣れればスムースに操作することができるようになるだろうか。それにしても、やはり手軽で便利であることだけは間違いない。それとなんと言っても安いのが魅力的だ。
これからは利用する回数が増えていくような気がする。
まずはプリカを買うために事務室に入った。仕切りがしてある向こうには、初老の店員が一人だけいた。「カードでプリカを買いたいんですけど」「はい。おいくら?」「えっと、1万円」と言いながらカードを渡すと、「一万円ですね」とすぐに手続きを終え、「サインお願いします」とカードを返してくれた。なんて早いんだ、と思いながらサインすると、「はい、どうぞ」とプリカを手渡してくれた。あっという間で、驚いた。
車に戻って、「さあ、給油だ」と少々緊張しながら、給油手順を書いた案内板を読んでみた。
妻は寒いからと言って車から降りてこない。仕方なしに一人で試してみた。まず最初に「静電気除去シート」なるものに手をかざした。いったい何のためだろう、よく分からないがそうしろと書いてあったからそうした。その後は案内板に従って進めていった。
1.買ったばかりのプリカを挿入口に入れた。
2.ハイオクのボタンを押した。
3.車の給油口のキャップを開けた。
4.ノズルを給油口に差し込み、レバーを引いて給油を始めた。
ここまでは至極順調に進んだ。「本当に簡単だな、楽勝じゃん」と思った次の瞬間、何故だか給油が突然ストップしてしまった。
何?どういうこと?訳が分からずもまたレバーを引いたら再開した、だが、1ℓ入るか入らないかでまた止まってしまった。どうして?さらに何度か試してみたが、いつも1ℓくらい入ると止まってしまう。車中の妻に「どういうこと?」と助けを求めると、ちょっとバカにした顔で降りてきて、私からノズルを取り上げると自分で給油を始めた。「ぐっとレバーを思い切り引かないで、弱目にして少しずつ入れるといいんじゃないの。昔、スタンドの子たちが何度やってもうまくいかずに困っていたじゃない。あれと同じことだよ」などと解説してくれたが、私はどうにも腑に落ちなかった。すると、先ほどの店員が近寄ってきて、「車種によっては一気に大量に入れると、ノズルの先端にある小さな穴の中にエアーが入って、給油が止まることがあるんです。この車もその車種だね。ちょっとゆるめに持ってもらって、時間をかけて入れてください。申し訳ないですが」と丁寧に説明してくれた。「時間制限があるので、あまり時間がかかっちゃうと給油が自動的にストップしちゃいますんで注意してくださいね」とも付け加えた。なんだか面倒くさい。
言われたとおりにレバーの引き方を緩めにしてゆっくり給油していった。メーターもゆっくりと回っていくので、ノズルを持っている手がだんだん疲れてきた。と、30ℓを少し過ぎたあたりで、またガチャッと止まってしまった。もう一度と思ってレバーを引いたが、動き出さない。ああ、ストッパーがかかったんだな・・。
「今日はこのくらいにしておこうか?」と妻に尋ねたら、「とりあえずそうすれば・・」と気のない返事をしたので、やめておくことにした。
どうなんだろう、もうちょっと慣れればスムースに操作することができるようになるだろうか。それにしても、やはり手軽で便利であることだけは間違いない。それとなんと言っても安いのが魅力的だ。
これからは利用する回数が増えていくような気がする。
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北野天満宮
今日からセンター試験が始まる。私の塾からも数名が受験する。12月の初めに「大学受験なんて・・」と息切れしかけた生徒も何とか気を取り直して受験する。まずはここまでたどり着けただけでもよかった。後は自分の力を信じて悔いのないように全力を尽くしてくれることを祈るのみである。
昨年のセンター試験は息子が受験したため、やはり尋常の心持ではいられなかった。自分の子供の受験には、塾長としての客観的な視点の中に、どうしても主観が入り込む。自己採点した息子から、惨憺たる結果を知らされた一年前の夜はかなりきつかった。あんな夜は二度とごめんだと思うが、それでも今となっては色々教訓を私に与えてくれる。大学受験では、子供自身が自分の意志をはっきりさせ、どんなことがあっても最後まで挫けずやり遂げようとする気持ちを持ち続けることがいかに大切かを改めて学んだ。親は子供の志望をサポートする役割に徹し、応援するしかない。結果がどうあれ、子供が全力を尽くしたのなら、その努力に対しては最大限の評価をしてやるべきだ、などと偉そうなことを言えるのも息子が無事大学生になったからだが・・。
しかし、いくら今年は客観視できるとは言え、塾長として傍観はしていられない。できうる限りの力添えは生徒たちにしてやりたい。そこで、例年通り、京都・北野天満宮の神梅を食べさせ、芽が出るようにその種を試験場に持って行かせることにした。去年は元日に息子の合格祈願に行ったときに買ってきたが、さすがに今年はそこまでのエネルギーはなかった。頼りの娘も、卒論のための実験でてんてこ舞いしているようでとても天神さんまで行く時間はないと言う。言うまでもなく私にもそんな時間の余裕は全くない。
「ならば私が行って来るわ」と妻が嬉しそうに手を挙げた。忙しい娘にご飯を作ったり、部屋の掃除もしてやりたいと思っていたから一石二鳥だ、と上手なことを言う。私にとっては渡りに船だから、「よろしく」と頼むしかなかったが、京都に行けるなんてちょっとうらやましい気がした。ああ、冬の京都はいいよなあ、しっとりして・・・。
「ああ、寒かった」
娘の部屋で一泊して帰ってきた妻は雪がちらつくほど凍てついた京都の様子を話してくれた。
「そのおかげかなあ、天神さんは人が少なかった・・」
と言って、買ってきた一式を渡してくれた。
破魔矢とお札と神梅、それと神社には「塾生全員、志望校合格」と書いた絵馬を飾ってきてくれたそうだ。早速センター試験に挑む塾生に神梅を分けた。生徒の多くが中学受験や高校受験の時に一度はこの神梅を食べたことがあるので、その霊験あらたかなことは自ら体験しているので、受け取る顔つきも神妙そのものだった。さすがにここまで来ると顔つきも引き締まって皆受験生らしい顔になっている。きっとうまく行く。
さらに妻がこんなものを取り出した。
「天神さんの本殿近くの庭を箒で掃いているおばあさんがいたから、軽く会釈をしたの。そしたら、こちらに来いと呼ばれたから近づいて行って、塾生のために合格祈願に来たんだと話したら、ポケットからこの金色の包みを出して私にくれたの。修学旅行生なんかにあげるためにいつも持っているんだって」
