「広島原爆の日」が、また訪れました。
私の誕生とほぼ重なる年月。
原爆が広島に投下され、74年になります。
一歳になったばかりの乳飲み子を抱え被爆した両親の苦労を、改めて思わないではいられません。
爆心地から三キロの地点で被爆した、私たち家族です。
その日、両親は、信じられないような幸運に恵まれました。
父は前日出張から帰宅したばかり。
出張の翌日、原爆が投下された朝は、出勤を三十分遅らせて良いことになっていました。
母は、翌日の8月7日は、市内の中心部での勤労奉仕の日だったのです。
一日遅れの被爆でしたら、我が家は全員、亡くなっていました。
妹も、生を受けることはありませんでした。
おびただしい犠牲者の陰で、辛うじて助かった命。
そう思うと、命の重さに、改めて粛然となりますが。
私は75年間、被爆者の自覚をほとんど持つことなく暮らしてきました。
両親が、被爆の体験をほとんど語らなかったせいかもしれません。
ですから風評を意識したことも、全くありません。
敢えて言うなら、福島の原発事故の時、初めて被爆者として、風評に心を痛めました。
父は、八月六日の当日、会社と我が家を歩いて往復しています。
会社の状況を知りたかったのでしょうか。
まともな時間に出勤した社員は、全滅だったようです。
父が勤務していた中国電力は、爆心地から徒歩15分くらいの所にありましたから。
家と会社を往復する間に、父が目にした地獄図を、思わないでいられません。
途中で引き返すことなく、会社に辿り着いた父の気丈さに、今更ながら驚かされます。
帰り道、黒い雨にも打たれたようです。
被爆したにもかかわらず、父は享年82歳、母は75歳まで生きられました。
原爆資料館を訪れたのは、私が小学生の高学年の頃です。
衝撃を受け、二度と訪問したくない、と思ったものでした。
再度訪ねておくべきだった、という気が今はしますが、もう無理。
せめて50代の頃、もう一度、その写真や遺品を脳裏に焼き付けて置くべきだったかももしれません。
いまさらその惨状を目にする気持ちには、どうしてもなれない私です。
多くの犠牲者に思いを馳せ、当時の両親の苦労を思います。
幸運にも助かり、今も生きながらえ、幸せな日々を紡ぐことができる自分の命の重さを思わないではいられません。
今は、夫や両親へ、ひたすら感謝の気持ちを抱き、それを言葉に出して暮らしています。
被爆者として思うことは、もちろん核兵器の廃絶です。
核兵器の保持のバランスと驚異で、国力を誇示するなんて、本当に愚かしく、嘆かわしい。
最近、世界に不穏な空気が充満しているように思えて仕方ない私。
中国や北朝鮮の姿勢が、不気味で怖いです。
人間の賢さと愚かさは紙一重。
将来、戦争が起きないことを、ひたすら祈るばかりです。
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ありがとうございました。
花のように泉のように