函館でぜひとも行きたい場所がありました。
そこは立待岬ちかくの墓地。

そうです。
石川啄木のお墓。
啄木は、これまで何度か触れた、明治の大火があった1907年に半年ほど函館に滞在しています。
そして「死ぬときは函館で」いうほど函館を気に入っていたようです。
東京で病を得て1913年(大正2)、26年の短い生涯を終え、希望通りにはなりませんでしたが、節子夫人の希望で遺骨が函館に移されました。
その後、節子の弟宮崎郁雨により現在の墓が建立。
墓には、啄木の第一歌集『一握の砂』の冒頭に収められ、函館の海岸をイメージして作られたと考えられている、

「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」の歌が自筆で刻まれています。
そこは立待岬ちかくの墓地。

そうです。
石川啄木のお墓。
啄木は、これまで何度か触れた、明治の大火があった1907年に半年ほど函館に滞在しています。
そして「死ぬときは函館で」いうほど函館を気に入っていたようです。
東京で病を得て1913年(大正2)、26年の短い生涯を終え、希望通りにはなりませんでしたが、節子夫人の希望で遺骨が函館に移されました。
その後、節子の弟宮崎郁雨により現在の墓が建立。
墓には、啄木の第一歌集『一握の砂』の冒頭に収められ、函館の海岸をイメージして作られたと考えられている、

「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」の歌が自筆で刻まれています。