よく見れば五円玉が一つずつ金の紙に包んである。いかにも天神さんのご利益がありそうなので、高校生と小学生の受験生に謂れを話しながら、一つずつ手渡した。さすがに中学生の分まではなかったので残念だったが、彼らには神梅を多めに分けてやろう。
これでもう私のできることは区切りが付いた。後は生徒一人一人が実力を、いや実力以上のものを発揮できるよう祈るばかりだ。
「みんな頑張れ!!」
昨年のセンター試験は息子が受験したため、やはり尋常の心持ではいられなかった。自分の子供の受験には、塾長としての客観的な視点の中に、どうしても主観が入り込む。自己採点した息子から、惨憺たる結果を知らされた一年前の夜はかなりきつかった。あんな夜は二度とごめんだと思うが、それでも今となっては色々教訓を私に与えてくれる。大学受験では、子供自身が自分の意志をはっきりさせ、どんなことがあっても最後まで挫けずやり遂げようとする気持ちを持ち続けることがいかに大切かを改めて学んだ。親は子供の志望をサポートする役割に徹し、応援するしかない。結果がどうあれ、子供が全力を尽くしたのなら、その努力に対しては最大限の評価をしてやるべきだ、などと偉そうなことを言えるのも息子が無事大学生になったからだが・・。
しかし、いくら今年は客観視できるとは言え、塾長として傍観はしていられない。できうる限りの力添えは生徒たちにしてやりたい。そこで、例年通り、京都・北野天満宮の神梅を食べさせ、芽が出るようにその種を試験場に持って行かせることにした。去年は元日に息子の合格祈願に行ったときに買ってきたが、さすがに今年はそこまでのエネルギーはなかった。頼りの娘も、卒論のための実験でてんてこ舞いしているようでとても天神さんまで行く時間はないと言う。言うまでもなく私にもそんな時間の余裕は全くない。
「ならば私が行って来るわ」と妻が嬉しそうに手を挙げた。忙しい娘にご飯を作ったり、部屋の掃除もしてやりたいと思っていたから一石二鳥だ、と上手なことを言う。私にとっては渡りに船だから、「よろしく」と頼むしかなかったが、京都に行けるなんてちょっとうらやましい気がした。ああ、冬の京都はいいよなあ、しっとりして・・・。
「ああ、寒かった」
娘の部屋で一泊して帰ってきた妻は雪がちらつくほど凍てついた京都の様子を話してくれた。
「そのおかげかなあ、天神さんは人が少なかった・・」
と言って、買ってきた一式を渡してくれた。
破魔矢とお札と神梅、それと神社には「塾生全員、志望校合格」と書いた絵馬を飾ってきてくれたそうだ。早速センター試験に挑む塾生に神梅を分けた。生徒の多くが中学受験や高校受験の時に一度はこの神梅を食べたことがあるので、その霊験あらたかなことは自ら体験しているので、受け取る顔つきも神妙そのものだった。さすがにここまで来ると顔つきも引き締まって皆受験生らしい顔になっている。きっとうまく行く。
さらに妻がこんなものを取り出した。
「天神さんの本殿近くの庭を箒で掃いているおばあさんがいたから、軽く会釈をしたの。そしたら、こちらに来いと呼ばれたから近づいて行って、塾生のために合格祈願に来たんだと話したら、ポケットからこの金色の包みを出して私にくれたの。修学旅行生なんかにあげるためにいつも持っているんだって」
よく見れば五円玉が一つずつ金の紙に包んである。いかにも天神さんのご利益がありそうなので、高校生と小学生の受験生に謂れを話しながら、一つずつ手渡した。さすがに中学生の分まではなかったので残念だったが、彼らには神梅を多めに分けてやろう。
これでもう私のできることは区切りが付いた。後は生徒一人一人が実力を、いや実力以上のものを発揮できるよう祈るばかりだ。
「みんな頑張れ!!」
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1000回
この記事で1000回目の投稿になる。数えたわけでもないから本当かどうか分からないけど、左のメニュー欄にそう書いてあるからきっとそうなんだろう。
とりあえず、「おめでとう、よくここまで続けてきたね、偉いもんだ」などと自分を褒めておこう。誰かに頼まれたわけでもないのに、せっせと毎日毎日ここまで書き溜めたのだから、自分でも驚いてしまう。「チリも積もれば山となる」というか「枯れ木も山の賑わい」というべきか、とにもかくにも1000回を迎えられたことは喜ばしい限りである。
新聞で「ブログを始めませんか」という記事に gooブログが紹介されていたことがきっかけだった。本当に軽い気持ち始めたので、タイトルも「疲れるけど、頑張ろう!」などと毎日の口癖をそのまま使ってしまった。今思えば、もうちょっと洒落たタイトルにすればよかったのにと思わないでもないが、これも私の普段の姿を投影したものだと思えば、やはり的を得たタイトルだったのかもしれない。プロフィールの自己紹介欄には「ヤンキース松井秀喜を応援することで日々の活力を得ています」と書いたが、その頃は本当に毎日が松井三昧だった。朝起きてTVですぐに試合を見て、塾が終わってからは寝るまでビデオで復習してと、全く松井中心の生活を送っていた。1回目の記事も「松井の賢明さ」などという文章だったし、しばらくは松井のことばかり書いていたように思う。
しかし、そのままずっと松井のことばかり書いていたらきっとすぐに飽きてしまっただろう。いくら松井中心の生活だったと言っても、松井だけに関わっていたわけではない。私には家族がいるし、塾に通ってきてくれる生徒もいる。家族一人一人、生徒一人一人と毎日真剣に接していかなければならない。その頃は松井を応援することで、厳しい日常とのバランスをとっていたような気がする。それ以前の私は何も熱中するものがなく、ダラダラと過ごしていたように思う。だが、心の底では心を燃やせる対象を探していたのかもしれない。その対象として初めて私の心をつかんだのが松井だった。私の応援なしに松井がチャンピオンリングをとることなどできない、そんな思い込みで熱い毎日を送っていた。
そんな頃に始めたブログではあったが、次第に松井以外のことを記事にすることが多くなっていった。もちろん松井を記事にすることもあったが、それよりも家族・塾・読書などを題材にした記事がだんだん増えていって、いつしか色々な記事を書くのが楽しみになった。今日はどんな記事を書こうか、そう考えるだけでワクワクしたのを覚えている。うまく書けたかどうかなんてことは、売文を生業としているわけではないから大して気にかけなかった。ただ、自分の思ったとおりのことを文章にしようと思っただけで、思い通りに書けた時には爽快感さえ味わえた。
