平成20年5月24日
娘が、留学中 フランス パリでお世話になったことがきっかけで
親しくなったT・F氏も 非常に興味をもってオススメくださった
白洲 次郎(しらすじろう)さんは、1902年2月17日、兵庫県生れ。
180cmを超す日本人離れした長身&ダンディな風貌。
17才でケンブリッジ大学に留学、1928年・26才まで英国で過ごし、
Queen's Englishと英国流のマナー・着こなし・コミュニケーションを身につける。
妻白洲正子によれば、寝言は全て英語だったと言う。
裕福な商家だった実家の破産による帰国後、英字新聞記者を経て
貿易関係の職を渡り歩き世界を股にかける生活を送るが、
昭和15年、対米開戦と日本の敗北、東京の荒廃と食糧難までを予測して、
東京町田に江戸時代に建てられた古い農家と田畑を求め、
18年に都内から引っ越して半農の隠遁生活に入る。
彼の本領発揮はその後。
敗戦後、妻正子の父を通じて戦前から知己を得ていた吉田茂に請われ、
その右腕として対米交渉に従事。
憲法制定に深く関与する等、戦後日本の立て直しにおいて大きな役割を果たす。
当時アメリカ人と対等に渡り合った唯一の日本人。
アメリカから見れば、「従順ならざるただ一人の日本人」。
サンフランシスコ講和条約締結の場では、吉田茂の英語の演説原稿を
直前に巻紙に書いた日本語に差し替えさせ、
それを羽織袴姿で読み上げるように仕向けるなど、
負けん気の強さを遺憾なく発揮。
吉田内閣では貿易庁長官も努め、「通商産業省」創設にも腕を振るった。
戦後処理が終わった後はあっさりと政界から身を引き、
その後は東北電力会長・大沢商会会長等の職務を歴任。
公職引退後も80才過ぎまでPorsche911を乗り回し、時には
友人であったイッセイミヤケのモデルを引き受けるなど、悠々自適に暮らす。
長く理事長を務めていた軽井沢ゴルフ倶楽部では、
数多くいた入会待ちの人間に対して、たとえそれがどんな政財界の大物であっても
便宜は図らない等、その運営に徹底的なフェアプレイ精神を貫き通す一方、
従業員にはいまだに慕われるほどあたたかく接していた。
エピソード
■吉田茂に請われて敗戦処理の任に着いた直後、
GHQの民政局長ホイットニー准将との初対面の席で
「キミは英語がなかなか上手だね」
「あなたも、もうすこし勉強すれば上手になりますよ」
■ある時、時の首相が軽井沢ゴルフ倶楽部でのプレイを要望してきたが、
「プレイしたければまず会員になれ!」
■ある日倶楽部にやって来た会員が、乗ってきた車の運転手に
自分のゴルフシューズの紐を結ばせているのを目にして・・・
「テメェには手がないのか!」
■1985年の晩秋に京都へ夫妻で訪れてから数日後の夕刻、
自宅で具合が悪くなり急遽入院。ベッドに入る前に看護婦が注射しようとして
「白洲さんは右利きですか?」
「右利きです。でも、夜は左・・・」
その言葉を最後に気持ちよさそうに眠りに落ち、そのまま2日後に息を引き取る。
1985年11月28日、享年83才。
遺言は「葬式無用 戒名不用」。
白洲家三代の物語
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白洲次郎に興味を持った方にお勧めの本
「風の男 白洲次郎」 新潮文庫
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「白洲次郎」 白洲正子・三宅一生・宮沢喜一他著
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「プリンシプルのない日本」 白洲次郎著
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「白洲次郎の流儀」
カッコいい男がいなくなってから久しい。
カッコいいといっても、顔のことではない。
生き方、スタイルが、である。
そのように思っている人々にとって、
白洲次郎という男はとても気になる存在となるはずだ。
夫人である白洲正子が
『白洲正子自伝』のなかで、次のように書いている。
〈そこへ忽然と現れたのが白洲次郎である。「ひと目惚れ」というヤツで、二十五歳まで遊ぶことも、勉強も、目の前から吹っ飛んでしまった。が、何といっても、十八歳のひと目惚れなのだから、当てにならぬことおびただしい。特に美男というわけではないが、西洋人みたいな身ごなしと、一八〇センチの長身に、その頃はやったラッパズボンをはいてバッサバッサと歩き廻っていたのが気に入ったのかも知れない。忽ち意気投合して、——といっても、その頃のことだから、せいぜい映画を見に行ったり、食事をいっしょにする程度で、無邪気なものであった。〉
「特に美男というわけではないが」と
エクスキューズを入れてはいるものの、
私が「ひと目惚れ」したのだから世に類なきカッコいい男だ、
と 言い切っているように思えてならない。
ならば、そのカッコよさをグラフィックに構成したら、どうなるか?
本書誕生の源である。
この本がひろく読まれ、カッコいい男がふたたび出現する日がくれば、
本書の目的は達せられることになるのであろう。
「白洲次郎の生き方」
白洲夫妻の生活の一端に触れてみたいという方は、
http://www.buaiso.com/index.html
最近、自動車やガソリンに関する税金の使い方や、
高速道路建設の是非など世間で議論が盛んですが、
あの白洲次郎さんは中学校の頃から車を乗り回し
ケンブリッジ大学生の頃は 自動車レースに熱中し、
最晩年まで運転を楽しんでおりました。
昨年行った町田市の武相荘にも、
玄関左側には広いガレージがありました。
家族にも「運転はなるべく若いうちに覚えるべし」と、言い、
結婚直後に妻の正子にも教えようと試みたようですが、
大抵の夫婦がそうであるように パソコンでも、テニスや ゴルフも含め、
夫が教えると必ず 大喧嘩になり楽しむどころでは無くなるのが落ちですが、
正子さんも ご多分に漏れず ある時、 癇癪を起こし
生涯車の運転をしませんでした。
先月、恒例の「春の交通安全運動」が終わりましたが、
次郎が52年前54歳のとき、読売新聞に
自動車運転のマナーについて寄稿した小文には
「私は免許を貰ってから35年以上にもなり、
現役の運転手の内では最古参の一人だと思うが、
自動車の運転手族は他人様の迷惑など
全然念頭にないと言うことだ。
道路は全部ご自身様用 に出来ていて、
自分だけが占有するのが当たり前だと言う建前らしい。
交通量が多くなればなるほど必要なのは互譲の精神で、
各自がわがままに振舞えば振舞うほど
交通地獄の形相は悪化するのだ」
と書いています。
実は 実際の 白洲次郎の 運転は、 それほど互譲的ではなく
かなり攻撃的だったのだそうです。
とにかく、国民の大切なお金 税金は 有効に使って、
安全で、事故や渋滞のない車社会を心がけたいものです。