「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

読まずに死ねるか!(書籍紹介) 「オープンダイアローグとは何か 斎藤環 著」

2024年02月18日 12時59分29秒 | 読まずに死ねるか!(書籍紹介)
短い間隔で書籍紹介することになったのは、単に以前に紹介した本を紹介するのをなまけていただけです。「速読」出来るような人間ではなくて、「自称:遅読家」なので悪しからず。落語の小咄じゃないけど、読むのが遅すぎて終わりの方になると、前半部分を忘れてしまうくらいの遅さなんです。

さて、今回取り上げる「オープンダイアローグとは何か?」ですが、この本も前述の通り内容は忘れています(笑)昨日、読み終えたところなのに…。
まぁ、思い付くところだけ内容を言いますと…
・チームで支援すること
・チームで当事者宅もしくは当事者と面接できるところに行く(当事者の安全が担保される場所)
・面接の場でチームのやりとりをする
・あまり当事者が居ないところでミーティングをしない、その場ではいかなる決定もしない
・例えば、チーム5人で訪れるとすると、当事者側は当事者本人と家族(関係が悪くても)が参加する
・当事者が話すことの感想も面談している空間で話す
・もちろん、普段行われる面談のように当事者や当事者家族への語りかけ、質問を行う
・連絡があれば24時間以内に訪問する
・幻想、妄想を話しても、それについても聞く

思い付くまま書きましたが、チームのメンバー全員それぞれがコミュニケーションの力がそこそこないと難しいと思う。チームを作るのにはやはり病院側が「オープンダイアローグをしよう!」と思わないとチーム編成できない。
ただ、本書中には「コミュニケーションの肝(きも)」が書かれていて、私も「あぁ、そうだよね」と再確認したり、「なるほどね!」と思えるところも多かった。このオープンダイアローグは、当初統合失調症患者向けだったらしく、後になって「〇〇にもできるね」ということで広がっていったらしい。日本では国とか都道府県で行われいた/行われているアウトリーチみたいなもんだろうが、オープンダイアローグで強調されていた「本人のいない場所では何も決定しない」という所の違いは大きい。それとアウトリーチで訪問するのは1~2人程度で大勢で当事者もいるところで、みんなでディスカッションすることは無い。

そもそもですが、この「オープンダイアローグ」ですが、意は『開かれた対話』ということらしく、「開かれた」✕「対話」、かつ当事者や支援側の一方的な「一人語り=モノローグ(独白)」ということではない。今まで、現在行われている医療(精神科に限らず)や支援の場になると、当事者や支援側どちらかの「モノローグ」になりがち、というかそうなっている。でも、当事者の「モノローグ」も無駄ではなく、話していく内に「毒気が抜ける」、「話す内に自然と振り返りができる」という効果があるのは否定できない。

オープンダイアローグや診察、支援に限らず、普段の行われる家族、友人の間でも日常交わされるコミュニケーションは、その場限りの「一発勝負」で、その時その時でお互いの考えや状態が変われば、口調やトーンも変わっている。「対話は水物」なのです。ですが、日常的に会って居る人だと「あぁ、あの人ね」と、こちらの勝手で新鮮さを無くしているようなものだ。柄にもなく講師なるものをしているときには「初心対等」と、よく言っているのはこのことが念頭にあってのことです。
大いに脱線してしまいましたが、オープンダイアローグという言葉は知っていたものの、今回この本を読めて良かったと思います。対話は奥深くて概略は説明できても、現場ではそれぞれの実力次第です。このことも確か本書で触れていたと思います、多分…。オープンダイアローグは手段ではなく、それだけも十分意義があることも本書で強く主張されています。(これは確実)



あぁ、この本読まずに死ねるか!