もちろんただ一方的に書いているだけだったら、単に自慰行為みたいなもので終わってしまったかもしれない。そういう意味で、ブログにコメントをつけられるようにしてあるのは、すごい発明(?)だと思う。最初のうちはシステムをあまり理解していなかったせいもあり、コメントが何を意味しているのか分からなかったが、初めて自分の書いた記事にコメントを頂いたとき、「ああ、こういうことなのか!」とすごく感動したのを覚えている。自分の書いた文章を読んでくれる人がいるというのは、快い緊張感もたらしてくれる。こんなこと書いてもいいのか、と暴走しかかるのを止めてもくれるし、もうちょっと分かりやすい書き方ができないものか、と推敲を重ねることにもなる。何も大向こう受けすることを書くつもりはまるでないが、それでもやっぱり他者の目を意識するというのは、どんな場合でも必要なことだと思う。
そう考えれば、私が1000回という数だけは誇れる投稿を重ねてこれたのも、ごく初期から今日に至るまで絶えずコメントを下さっているゴジ健さん、竜虎の母さん、ボネットさん、師匠さん、ビーバーさんらの助けがあってのものだ。今日を迎えられたのも皆さんのお力添えのおかげだ。どんなに言葉を重ねても足りないほどの思いでいっぱいだ。
「本当にありがとうございました。感謝しています」
1000の夜を重ねてここまでたどり着いたわけだが、それは1000の夜を恙無く迎えられたということにもなる。今年は私が生まれて半世紀になるという記念すべき年ではあるが、その前にこうした一つの区切りを迎えられたことは感慨深いものがある。
さて、1001回目の記事は何にしようかな・・、そんなことを考えている間はこのブログを続けていこうと思っている。
ここで一句。「千回といっても先回は九九九回」・・・お粗末!!
とりあえず、「おめでとう、よくここまで続けてきたね、偉いもんだ」などと自分を褒めておこう。誰かに頼まれたわけでもないのに、せっせと毎日毎日ここまで書き溜めたのだから、自分でも驚いてしまう。「チリも積もれば山となる」というか「枯れ木も山の賑わい」というべきか、とにもかくにも1000回を迎えられたことは喜ばしい限りである。
新聞で「ブログを始めませんか」という記事に gooブログが紹介されていたことがきっかけだった。本当に軽い気持ち始めたので、タイトルも「疲れるけど、頑張ろう!」などと毎日の口癖をそのまま使ってしまった。今思えば、もうちょっと洒落たタイトルにすればよかったのにと思わないでもないが、これも私の普段の姿を投影したものだと思えば、やはり的を得たタイトルだったのかもしれない。プロフィールの自己紹介欄には「ヤンキース松井秀喜を応援することで日々の活力を得ています」と書いたが、その頃は本当に毎日が松井三昧だった。朝起きてTVですぐに試合を見て、塾が終わってからは寝るまでビデオで復習してと、全く松井中心の生活を送っていた。1回目の記事も「松井の賢明さ」などという文章だったし、しばらくは松井のことばかり書いていたように思う。
しかし、そのままずっと松井のことばかり書いていたらきっとすぐに飽きてしまっただろう。いくら松井中心の生活だったと言っても、松井だけに関わっていたわけではない。私には家族がいるし、塾に通ってきてくれる生徒もいる。家族一人一人、生徒一人一人と毎日真剣に接していかなければならない。その頃は松井を応援することで、厳しい日常とのバランスをとっていたような気がする。それ以前の私は何も熱中するものがなく、ダラダラと過ごしていたように思う。だが、心の底では心を燃やせる対象を探していたのかもしれない。その対象として初めて私の心をつかんだのが松井だった。私の応援なしに松井がチャンピオンリングをとることなどできない、そんな思い込みで熱い毎日を送っていた。
そんな頃に始めたブログではあったが、次第に松井以外のことを記事にすることが多くなっていった。もちろん松井を記事にすることもあったが、それよりも家族・塾・読書などを題材にした記事がだんだん増えていって、いつしか色々な記事を書くのが楽しみになった。今日はどんな記事を書こうか、そう考えるだけでワクワクしたのを覚えている。うまく書けたかどうかなんてことは、売文を生業としているわけではないから大して気にかけなかった。ただ、自分の思ったとおりのことを文章にしようと思っただけで、思い通りに書けた時には爽快感さえ味わえた。
もちろんただ一方的に書いているだけだったら、単に自慰行為みたいなもので終わってしまったかもしれない。そういう意味で、ブログにコメントをつけられるようにしてあるのは、すごい発明(?)だと思う。最初のうちはシステムをあまり理解していなかったせいもあり、コメントが何を意味しているのか分からなかったが、初めて自分の書いた記事にコメントを頂いたとき、「ああ、こういうことなのか!」とすごく感動したのを覚えている。自分の書いた文章を読んでくれる人がいるというのは、快い緊張感もたらしてくれる。こんなこと書いてもいいのか、と暴走しかかるのを止めてもくれるし、もうちょっと分かりやすい書き方ができないものか、と推敲を重ねることにもなる。何も大向こう受けすることを書くつもりはまるでないが、それでもやっぱり他者の目を意識するというのは、どんな場合でも必要なことだと思う。
そう考えれば、私が1000回という数だけは誇れる投稿を重ねてこれたのも、ごく初期から今日に至るまで絶えずコメントを下さっているゴジ健さん、竜虎の母さん、ボネットさん、師匠さん、ビーバーさんらの助けがあってのものだ。今日を迎えられたのも皆さんのお力添えのおかげだ。どんなに言葉を重ねても足りないほどの思いでいっぱいだ。
「本当にありがとうございました。感謝しています」
1000の夜を重ねてここまでたどり着いたわけだが、それは1000の夜を恙無く迎えられたということにもなる。今年は私が生まれて半世紀になるという記念すべき年ではあるが、その前にこうした一つの区切りを迎えられたことは感慨深いものがある。
さて、1001回目の記事は何にしようかな・・、そんなことを考えている間はこのブログを続けていこうと思っている。
ここで一句。「千回といっても先回は九九九回」・・・お粗末!!
