私がよく扱っている「差別」という人間の行為や考えは、言い逃れする人に言わせれば「区別」ともいわれることがある。なんというか、この言い換えられた区別という言葉には「考えが違うだけ」と言うことに収まらずに「差別的」な臭いがぷんぷんするが、さらに丁寧な言葉に言い換えられることがあるがそれでも、差別の臭いはぷんぷんする。
「黒白(こくびゃく)」。
この対極する『白↔黒』の間には無限に色の変化があって、最終的にどちらかにたどり着くが、人間はバカだから微細な変化を連続とは考えずに羊羹を切るように上からバッサリと切り分ける。人間は基本的になまくらだから、微細な変化を省いて自分勝手な解釈で、第三者から見て同じ色でも「これは黒っぽい/これは白っぽい」と解釈して、その自分の認識を絶対的な物として譲らない。傍から見てれば「どっちでも良いし、どっちでも無いよな」という外からの声も聞こえない。
反対に「どっちでも良いし、どっちでも無いよな」という見方は「優柔不断なところが日本人の悪いところ」と断じられるが、『白↔黒』の間に一点の「これは黒っぽい/これは白(しろ)っぽい」という色に同一の価値観は必要なのか?
今、世界的には「分離主義」が蔓延って、他人の価値観を受け付けない、他人を否定するのが、お流行(はやり)らしい。「ちゃんと、違う意見の人の話も聞いてるよ」という人もいるが、おそらく聞いてるだけで自分の頭の中で練(ね)られていない。結局、自分の意見を最終的通したい。
練らないなら、馬や鹿でもできる。
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