「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

うつせみ精神世界への誘い 「障害者の嗅覚、心眼。 おまけ付き」

2025年01月12日 14時35分26秒 | うつせみ 精神・こころ・思考への誘い
これもずいぶん前?に書いたかも知れないですが、もはや死語に近い「心眼」。まっ、いいか。
これは身体、知的、精神・・・と障害分野問わずに感じることだと思いますが、私は精神障害なので、精神障害のことでお話しします。

精神障害の中には、立ち振る舞い、言動からは分からない人も多く、自己紹介で始めて「私、精神障害の✕✕病という病気なんです...。」といわれて初めて周りが理解して、禁句であるえ~、見えない!!!」という言葉が飛び交います。内心「じゃぁ、どうすりゃ精神障害ってわかるんだよ」とつぶやいてしまうこともあります。これは自己紹介から相手が認識する話しですが、今回は相手が考えていることを察してしまうというお話しです。
「逆サトラレ?」
...どうでもいいか、そんなことは。
私の場合、精神科の病院に勤めていた経験があるので、通院や入院患者さんと親しく話しをしていて、やはり健常者職員とは違い、結構突っ込んだ話しをしていると、あとで職員から「うつせみはどういう人なんだろう?」という眼差しで見たり話しをする。そんな接し方をされると「あぁ、こいつ探っていうるな」と感ずるわけです。私の対処としては二通りあって、会話のどこかのタイミングで「あっ、私ピアサポーターなんで」もしくは「私、障害者職員なので」というか、「こいつ、差別感を持っているな」と感じれば、全く触れずに言わないままの時もあります。障害者に差別感情を持っている人間に、こちらから、わざわざカミングアウトして嫌な思いをするのは自殺行為ですからね。
人によっては「誰彼かまわず、言ったらいいじゃん」という人もいます。が、私はイヤです。
ハイ

おまけ
見掛けで「だらしない格好をしていたら、『障害者』自体をバカにされる」という想いから、服装はもちろん、ヘアスタイルや女性ならば化粧に気を配る人も多いですね。私も良い格好したいんですが、なにせ貧乏なんでね服に掛ける金が無い...。まぁ、「見栄」といってしまえばそれまでですが、「外見から障害者と気取られ(けどられ)たくない」「障害者だから、だらしないんだ」とバカにされたくない。という気持ちには同感いたします。「人間見た目が✕✕%」という話もあるのでね。で、話すとバレるという...(笑)












というわけで、16日締めきりの原稿と資料の仕上げにかかります。











うつせみ和尚のお説教 「人は『あの人は✕✕色、間違っている』と言うことは的を得ている?」

2025年01月07日 21時48分18秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
私がよく扱っている「差別」という人間の行為や考えは、言い逃れする人に言わせれば「区別」ともいわれることがある。なんというか、この言い換えられた区別という言葉には「考えが違うだけ」と言うことに収まらずに「差別的」な臭いがぷんぷんするが、さらに丁寧な言葉に言い換えられることがあるがそれでも、差別の臭いはぷんぷんする。

黒白(こくびゃく)」。
この対極する『白↔』の間には無限に色の変化があって、最終的にどちらかにたどり着くが、人間はバカだから微細な変化を連続とは考えずに羊羹を切るように上からバッサリと切り分ける。人間は基本的になまくらだから、微細な変化を省いて自分勝手な解釈で、第三者から見て同じ色でも「これは黒っぽい/これは白っぽい」と解釈して、その自分の認識を絶対的な物として譲らない。傍から見てれば「どっちでも良いし、どっちでも無いよな」という外からの声も聞こえない。
反対に「どっちでも良いし、どっちでも無いよな」という見方は「優柔不断なところが日本人の悪いところ」と断じられるが、『白↔』の間に一点の「これはっぽい/これは(しろ)っぽい」という色に同一の価値観は必要なのか?
今、世界的には「分離主義」が蔓延って、他人の価値観を受け付けない、他人を否定するのが、お流行(はやり)らしい。「ちゃんと、違う意見の人の話も聞いてるよ」という人もいるが、おそらく聞いてるだけで自分の頭の中で練(ね)られていない。結局、自分の意見を最終的通したい。