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広辞苑
本屋に広辞苑第六版を取りに行ってきた。重いし分厚い。軽佻浮薄の世の中をせせら笑うかのように重厚長大だ。しかし、この広辞苑を入れるための専用のビニール袋には軽妙な文言が印刷されていた。硬いイメージの岩波書店にしてはなかなか洒落がきいている。
>「袋」ということばは、新しい広辞苑の2443ページに載っています。
こんなことが書いてあれば早速調べてみたくなる。
ふくろ【袋・嚢】①中に物を入れて、口をとじるようにした入れ物。紙・布・革などでつくる。②特に、巾着。③子宮、また胞衣(えな)の俗称。④母親。おふくろ。⑤ミカンなどの果肉を包む薄い皮。⑥ふくらんで物を入れるようになったもの。⑦行きづまっていること。行きづまり。⑧水辺、または池川などの水に囲まれた土地。各川の落ち合った所。
確かに言葉には多くの意味がある。「袋」一つとっても8つも意味があるとは・・、ちょっと感動する。そう言えば、ゴジ健さんから「広辞苑」がらみでいただいた「愛、にはどういう意味があるんだろう。 吉田美和」というコメントにお返事をしなくてはいけない。「愛」という言葉を調べてみた。
あい【愛】①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。②男女間の、相手を慕う情。恋。③かわいがること。大切にすること。④このむこと。めでること。⑤愛敬(あいきょう)。愛想(あいそ)⑥〔仏〕愛欲。愛着(あいじゃく)。渇愛。強い欲望。十二因縁では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。⑦キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。→アガペー。⑧愛蘭(アイルランド)の略。
ちなみに妻が持っている「広辞苑」第二版で「愛」を調べてみたら、かなり説明が違っていて面白かった。
あい【愛】① 或るものにひきつけられ、それを慕い、あるいはいつくしみ、かわいがる気持ち。②とくに男女間の相手を慕う気持。恋愛。③愛玩すること。④愛撫すること。⑤キリスト教で、神が人類に幸福を与えること。他の人間を兄弟と思ってかわいがること。→アガペー。⑥仏教では、師や目上を慕い、真理を学ぶ感情は清らかな愛で、これを万人に及ぼすことが理想である。自己と自分の所有とにこだわるのがけがれた愛で、迷いの根本原因となる。⑦愛蘭(アイルランド)の略。
私としては、第二版の解説の方が読んでいて面白い。単なる語釈だけでなく、その言葉の持つ奥深さまで記述してあって勉強になる。全体としての字数はほぼ同じだが、第六版の方が説明が簡略化されたような印象がする。これが「愛」という言葉に限ったことなのか、全体的な傾向なのか、気にかけていこうと思う。
ところで、予約注文した人には、特典として「広辞苑一日一語」という冊子が付いてくるのだそうだ。1月17日を引いてみた。
17日 兵庫県南部地震
一九九五年一月一七日午前五時四六分に淡路島北端を震源として発生した地震。マグニチュード七・二。阪神淡路大震災を引き起こす。
そうか、もう13年も経ったのか・・。
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25円
毎月ガソリンスタンドから請求書が届くたびにため息をつく。どうしてこんなにお金を払わなければいけないのか、考えているとため息が怒りに変わってくる。確かにそれだけの量のガソリンを買っているのだから、その代金を払うのは当然のことだが、あまりに単価が高くなりすぎている。以前もこのブログで記事にしたことがあるが、ガソリン代には幾つかの税金が掛けられているため、法外とも言いたくなる今のバカ高いガソリン代になってしまう。それほど単純な話ではないかもしれないが、庶民感情からは「そんな税金撤廃してくれ!!」と大声を張り上げたくなる。
折りしも、民主党が「18日召集の通常国会で揮発油(ガソリン)税の暫定税率廃止を目指し、中堅・若手を中心とした衆院議員約60人からなる「ガソリン値下げ実働部隊」を編成する方針を固めた。次期衆院選をにらみ、政府・与党に徹底抗戦するためで、実働部隊を中心に地方遊説を展開する」との報道が流れた。「暫定税率維持を含む歳入関連法案が年度内に成立しなければ、ガソリン代は1リットル当たり約25円の値下げ効果がある」そうだ。それだけの税収を失うとなれば、由々しき事態であろうから、そう簡単に実現しないかもしれないが、消費者としてはどうしたって民主党の考えに賛成したくなる。私もバスの燃費を向上させようとエコドライブを心掛けているつもりであるが、リッター7kmよりも燃費がよくなってくれない。生徒の送迎には決まった距離を走らなければいけないから、ガソリン代が安くなるのが経費節減には一番効果がある。税金の無駄遣いに関する報道など枚挙に暇がないほどであるから、「ガソリン代から25円の税金がなくなったところで大したことはないじゃないか」などと乱暴なことも言いたくなる。何とか実現して欲しいと願っている。
しかし、政治の世界は庶民の生活との乖離したものであるから、希望的観測は慎むべきかもしれない。できる限りの自衛策を取っておくに如くはない。そこで、今私が考えている手段は、ガソリンスタンドをセルフのスタンドに変えようかということだ。今は塾から200mほど離れた通常のスタンドで給油している。一方、セルフのスタンドは一番近くても2kmほど遠くにある。それぞれの1ℓ当たりのガソリン価格を昨日調べて来た。
左が行きつけのスタンド、右がセルフのスタンドのガソリン1ℓ当たりの単価だ。行きつけのスタンドでは会員価格となるため2円安くなってレギュラー151円、ハイオク163円となる。セルフでは、プリペイドカードを買えばこの表示価格のようだから、1ℓ当たり、レギュラーで6円、ハイオクで4円違うことになる。ちなみに12月末にガソリンスタンドから送られてきた請求書を見てみると、レギュラー530ℓ、ハイオク60ℓを買ったようなので、これに合わせて計算してみると、6×530+4×60=3420円違うことになる。これを1年間続けたら、3420×12=41040円・・・、今初めて計算してみてあまりの違いにちょっと愕然とした。セルフスタンドの方が安いことは以前から知ってはいたが、スタンドがすぐ近くにあるのにわざわざ遠くまで出かけるのは面倒だし、自分で給油するのも手間だと思って今まで一度も利用したことがない。ところが年末に妻と娘が出先でガソリンが切れそうなのに気付いてセルフスタンドで給油したところ、驚くほど簡単にできたと教えてくれたので、それ以来真剣に考えてみなければならないと思うようになった。
それは誰もが思うことのようで、最近は行きつけのスタンドに行く度に他の車の姿が見当たらず、従業員の数も減ってしまった。なんだか寂れた雰囲気が漂い始めた気さえする。石油元売業者の中には、仕入れと小売の差額で業績を上げている会社もあるようだが、末端のスタンド業者はまさしく悲鳴を上げたくなる状況なんだろうなと、同情したくなる。ならばもうちょっと我慢して今までどおりのスタンドで給油しようかと妙な仏心も起こってくるが、そんな甘いことばかり言っていられないのも事実だ。
