平成19年9月14日
今年の6月30日、日教組のシンクタンク国民教育文化総合研究所の
「学びの論理と文化」研究委員会が、中間報告をまとめました。
そのなかで、
「教員が教えてやり、子どもが学ばされる縦の関係が、
学ぶ意欲の低下の背景にあり、今後は、
子どもの「主体性」を育てることが重要」
と強調しています。
教える、教えられるという近代学校教育システムが、
子どもたちの学びたい意欲に答えていないことに問題があるとしています。
子どもに、学ばせるのではなく、
教員も子どもと一緒に学ぶスタイルに転換していくことが必要などとして、
学びのコミュニティーの再生を求めています。
よく、外国語には「学ばせる」とか「育てる」という言葉はないと聞きます。
「学び」とか、「育ち」は周りから「させる」ものではなく、
自らの行動、発達なのです。
ですから、意欲が大切になるのです。
そして、意欲があると
何とかしようとするために「工夫」が生まれてきます。
昨年12月の四国新聞に
評論家の芹沢俊介氏がこんな記事を書いていました。
「教育は嫌いだ、というより怖い。
どこが怖いかというと、教育は(させる)を基本としており
その姿勢が「個」としての私の存在をおびえさせるのだ。
(させられる)のはごめんだ。」
本来のエディケーションとは引き出すという意味が語源と聞きます。
教えるとか、させるという意味ではない。
どう勘違いしてきたのでしょうか。
教育基本法が改正された条文を読んで、こんな感想も述べています。
「これまでに比べ、内容に(させる)の比率がぐんと高くなっている。」
「ますます子どもの「個」が圧迫されるであろうことが、いまから予測される。」
「すくなくとも「教育を受ける」と受身性を反転することができるだろう。」
「教育を受ける」という記述には、「教育を与える」という姿勢が対応している。
「与える・受ける」の関係は容易に「させる・させられる」の関係に移行する。
教育には自己教育しかないと考える私にとって、
教育は与えられるものではない。
必要に応じて与えられた学習の機会を利用して、自ら身につけるものだ。」
最後に
「自律の精神は、主体的な学習を通じた自立によってのみ得られるものだ。」
と結んでいます。
しかし、その主体的な学習は、
意欲がないと成り立たないですね。
基本的な好奇心や意欲を育てるために、平成19年度は、9月から、
各組で、『ありがとう』・『うれしかった』のチェックリストがあり、
毎日のように、帰りがけに友達や先生と「受容・共感」を確かめ
明日に意欲を高めて期待を持って帰宅しています。
ですが、この、『ありがとう』・『うれしかった』のチェックリストも、1ヶ月位で
「やらせ」になりかねないと内心 案じている。
単にシールが欲しいから、と『ありがとう』・『うれしかった』に着目するのではなく
人間関係をゆたかに切り結ぶための、『ありがとう』・『うれしかった』であるべき
と、本来の人間性の部分を問題視したい。
多分、来月からは、違った形でこの、『ありがとう』・『うれしかった』のチェックリストも
進化することでしょう。