練らないなら、馬や鹿でもできる。


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うつせみ和尚のお説教 「『もし、死にたいと言われたら、どうしますか?』という学生からの問い」

2025年01月01日 13時24分01秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
先日、知人が教師を勤める大学で話しをしてきました。精神保健福祉士を目指す学生たちの教室でした。久しぶりに自分の体験を語る場でした。(そのようなオーダーだったので)約60分話して、私の体験について質疑応答があって別の教師からも質問があったりして講義の時間を超過するほどでした。
その後、学生たちはその日の講義の感想を書く「コミュニケーションペーパー」を書いて教師に提出して教室を後にしていきました。教師からは「後でコミュニケーションペーパーをコピーした物を送りますね。」ということで12月28日に届きました。前もって「的外れなことも書いてあるので...」ということでした。
私の「自分語り」の中で、「火傷の治療の中で何度か死のうと思ったが、体も思うように動かすことの出来ない状態だったので、「死ぬことも出来ない」と死ぬこと止めて、それ以後治療に積極的になった」という内容を話しました。また、支援者として友人として、そのような場面に遭遇したことも話しました。その話を受けてある学生からの質問で「もし、死にたいと言われたら、どうしますか?」という質問がありました。その質問を見たとき「はっ」としました。自分の精神的な症状が非常に悪かったときは、日常的に「死にたい」と言っていたり、友人知人が自死を遂げた人も私のように「死にたい」日常的に言っている人も居ました。はて、「私がそのようなことを告白されたときにどうしていたかな?」と。そこで思い出したのが「とりあえず、今(または今日)は止めておきましょう。明日また二人で考えましょうね。」と言っていました。その言葉がどれだけ効果があったかわかりません。他の人がなにか言って止めたのかも知れないし、自分で思い返して止めたのかも知れません。原因がどうであれ、止めてくれたので結果オーライということです。
お前は所詮、口先だけだな。」と言われるかも知れない、自分でも時々そう思ったりします。でも、そのような場面では瞬時に考え込むことなく、答えなければならない。例え「~口先だけだな」と言われても緊急的なその場では乗り越えなければならない。そのような場面もいくつか経験してきました。もうこうなれば、心理学的な手法、技法よりも、その手前の話しだと思います。ですが、言われたときにその場を凌ぐときに、どのようなトレーニングや勉強をすれば良いのか私は知りません。というかあんの?

でも、学生からの率直な質問、感想は考える切っ掛けをくれました。










日日是仏滅 「2025年 開幕!」

2025年01月01日 07時55分54秒 | 日日是佛滅
※画像は参考程度に

え~、なんの高揚感も希望もないままに年が明けました。
年が明けた時点で年齢を一年足すという勘定の仕方もあるみたいですね。
毎年、年の前半は予定は詰まっていない傾向にあります。
といいつつ、ボーッとしてると後半エライこっちゃと毎年焦ってしまうのです。こりゃ直らんね。

去年は後期で大学の科目等履修生で講義を受けていました。一月はまだ2つ講義が残っていますが。大教室でオッサンは私だけです。受けている講義は公認心理師向けの講義で、別に公認心理師を目指しているわけではありません。いろいろな技法を学ばせていただきました。(あと二つ残ってます)
ちなみに今の大学は以前夜学で通っていた大学です。べつに「以前通っていたから」という分けではありません。

「なんの高揚感も希望もないままに年が明けました。」といいましたが、人生成り行きで生きてきたので、「今年の抱負」もございません。残念ながら。
強いて言うなら「今年の抱負を作る」ということが、今年の抱負ですかね。なに言っているか自分でもわかりませんが...。
なにより、平安に過ごしたいもんですね。

焦らずボチボチ行きまっしょ


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