ああ、なんと世知辛い世の中だ、などと嘆いてばかりいないで、まずはどうするべきかもっと考えてみよう。
折りしも、民主党が「18日召集の通常国会で揮発油(ガソリン)税の暫定税率廃止を目指し、中堅・若手を中心とした衆院議員約60人からなる「ガソリン値下げ実働部隊」を編成する方針を固めた。次期衆院選をにらみ、政府・与党に徹底抗戦するためで、実働部隊を中心に地方遊説を展開する」との報道が流れた。「暫定税率維持を含む歳入関連法案が年度内に成立しなければ、ガソリン代は1リットル当たり約25円の値下げ効果がある」そうだ。それだけの税収を失うとなれば、由々しき事態であろうから、そう簡単に実現しないかもしれないが、消費者としてはどうしたって民主党の考えに賛成したくなる。私もバスの燃費を向上させようとエコドライブを心掛けているつもりであるが、リッター7kmよりも燃費がよくなってくれない。生徒の送迎には決まった距離を走らなければいけないから、ガソリン代が安くなるのが経費節減には一番効果がある。税金の無駄遣いに関する報道など枚挙に暇がないほどであるから、「ガソリン代から25円の税金がなくなったところで大したことはないじゃないか」などと乱暴なことも言いたくなる。何とか実現して欲しいと願っている。
しかし、政治の世界は庶民の生活との乖離したものであるから、希望的観測は慎むべきかもしれない。できる限りの自衛策を取っておくに如くはない。そこで、今私が考えている手段は、ガソリンスタンドをセルフのスタンドに変えようかということだ。今は塾から200mほど離れた通常のスタンドで給油している。一方、セルフのスタンドは一番近くても2kmほど遠くにある。それぞれの1ℓ当たりのガソリン価格を昨日調べて来た。
左が行きつけのスタンド、右がセルフのスタンドのガソリン1ℓ当たりの単価だ。行きつけのスタンドでは会員価格となるため2円安くなってレギュラー151円、ハイオク163円となる。セルフでは、プリペイドカードを買えばこの表示価格のようだから、1ℓ当たり、レギュラーで6円、ハイオクで4円違うことになる。ちなみに12月末にガソリンスタンドから送られてきた請求書を見てみると、レギュラー530ℓ、ハイオク60ℓを買ったようなので、これに合わせて計算してみると、6×530+4×60=3420円違うことになる。これを1年間続けたら、3420×12=41040円・・・、今初めて計算してみてあまりの違いにちょっと愕然とした。セルフスタンドの方が安いことは以前から知ってはいたが、スタンドがすぐ近くにあるのにわざわざ遠くまで出かけるのは面倒だし、自分で給油するのも手間だと思って今まで一度も利用したことがない。ところが年末に妻と娘が出先でガソリンが切れそうなのに気付いてセルフスタンドで給油したところ、驚くほど簡単にできたと教えてくれたので、それ以来真剣に考えてみなければならないと思うようになった。
それは誰もが思うことのようで、最近は行きつけのスタンドに行く度に他の車の姿が見当たらず、従業員の数も減ってしまった。なんだか寂れた雰囲気が漂い始めた気さえする。石油元売業者の中には、仕入れと小売の差額で業績を上げている会社もあるようだが、末端のスタンド業者はまさしく悲鳴を上げたくなる状況なんだろうなと、同情したくなる。ならばもうちょっと我慢して今までどおりのスタンドで給油しようかと妙な仏心も起こってくるが、そんな甘いことばかり言っていられないのも事実だ。
ああ、なんと世知辛い世の中だ、などと嘆いてばかりいないで、まずはどうするべきかもっと考えてみよう。
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小正月
1999年までは1月15日が成人の日と決められていた。それがなぜか1月の第二月曜が成人の日と変えられてしまった。古くは元服の儀を小正月(15日)に行っていたことから、15日は成人の日という国民の祝日となったのに、小正月自体が馴染みの薄いものとなったため変更されたとも言われているようだが、「成人の日は15日」と慣れ親しんできた私には、15日以外に成人式が行われるのはどうにも違和感がぬぐえない。昔ながらの習慣が一つずつ消えていくのはやはり寂しい。旧弊は改めるべきだが、そのまま残しておきたいものだってたくさんあるはずだ。
年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となり、松の内に忙しく働いた主婦をねぎらう意味で、女正月という地方もあるそうだ。従って、小正月までが本来の「松の内」ということになる。小正月が来たら正月は終わるわけだから、注連縄や門松は仕舞わなければいけない。塾の前に飾ってあった門松も昨日片付けた。
私としては、いつまでも正月気分でいられなないので、もっと早くに仕舞って欲しかったのだが、製作者の父の意向を無視して取り壊すこともできない。小正月までは我慢しようと思っていたところ、昨日月曜日になって「もういい?」と父に打診してみたら、「うん」と言って解体してくれた。葉牡丹だけは土手に植えて、もうしばらく楽しむことになった。
注連縄も外して、バスの中に飾ってあった小さな鏡餅も集めて来た。毎年鏡餅は近所の米屋さんが暮れになると注文を取りに来てくれる。バスに飾る餅もその米屋さんに頼んでいたのだが、今年初めてスーパーで売っている真空パック入りにものにしてみた。
いつもだと、座席やダッシュボードが餅の粉で汚れてしまうのだが、今年の場合全くそんな心配も要らず、とても気持ちがよかった。カビが生えたりひび割れたりもせず、いつまでも変わらないままでいるので、このままずっと飾っておいてもいいんじゃないかと思うくらいだった。集めてみたら、賞味期限が8月までと書いてあったから、食べられるんだな、と当たり前かもしれないけど、妙に感心してしまった。
室内に飾る鏡餅は今まで通りに米屋さんで頼んだのだが、塾の教室に飾っておいた大き目の鏡餅を正月2日に見たときにはびっくりしてしまった。
暮れの30日に米屋さんが配達してくれたものを大晦日に飾っておいたものが2日にはもうこんなにひび割れていたのだから驚いた。教室に置いたときにはごく普通の餅の形をしていたのに、わずか40時間足らずで前衛的な芸術作品と見まがうばかりの形に変わっていたのだから、「よくもこんな形に・・」と思わず嘆息してしまったほどだ。でも、何故こんなに早くひび割れてしまったのだろう、不思議だ。
米屋さんに注文した鏡餅は1週間ほど前に全部集めて、父に手渡した。これからは父が自分の炭焼き小屋で火を焚きながらこつこつその餅を食べていってくれる。それが我が家の冬の風物詩でもあるから、鏡開きの日でもぜんざいに餅を入れたりはしない。すべて父の腹に収まることになっている。
しかし、立派な鏡餅でも、真空パックに入ったものを見かけると、なんだか味気なく感じてしまうのは私が旧世代に属し始めたからなんだろうか・・。
