かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

「富嶽百景」から「津軽」までのあいだ

2022-08-27 23:01:13 | 日記

蚊取り線香の香りが好きで寝る前に焚いていたのと、窓を開けて寝入ったこともあり、目覚めたら喉に痛みを覚え、悪寒が走った。線香の脂が喉に炎症を生じさせ、風邪の原因となったのだろう。

富士登山のトレーニングどころか、昼間の半分を薬を飲んで横になっていた。

昨日、久々太宰の「富嶽百景」を縦読みのできる青空文庫「えあ草子」のお世話でスマホ走り読みをしたが、やはりもう一度紙で読んでみようと書棚を探したが、見つけられなかった。今の新潮文庫なら「走りメロス」に掲載されているが、「走りメロス」を買った記憶がなく、それでは「富嶽百景・走りメロス」が表題の岩波文庫かといえばその記憶も怪しい。ほんとうに文庫で読んだか記憶もあいまいになってきたので、横になって、YouTubeの朗読(シャボン朗読横丁さんの女性の声で)を、ちかくにあったノートに要旨を走り書きしながら聴いた。45分くらいの朗読時間なので寝入ることもなくおしまいまで聴けた。

聴きながら、昨日の「月見草」の件を整理できた。作品の中で、太宰が天下茶屋の前庭に拾い集めてきた月見草(マツヨイグサ)の種を播いた理由として、その後すぐに、あのバスで老婆と出会ったくだりを書いている。〈俗なる富士に対する聖なる月見草〉、安っぽい文学論的言い方をすれば、そんな思いがあったのか。

この「富嶽百景」を読み終えると、「人間失格」や「ヴィヨン妻」など戦後の傑作と言われる作品や、「晩年」などの初期の作品の読後感と違って、ある種のペーソスが背景にあるとしても、あの名作「津軽」と共通したノスタルジックな安堵感をもよおす。どこかおかしく明るいのだ。

横になりながら、Wikipediaを開き、改めて太宰の「生涯」と「作品」を読み返してみたら、「さもありなん」。富嶽百景は、太宰が、昭13年に恩師的存在の井伏鱒二の紹介により甲府市在住の石原美知子さんとお見合いをし、翌14年に結婚をするいきさつを秘めた「心の平和時代」到来ともいえる時期に書きあげられた短編だ。学生時代から作家活動に入った、その直前までは、酒、薬物、女という三点セットに苛まれ、Wikipediaには「乱れた私生活」と記されている。

 

この「心の平和時代」は、驚くことに日本が戦時下にいたり、大方の国民が敗戦期のどん底に陥る昭和44年ころまで続き、この時代に、太宰は体制に媚びするわけではなく、薬物にもアルコールにも女にも影響されず、この間、曲がりなりにも3人の子供に恵まれた家庭の幸福を味わい、旺盛な創作活動を展開している。名作「津軽」も1944年の作品。この間は、いわばオイラから言わせると「傑作の森」であり、もっともっとこの時代の作品を読みたくもなってくる。あれだけ国民が疲弊した時代に、創作欲が湧いていたのが不思議だ。

やがて、敗戦し、太宰の「心の平和」は、あっという間に瓦解し、再びアルコール、薬物、女という魔の手に冒され、敗戦からわずか3年後の1948に彼は命を絶ってしまう。Wikipediaを読むと、この戦後の精神的没落のありさまを心配した井伏さんが、彼の死に到る直前、「御坂峠の天下茶屋で太宰を静養させる計画」を企てたというが、かなわなかったようだ。

もし仮に、この天下茶屋再訪が叶ったら、もしかしたらあの茶屋の娘さんもまだ店にいて、「ほら,先生の蒔いた月見草、こんなにいっぱい咲いています。」と太宰を喜ばせ、あるいは立ち直るきっかけを与えたのかもしれない。

御坂峠の天下茶屋、この秋ますます行ってみようという気になった。そうだ、文庫本、また買ってザックに入れて行こう。

 

 

太宰治Wikipedia

シャボン朗読横丁さん「富嶽百景」

 

     

      

  

 

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