「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

うつせみ和尚のお説教 「非難承知、パラスポーツにもの申す!」

2024年09月08日 17時52分09秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
今、書いている段階で「パリパラリンピック」で日本選手が活躍していて頼もしい限りです。また、メダルに届かないまでも優れた技術やパワーには尊敬せずにはいられません。

で、パラオリンピックに限らず各スポーツ団体では「障害者大会」は行われています。パラスポーツは競技スポーツとしての意義はもちろん、活躍する障害者を見て障害者の世界を垣間見てもらったり、障害者の世界に興味を持ってもらうという大事な目的があると思います。パラオリンピック/各スポーツ障害者大会のほとんどは身体障害、軽・中度知的障害が主な対象で、その他の障害は出場規定には入っていません。もちろん、私のような精神障害も。とある競技団体に問い合わせたところ「出場選手が少ない」「エントリー選手が来ない場合がある」、その後に「今後、検討して参りたいと思います。」と言うお答えでした。「今後…」返事は来ておりません(笑)
私がよく言うのは「身体・知的障害は、障害者でも優等生」って言ってます。まっ、先駆者というか優遇されやすい対象ですよね。見た目や話せば「あぁ、障害者なんだな」と分かるので、その方のための優遇処置を実施するまでの時間は短い。見た目や普通に話していているような精神障害や高次脳機能障害、発達障害などは具合は悪くなるけど、あまり道ばたでバタリとは倒れない。自宅をのぞくとゴミ屋敷になっていたり、自立した生活が崩壊していたりするが、それは訪問するかしっかりと聞き取りをしないと、その一端が見えてこない。
なので、近年まで精神障害は「障害未満」扱いをされてきた。かといって精神障害者の団体から「パラオリンピック/各障害者大会に出場させろ!」という抗議運動はマスコミに取り上げられていないのか、そのような運動がそもそも起きていないのか?

追記:精神障害者対象のサッカーはあるみたいですよ。










読まずに死ねるか!(書籍紹介) 「『天皇が十九人いた』保阪正康 著 角川文庫」

2024年07月15日 15時17分00秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
なかなかショッキングな題名ですね。
まっ、この表題ひとつのセクションの名前で...

1.天皇
2.東條英機
3.官僚とその周辺
4.映画俳優
5.普通の人々
6.補章
となっていて、「1.天皇」の中の一つが「天皇が十九人いた」なんです。天皇のもう一つは終戦後間もない日本を慰安した天皇巡幸のテストケースであった神奈川を視察したときの様子を書いたものです。

今回は全部の感想を書くのは大変なので表題の「天皇が十九人いた」のところについて書こうと思います。
<(`^´)>エッヘン。
この本自体、太平洋戦争後の様子を書いたものですが、この「天皇が~」も戦後の混乱期の様子を書いたものです。
この本に出てくる代表的な「自称 天皇」は熊沢天皇というお方。数名いて有名なのは「熊沢寬道」で、当時ずいぶんマスコミにも出ていて時の人だったそうです。この「自称 天皇」は、南朝の後醍醐天皇の末裔で南朝百十七代天皇とのこと。他の「自称 天皇」の中にも南朝の末裔を語る人は多く、酒本天皇(後亀山天皇)、竹山天皇(大覚寺統天皇家※特定の天皇を特定していない)、田宮天皇(後醍醐天皇)、長田天皇(長慶天皇)、上村天皇(後村上天皇)、外村天皇(後醍醐天皇)、伊藤天皇(南朝、尚尊王)です。なぜ、南朝の末裔を名乗る者が多いのか?これは明治時代に入って、様々な事情から南朝正閏論→国会から天皇へ上奏→明治天皇の勅裁。自身が北朝の末裔であった明治天皇であるのに、南朝の正当性を認め南朝の天皇も天皇の代数に入れたことが事の発端らしい。
「自称 南朝末裔天皇」以外は源平時代で海に没したと言われる「安徳天皇の末裔」✕2名などがいる。読んでいて大方の「自称天皇」の先祖と言われる方の時代は源平合戦時、南北朝、承久の乱といった混乱期の天皇であることが言えると思う。避難先、流刑先での落とし胤、生存説(安徳天皇)で、よくある話しなのかな?と思う。明治天皇の南朝正閏の勅裁前から地方には「自称 天皇」はいたのかも知れないが、勅裁後からマスコミに取り上げられたり、熊沢(寬道)天皇のように昭和天皇の全国巡幸について歩いた人、宮内庁に自分の正当性を訴える書簡を送った人、自分の結婚式の招待状を官僚や時の大臣に送ったという積極派もいる。また、これらを担いだ人もいた。またまた、よくある話しですが「自称 天皇家正当論争」。これは熊沢天皇家で起きていて、熊沢天皇だけでも5名いる。もう、混乱の上の混乱ですね。
この章の最期に保阪さんが小島廣次(※当時 名古屋市立女子短期大学教授)にインタビューしている。(要約)「自分の生活が良くなるわけでも無いのに、なぜ南朝の天皇にすがるのか、その心理やエネルギーそれがわからない」。殊に熊沢天皇宗家争いを見ても「なぜ?なぜ?」と思う。
十九人の他にも「実は〇〇天皇は暗殺されていて、替え玉が据えられた。」という手合いの話もあるそうです。根拠は無いようですが。

京都銘菓「八つ橋」でも以前に裁判があったなぁ。これは正当性を世間に知らしめることによって販売量が変わるからですが。
これまた余談ですが、「自称 天皇」までとは言わなくても「自称 有栖川家の後継」として結婚式を挙げるに当たって、芸能人や右翼、暴力団関係者を呼んで祝儀を巻き上げる詐欺がありましたね。(有栖川家はすでに断絶しています)

この熊沢天皇騒ぎは途中まで当時の占領軍であるGHQやアメリカのメジャーなマスコミも興味を示していて、特にGHQはある程度の配慮もしていたそうです。その事もまた「自称天皇」が勢いを増す一つの『燃料』みたいなものになったんだろうと思います。
調べてみると保阪さんだけでなくいろいろ資料があるようなので、機会を見つけて読んでみたいと思います。

ん~、この本読まずに死ねるか!