年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となり、松の内に忙しく働いた主婦をねぎらう意味で、女正月という地方もあるそうだ。従って、小正月までが本来の「松の内」ということになる。小正月が来たら正月は終わるわけだから、注連縄や門松は仕舞わなければいけない。塾の前に飾ってあった門松も昨日片付けた。
私としては、いつまでも正月気分でいられなないので、もっと早くに仕舞って欲しかったのだが、製作者の父の意向を無視して取り壊すこともできない。小正月までは我慢しようと思っていたところ、昨日月曜日になって「もういい?」と父に打診してみたら、「うん」と言って解体してくれた。葉牡丹だけは土手に植えて、もうしばらく楽しむことになった。
注連縄も外して、バスの中に飾ってあった小さな鏡餅も集めて来た。毎年鏡餅は近所の米屋さんが暮れになると注文を取りに来てくれる。バスに飾る餅もその米屋さんに頼んでいたのだが、今年初めてスーパーで売っている真空パック入りにものにしてみた。
いつもだと、座席やダッシュボードが餅の粉で汚れてしまうのだが、今年の場合全くそんな心配も要らず、とても気持ちがよかった。カビが生えたりひび割れたりもせず、いつまでも変わらないままでいるので、このままずっと飾っておいてもいいんじゃないかと思うくらいだった。集めてみたら、賞味期限が8月までと書いてあったから、食べられるんだな、と当たり前かもしれないけど、妙に感心してしまった。
室内に飾る鏡餅は今まで通りに米屋さんで頼んだのだが、塾の教室に飾っておいた大き目の鏡餅を正月2日に見たときにはびっくりしてしまった。
暮れの30日に米屋さんが配達してくれたものを大晦日に飾っておいたものが2日にはもうこんなにひび割れていたのだから驚いた。教室に置いたときにはごく普通の餅の形をしていたのに、わずか40時間足らずで前衛的な芸術作品と見まがうばかりの形に変わっていたのだから、「よくもこんな形に・・」と思わず嘆息してしまったほどだ。でも、何故こんなに早くひび割れてしまったのだろう、不思議だ。
米屋さんに注文した鏡餅は1週間ほど前に全部集めて、父に手渡した。これからは父が自分の炭焼き小屋で火を焚きながらこつこつその餅を食べていってくれる。それが我が家の冬の風物詩でもあるから、鏡開きの日でもぜんざいに餅を入れたりはしない。すべて父の腹に収まることになっている。
しかし、立派な鏡餅でも、真空パックに入ったものを見かけると、なんだか味気なく感じてしまうのは私が旧世代に属し始めたからなんだろうか・・。
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あゆ
浜崎あゆみが自身の会員制ブログで、突発性難聴のため「左耳はもう完全に機能しておらず、治療の術はないと診断されたんだ」と明らかにしたとの報道が流れた。それを知って私は思わず、「片耳が聞こえなくても別にどうってことないよ」と呟いてしまった。それを聞いた妻は何とも表現しがたい顔をしていたが、それは私自身も右耳が全く聞こえないからだ。
小学校に上がる前に、私の右耳が聞こえないことに母が気付いた。それまで一緒に並んで歩くと、必ず母の右側を歩いていたので狭い道などで車とすれ違ったりするときに危ないなあとぼんやり思ってはいたそうだが、何かのきっかけで私の右耳が全く聞こえないことに気付いてからは、本当に多くの病院へ連れて行かれた。名古屋の国立病院や日赤病院という当時は一番立派な病院で検査もしてもらったが、どこでも直る見込みはないと告げられた。その度に母が悲しそうな顔をしたのを今でも思い出すが、諦めきれない母は民間療法を行う少々怪しげな場所へも私を連れて行った。指圧とかお灸とか、効果があると噂に聞いた所へ通ったが、全く改善されなかった。母の涙を何度見たことだろう、しかし、私は全く平気だった。右耳が聞こえなくたって、左耳がある。片目が見えないならかなり不便だろうが、耳の一方が聞こえないくらい大したことじゃない。確かに右側から話しかけられると、そちらに左耳を向けなければ聞こえにくいこともあるから不便といえば不便かもしれないが、さほどのこともない。夜眠るときなど、聞こえる左耳を枕に押し付けてふさいでしまえば、周りが少々うるさくても静寂が訪れる。これはとても便利だ。怒られているときでもそっと左耳をふさげば怒声も粗方聞こえなくなる、本当に便利だ・・・、などと嘯いてずっと生きてきた。
以前塾生で片方の耳が聞こえない生徒がいたが、その子が言うには「おたふく風邪」に罹った時に耳が聞こえなくなったそうだ。私の耳がどうして聞こえないのか、生まれつきのものなのか、病気に罹ってからのものなのかよく分からないが、その話を聞いて以来、自分の右耳も「おたふく風邪」のせいで聞こえなくなったのだ、と思うようになった。母は亡くなり、私の母子手帳がどこにあるのかも分からないから、私が何歳のときに「おたふく風邪」に罹ったのか、今となっては知る由もないから、勝手にそう思うことにしている。
私の場合は、もうほとんど生まれつき片耳が聞こえないようなものだから、今ではそれが当たり前になっていて何の痛痒も感じない。電話を右耳に当てたことは一度もないことくらいが普通の人と違うくらいで、実生活に支障など何もない。だが、浜崎あゆみでは事情がかなり違う。発症してまだ数年しか経っていないし、歌手という何よりも音感を大切にしなければならない立場の人間だ、私のように気楽に構えてばかりもいられないだろう。
ちょっと調べたところ、「突発性難聴は、通常片方の耳が突然聞こえなくなる病気で、全国で治療を受ける人は年間24000人(推定)。原因不明だが、ウイルス感染と内耳血管の循環障害の2説が有力とされる。軽度で治る人もいるが、有効な治療法などは確立されていない」のだそうだ。両耳が同時に聞こえなくなることはあまりないようなので、その点だけは安心できるが、浜崎あゆみにしてみればかなりの衝撃を受けた医師からの宣告であっただろう。その衝撃を乗り越え、ブログで事実をありのままに明かした彼女の精神的な強さには敬意を表したい。
この話を聴いた瞬間に宇崎竜童も同じように難聴に苦しみながらも音楽活動を続けているのを思い出した。電気音のバンドが後ろに控えるロックやポップスの歌手に突発性難聴が起きているケースが多いとの指摘もあるが、一種の職業病という側面もあるかもしれない。左耳が悪くなるミュージシャンが多いようだが、それは、最も音が大きいドラムやベースが左後ろにいるためなのだそうだ。突発性難聴の治療には安静が第一とされているが、長期の休みを取ることはライバルの多い音楽の世界では難しいのかもしれない。多くのミュージシャンが己の体を犠牲にしながら音楽活動を続けているとしたなら、痛ましいことである・・。
音楽界のみならず、どの世界でも身を粉にして働かなければ立ち行かない昨今だが、体調の芳しくないときには無理せず休む勇気を持っていなければならないだろう。それは、忙しさを毎日嘆いている己自身への戒めでもあるが・・。
頑張れ、あゆ!!
