「相模原障害者施設殺傷事件」を追いかけた朝日新聞社の『妄信』を読んで思ったのは・・・
「日の目を見ない障害者」、「才能を見出だされる障害者」との間には大きな差があるとつくづく感じました。才能を見出だされる障害者は障害者全体を見れば「一握の砂」といっても過言ではありません。
「パラリンピック」しかり・・・
「パラリンピック」には、『精神障害者』は、入っていません。入っているのは『身体障害者』、『知的障害者』です。上記の障害者の中にも、もちろん「体を動かすところでない」方も大勢います。一生涯世間に名が出ない障害者が多数なのです。そんな世の中で「生産性がない」という理由で相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で十九人という大量殺傷事件が起きました。この事件は障害者である私の胸にも強く深く突き刺さり「明日は我が身」と思わせました。しかし、「小さな殺傷」は、私の日常にも起きています。それは、『蔑視(べっし)』です。その差別的発言は障害者の心の中の「なにか」を殺してしまっていることは確かです。だが、健常者には解らない。「叩いたその手は痛くない」と言うことで表すことができるおもいます。健常者は一筆・一言・一挙動に細心の注意を払っていただきたいと思います。
『差別意識』というのは人の心から離れないかもれない。しかし、最小には出来るはず。
障害者はただ自分の心身だけで徒労にくれているのです。そこへ「蔑視発言」が加わると、「内外に逃げる道なし」になってしまっている。
一センチでも一ミリでも障害者に心を寄せてくれる、そんな一年であってほしい。