※Wikipedia『皇室詐欺』、『南朝正閏論』参照資料



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うつせみ和尚のお説教 「最近、気になる言葉『確かにぃ~』そんなに世の中に確かなものなんて無い」

2024年06月15日 15時02分53秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
題名書いたらもう書かなくていいな、と思ってしまいました(笑)
最近気になる言葉は、元々はTV発信なんでしょうが、妙に気になる。というか「そりゃどうなんだい?」なんて思う。

『確かにぃ』
特に語尾の「ぃ~」が気に障る。
テレビを観てるとNHKのアナウンサーも連呼してる。話し言葉って、どんどん移り変わって行くものだから、私がここで踏ん張ったところで、どうしようもないのですが、ちょっと言葉にこだわりがあるので最近の傾向が気になります。本の文章がそのまま話し言葉になるわけじゃないけど、本を読んでいるとそれに近くなる、影響されるというわけです。その意味で言うと「確かにぃ」というのもTVに影響されているのですが、どうもTVのバラエティで話される言葉は崩れすぎているように思えて成りません。本はさすがに話し言葉で書くことは少ない、やわらかい本だと話し言葉に近づきますが、それでもバラエティほど崩れていない。今さら「まろは・・・」という平安貴族のような話し言葉にしなさいとは言いませんが、ここで釘を刺さずにいられなかった。
釘?針?
私がここで書いたって、世の中に影響がないので「無痛針」かぁ…。










うつせみ和尚のお説教 「医療従事者/福祉従事者のおごり-患者は全て打ち明けていない」

2024年06月07日 00時41分54秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
精神科医や他の治療者、精神療法科、精神福祉職、特に医師が誤解してしまうのは「私には人生の全てを話してくれている。」という錯覚や驕り。
すべて話す人はいるのはいます。少数ではないと思いますが。ですが、そんな脳みそ差し出して「これが私の考えや今までの出来事の全てです」って、当事者側も忘れていることもあるだろうし、全て自分を開け放つ必要は無い。でも、「打ち明けてもらわないと治療が進まない」ということだろう。昨今の精神科医療は所詮、「処方箋書き」が医師の役割で、結局「付け焼き刃療法」でしかない。そんな「処方箋書き業」に自分の過去や考えを全てぶちまける必要は無い。こちらからいうことがあるならば「こんな症状がある」「こんな事があって困っている」ということ。医師はそんな存在に「落ちぶれて」しまっているのに、意識だけは「私に全て打ち明けてくれているだろう」という根拠の無い自信に満ちあふれていて、「今まで言ってなかったのですが、こんな事で困っています」というと、怒ってしまう医師もいる。たかが処方箋書き業ごときに怒られるいわれはないわけです。落ちぶれた貴族が気位だけ高いみたいなもんです。
私は心理職には寛容な部分があるのですが、なぜかというと「知らないけれど、教えてくれますか?/知りたいです」という意識があるように思えるからです。というか、そうでなくてはいけないと思います。医師が大上段に構えて、心理職は下段の構えという感じ。(剣道的に言うと-解りにくいね)
嫌みな言い方をすると、「3分診療」の精神科医は多いですが、そういう医師は「分をわきまえている医師」ということになります。「私が処方箋書き」と自認しているようなものだから。

医師はサービス業なんだから、そこらを解って欲しいね。











うつせみ和尚のお説教 「専門が細分化され過ぎる学問」

2024年05月10日 11時08分29秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
これもおそらく前に書いたと思います、思います…。(頭の中で考えていて書かなかったのかもしれません)

いろいろな分野の学者や研究者、野良学者なんかと話をしたり、専門書なんかをつまみ読みしますと、内容がまー細かいね。深掘りはいいけど他の専門分野の学者も理解できないようなものになってたりします。
専門性を高めることにより自分の「売り」を打ち出しているのだと思いますが、反面その分野を網羅しているような書物に会うことが難しくなっているように思います。昔は一人の学者が網羅するような本を出していたりするのですが、あとに続くよう学者は少なく本も出版されない。いつまで経っても50年以上前の「大御所学者の大金字塔的書物」を講義のテキストとしてつかっていたり…。近年、見るのはそれぞれの専門家が共著して何巻組かで出版されることが、多いようです。
正直、深堀りも結構ですが網羅した書物は必要です。あとに続く学生がより専門化されていって堀にほってブラジルにまで到達するころには一般人が興味を惹かないものになっているのが現状でしょう。奇特な一般人がしたり顔で酒の肴に話すだけではもったいない。その学問分野からそれぞれがエッセンスを抽出して今後の生活に活かしていけるようなものでないと、いずれその学問分野は社会との距離が離れすぎて、なくなってしまうかもしれません。支援するのはマニアではなく政府であったり、それを指示する国民だったりするのだから。
偉い学者さんなんかは大学を退官した後に市民と車座になって話をすることがありますが、若い学者にもそれをやって欲しいとおもいます。
(現役大学教員が大学の事務に忙殺されているのはよく聞く話ですが)
まぁ、自己満学者ではなくて、市井の人あっての学問ということを頭の中に置いて研究を深めていってほしいものです。


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