小学校に上がる前に、私の右耳が聞こえないことに母が気付いた。それまで一緒に並んで歩くと、必ず母の右側を歩いていたので狭い道などで車とすれ違ったりするときに危ないなあとぼんやり思ってはいたそうだが、何かのきっかけで私の右耳が全く聞こえないことに気付いてからは、本当に多くの病院へ連れて行かれた。名古屋の国立病院や日赤病院という当時は一番立派な病院で検査もしてもらったが、どこでも直る見込みはないと告げられた。その度に母が悲しそうな顔をしたのを今でも思い出すが、諦めきれない母は民間療法を行う少々怪しげな場所へも私を連れて行った。指圧とかお灸とか、効果があると噂に聞いた所へ通ったが、全く改善されなかった。母の涙を何度見たことだろう、しかし、私は全く平気だった。右耳が聞こえなくたって、左耳がある。片目が見えないならかなり不便だろうが、耳の一方が聞こえないくらい大したことじゃない。確かに右側から話しかけられると、そちらに左耳を向けなければ聞こえにくいこともあるから不便といえば不便かもしれないが、さほどのこともない。夜眠るときなど、聞こえる左耳を枕に押し付けてふさいでしまえば、周りが少々うるさくても静寂が訪れる。これはとても便利だ。怒られているときでもそっと左耳をふさげば怒声も粗方聞こえなくなる、本当に便利だ・・・、などと嘯いてずっと生きてきた。
以前塾生で片方の耳が聞こえない生徒がいたが、その子が言うには「おたふく風邪」に罹った時に耳が聞こえなくなったそうだ。私の耳がどうして聞こえないのか、生まれつきのものなのか、病気に罹ってからのものなのかよく分からないが、その話を聞いて以来、自分の右耳も「おたふく風邪」のせいで聞こえなくなったのだ、と思うようになった。母は亡くなり、私の母子手帳がどこにあるのかも分からないから、私が何歳のときに「おたふく風邪」に罹ったのか、今となっては知る由もないから、勝手にそう思うことにしている。
私の場合は、もうほとんど生まれつき片耳が聞こえないようなものだから、今ではそれが当たり前になっていて何の痛痒も感じない。電話を右耳に当てたことは一度もないことくらいが普通の人と違うくらいで、実生活に支障など何もない。だが、浜崎あゆみでは事情がかなり違う。発症してまだ数年しか経っていないし、歌手という何よりも音感を大切にしなければならない立場の人間だ、私のように気楽に構えてばかりもいられないだろう。
ちょっと調べたところ、「突発性難聴は、通常片方の耳が突然聞こえなくなる病気で、全国で治療を受ける人は年間24000人(推定)。原因不明だが、ウイルス感染と内耳血管の循環障害の2説が有力とされる。軽度で治る人もいるが、有効な治療法などは確立されていない」のだそうだ。両耳が同時に聞こえなくなることはあまりないようなので、その点だけは安心できるが、浜崎あゆみにしてみればかなりの衝撃を受けた医師からの宣告であっただろう。その衝撃を乗り越え、ブログで事実をありのままに明かした彼女の精神的な強さには敬意を表したい。
この話を聴いた瞬間に宇崎竜童も同じように難聴に苦しみながらも音楽活動を続けているのを思い出した。電気音のバンドが後ろに控えるロックやポップスの歌手に突発性難聴が起きているケースが多いとの指摘もあるが、一種の職業病という側面もあるかもしれない。左耳が悪くなるミュージシャンが多いようだが、それは、最も音が大きいドラムやベースが左後ろにいるためなのだそうだ。突発性難聴の治療には安静が第一とされているが、長期の休みを取ることはライバルの多い音楽の世界では難しいのかもしれない。多くのミュージシャンが己の体を犠牲にしながら音楽活動を続けているとしたなら、痛ましいことである・・。
音楽界のみならず、どの世界でも身を粉にして働かなければ立ち行かない昨今だが、体調の芳しくないときには無理せず休む勇気を持っていなければならないだろう。それは、忙しさを毎日嘆いている己自身への戒めでもあるが・・。
頑張れ、あゆ!!
