平安時代好きブロガー なぎ です。
9月9日は「重陽の節供」。
別名「菊の節供」ともよばれます。
9月8日の夜に菊花の上に真綿をかぶせて露や菊の花の香りを移し、
9日の朝にその綿で体や顔を拭うと老いが避けられる・若返ると考えられていました。
この露や菊の花の香りが移った綿を「菊の着せ綿」といいます。
さて、
「重陽の節供」の「菊の着せ綿」といえば思い出される和歌があります。
菊の露 若ゆばかりに 袖触れて
花のあるじに 千代は譲らむ
上記の和歌は、
寛弘5年(1008年)9月9日、
藤原道長の正妻である源倫子から紫式部へ「菊の着せ綿」が贈られた時に紫式部が詠んだ歌で『紫式部日記』や『紫式部集』にも収められている歌です。
けれども、この歌が倫子に送られることはなかったのだとか。
山本淳子先生による『紫式部日記』の現代語訳によると、
「せっかくの菊の露、私はほんの少し若返る程度に触れておいて、
後は花の持ち主、奥様にみなお譲りしますわ。どうぞ千年も若返って下さいませ」
という意味だそうです。
「菊の着せ綿」を贈ってきた源倫子、
それに対して和歌を詠んだ紫式部の関係をどうみるか諸説あるそうです。
・「菊の着せ綿(=アンチエイジング)が必要なのは私ではなく倫子さまのほうですよ。」
・「私のような身分低い者が倫子さまから菊の着せ綿を賜るなんて恐れ多いです~!」
どちらでも意味を受け取れる和歌のような気がします。
この当時、藤原道長の正妻である源倫子は45歳。
紫式部のほうが年下です。
一説によると、紫式部は藤原道長の召人であったともいわれており、倫子に対するささやかな嫌味なのか。
一方で、源倫子と紫式部は「またいとこ」の関係でもあり、ふたりは親しい間柄だったと見る方もいらっしゃるそうです。
そのため気軽な冗談であったのか。
ただ繰り返しますがこの和歌は源倫子に送られてはいません。
しかしそれを敢えて『紫式部日記』に書いた紫式部の真意は…?
謎です。
風俗博物館
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