うつせみ演芸に時間 「落語家の春風亭小柳枝さん死去、88歳…『井戸の茶碗』など古典が得意」

2024年02月16日 13時25分05秒 | うつせみ「演芸の時間」

春風亭小柳枝 『二番煎じ』 1997/02/01

小柳枝師匠がお亡くなりになりました。
享年88歳。
直に聞いたことはありません。
が、NHK「日本の話芸」の録画が自宅にはあります。
「二番煎じ」、「井戸の茶碗」。
知らなかったのですが、2016年に脳梗塞で倒れたそうですが翌年には復帰していて最後の高座は2018年だそうです。
芸風は実直という感じで、私が特に好きな「二番煎じ」は冬を背景とした落語なのですが、本当に寒さが伝わってくるし、夜回りの後、みんなで食べている「猪鍋(ししなべ)」で一杯やっている感じは、猪鍋と日本酒のおいしさが伝わってきます。市販の音源はあると思いますし、このブログの載せたYouTubeに「二番煎じ」を貼っておいたのでご覧ください。ちょうど冬なので情感が伝わってくると思います。


南無三




読まずに死ねるか!(書評) 「精神分析新時代 岡野憲一郎 著」

2024年02月11日 22時53分36秒 | 読まずに死ねるか!(書籍紹介)
最近、知人にこの存在が知れてきてやりにくくてしょうが無い(笑)

…というわけで?今回は書籍紹介です。
岡野先生の「精神分析新時代」!
これは多分以前に買ったものを書棚の肥やしにしていたんだと思います。(肥やし豊富)
岡野先生の書籍は解離性障害の本とか外傷後精神障害とか読んでいます。この方の書き方は単語は難しも取っつきやすくて読みやすい。この先生の「お得意?」のトラウマ、解離性障害のことをページの多くを割いています。アメリカ留学時代に診察-カウンセリングを続けた男性の話は、若かりし岡野先生の焦りや青さなんかも書かれていて面白いし、過去にあった凄惨な事件の犯人の精神状態を体系化しています。
第17章死と精神分析では、「森田療法」の森田正馬氏が自分の死に向かう過程を弟子や患者に見せて、かの「森田先生」であっても今際の際に生に対する執着が出たり、おそらくは譫妄がでて取り乱すような所も見せている。ご本人も様々な死を見届けてきているであろうから、自分も取り乱すことを想定しながら望んだに違いない。「凡人の死をよく見なさい」と、そばにいる弟子に言いながらさめざめと言ったという。
この森田氏のエピソードから思い出したのは、アニメの一休さんで有名な「一休宗純」。もちろん室町時代の実在の僧侶で、その人生はかなり破天荒。酒、女、僧侶でありながら長刀や刀を持って歩くなどをして、しかし人望もあり当時の仏教界にもの申すような方だった。もちろん徳も高い。そんな「超」僧侶の一休宗純が死に際に「死にたくねぇ~」といって亡くなった。人間的な僧侶であろうと思う。
両者ともに様々な人の死に立ち会い、自分もそうであろうと思い、自分の番になった時は、主観/客観を持ち合わせながら亡くなっていったのではないか?
「最後の精神分析」ということか?

自分の死にかけたてICUの一晩目の夜には「あぁ、明日生きてないな」と思った。その時は怪我が大きすぎて執着が生まれる余裕もなかった。なにせ病気のように徐々に体力が落ちていって衰弱死するわけで無いので。これから必ず来る自分の死に際で徐々に体力が落ちて死ぬ場合は「死にたくねぇ~」とわめくかも知れない、きっとそうだろう。その時に自分を客観視できるか?試される。母親を病院で看取ったとき、衰弱していく過程でまだ体力があるときは「痛い・辛い」と言っていたが、それも出来なくなったときには、言葉少なくなっていったし大事な言葉をポツリポツリと言って、最後には穏やかに亡くなった。「痛い・辛い」というのは生への執着であろうし、その後は抵抗する力もなくなっていく。

臨床家が人間分析をする最大のものは、自分をどう客観視できるか?それが正しいのか?考察出来るということが最後の難関のような気がする。反面、カウンセリングルームや診察室でカウンセリングをする際に、「私がこの人を捉えている認識は正しいのか?」という第二の自分を隣に座らせるように接していかなければいけない、そういう慎重さが必要で慢心、驕りは禁物と言うことだろう。なにせ、最も身近にいる自分自身の事もよく分からないのだから、他人のことの10%も解っているのかね?
あなたのことはよく分からないけど、あなたに関心があります。知ろうとしています。」という気持ちとそれが実際に見える形で表すということが大事なんだろうと思う。






相変わらずの脱線振り、失礼しました。


この本、読まずに死ねるか!!




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