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縁起物
当地では毎年、陶製の干支の置物が盛んに作られる。市内に幾つか設置されている広告塔にも今年の干支・ネズミの置物が飾られていて、道行く人の目を楽しませている。縁起物だけにこのブログにも写真を飾っておこうと、天気にいい日に走り回ってきた。
こうやって並べてみると、どれも可愛らしい。私が把握している限りでは、市内8箇所にこの広告塔が設置されているが、現在1箇所は近くの道路が工事中のため展示されていなかった。その代わりに年末に銀行でもらったネズミの置物の写真を載せておく。
改めて今年がネズミ年だということを実感した。そう言えば亡くなった母の干支はネズミだった。もし生きていたら72歳の年女になっていたわけだ。52歳で亡くなったからもう20年も会っていないことになる。振り返ってみると、短かったような長かったような、不思議な20年だった。たまにはそんなことを思ったりするのもちょっとした供養になるかもしれない。
あっ、そういえば妹もネズミ年だった・・。
こうやって並べてみると、どれも可愛らしい。私が把握している限りでは、市内8箇所にこの広告塔が設置されているが、現在1箇所は近くの道路が工事中のため展示されていなかった。その代わりに年末に銀行でもらったネズミの置物の写真を載せておく。
改めて今年がネズミ年だということを実感した。そう言えば亡くなった母の干支はネズミだった。もし生きていたら72歳の年女になっていたわけだ。52歳で亡くなったからもう20年も会っていないことになる。振り返ってみると、短かったような長かったような、不思議な20年だった。たまにはそんなことを思ったりするのもちょっとした供養になるかもしれない。
あっ、そういえば妹もネズミ年だった・・。
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1・11
昨年末に生まれた赤ちゃんの誕生祝を買いに名古屋に出かけた。デパートに向かう前に丸善に寄って、必要な問題集を買おうとしたところ、入り口を入ってすぐの所に、発売されたばかりの「広辞苑」が平積みにされていた。
前日に行きつけの書店で話を聞いたところ、そこでの予約注文は4人だけだったそうだ。ずいぶん前から宣伝してあった割には少ないなあ、となんだか寂しくなって思わず1冊注文することにした。横にいた妻が、「何で?」と不思議そうな顔をしていたので、塾たるもの「広辞苑」の最新版くらいは常備してなくてどうする、などと大言壮語して煙に巻こうとしたが、納得してはくれなかった。しかし、インターネットがここまで普及すると、あらゆる情報が瞬時に手に入ってしまうのだから、何も「広辞苑」のような重い辞典など必要とする人は少ないかもしれない。買ったとしても、せいぜい机上の飾りにしかならないかもしれない。それでも、見栄っ張りな私には格好の装飾品に思えるのだが。
デパートはまだクリアランスセールを継続しているブランドも多く、平日の割には賑わいを見せていた。生まれたばかりの女の子に似合う物をと思っても、何がいいのかすぐには思いつかない。とりあえず familiar に行ってみればきっと何かいいものが見つかるだろうと、思っていたところ、こんなに可愛いらしいケープが飾られていた。
「これがいいね」と妻とも意見が一致したので、早速写真を撮って赤ちゃんの母親に送ってみた。するとすぐに電話がかかってきて、「可愛い!」と絶賛してくれた。「それじゃあこれにするね」と電話を切ったが、もう一枚スモックのような服を1枚加えて、贈答用の箱に包んでもらった。我ながら、なかなかの買い物ができて満足した。
これで用事はみな済んだから、後は食事をして帰るだけだ。9階のレストラン街は思いの外すいていて、いつもなら長蛇の列ができている「自然食ビュッフェ 草楽」にも空席が見つかった。一度この店で食べてみたいと思っていただけに、念願かなった思いがして嬉しかった。
我が家は父が作る有機野菜を毎日食べているから、出先でオーガニック料理をわざわざ食べる必要もないが、自然食と聞くとやはり心が惹かれる。どんなものが食べられるだろうと期待して入ったら、店内はほとんど女性客で埋められていた。ヘルシー料理というものは女性の心をくすぐるのだろうか、しかもバイキング形式だし・・。
野菜を中心としたメニューの中から、好きなものを小皿にのせてくる。あれこれ取ってくるうちにテーブルがいっぱいになってしまった。どの料理も丁寧に作られていて、どれも美味しかった。1品は少しずつでも、何品も食べるとさすがに満腹になった。豆乳の鍋も食べやすくて気に入った。これで1人1980円、食べ放題だが、そんなには食べられない。
また機会があったら食べに行きたいと思う店だった。
前日に行きつけの書店で話を聞いたところ、そこでの予約注文は4人だけだったそうだ。ずいぶん前から宣伝してあった割には少ないなあ、となんだか寂しくなって思わず1冊注文することにした。横にいた妻が、「何で?」と不思議そうな顔をしていたので、塾たるもの「広辞苑」の最新版くらいは常備してなくてどうする、などと大言壮語して煙に巻こうとしたが、納得してはくれなかった。しかし、インターネットがここまで普及すると、あらゆる情報が瞬時に手に入ってしまうのだから、何も「広辞苑」のような重い辞典など必要とする人は少ないかもしれない。買ったとしても、せいぜい机上の飾りにしかならないかもしれない。それでも、見栄っ張りな私には格好の装飾品に思えるのだが。
デパートはまだクリアランスセールを継続しているブランドも多く、平日の割には賑わいを見せていた。生まれたばかりの女の子に似合う物をと思っても、何がいいのかすぐには思いつかない。とりあえず familiar に行ってみればきっと何かいいものが見つかるだろうと、思っていたところ、こんなに可愛いらしいケープが飾られていた。
「これがいいね」と妻とも意見が一致したので、早速写真を撮って赤ちゃんの母親に送ってみた。するとすぐに電話がかかってきて、「可愛い!」と絶賛してくれた。「それじゃあこれにするね」と電話を切ったが、もう一枚スモックのような服を1枚加えて、贈答用の箱に包んでもらった。我ながら、なかなかの買い物ができて満足した。
これで用事はみな済んだから、後は食事をして帰るだけだ。9階のレストラン街は思いの外すいていて、いつもなら長蛇の列ができている「自然食ビュッフェ 草楽」にも空席が見つかった。一度この店で食べてみたいと思っていただけに、念願かなった思いがして嬉しかった。
我が家は父が作る有機野菜を毎日食べているから、出先でオーガニック料理をわざわざ食べる必要もないが、自然食と聞くとやはり心が惹かれる。どんなものが食べられるだろうと期待して入ったら、店内はほとんど女性客で埋められていた。ヘルシー料理というものは女性の心をくすぐるのだろうか、しかもバイキング形式だし・・。
野菜を中心としたメニューの中から、好きなものを小皿にのせてくる。あれこれ取ってくるうちにテーブルがいっぱいになってしまった。どの料理も丁寧に作られていて、どれも美味しかった。1品は少しずつでも、何品も食べるとさすがに満腹になった。豆乳の鍋も食べやすくて気に入った。これで1人1980円、食べ放題だが、そんなには食べられない。
また機会があったら食べに行きたいと思う店だった。
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