ここのところ小春日和が続いたので川越水上公園の林を歩いたり、比企郡川島町を自転車でさまよったりしました。
金色の 小さき鳥の形して
銀杏(いちょう)散るなり 夕陽の丘に
川越水上公園の銀杏並木の風景に中学生の時に習った与謝野晶子の歌を思い出しました。教えてくれた松村薫先生の表情と共に。
今日12月1日は妻の母の90歳の誕生日です。
なぜか、読んで日の浅い石牟礼(いしむれ)道子さんの文章を紹介します。『熊本日々新聞』に連載中です。石牟礼さんがお母さんの言葉をつづって居られます。。
「 葭(よし)の渚」 作家・石牟礼道子さん
(11)「御恩を忘れまいぞ」
(略)
九州の地図を眺めてみると、胎内を思わせるような不知火海、八代海がある。その中に小さな獅子島と天草上島・下島・御所浦島が寄り集まっている。右手対岸に水俣がある。その水俣の海辺から西北へ目をうつし獅子島をこえて真横を見ると、梶木岳という山をもった半島がある。首にあたるような道路を沿岸に沿って逆にのぼれば、宮野河内[みやんがわち]という地名が見つかる。母「はるの」は、「宮野河内の人方の御恩を忘れまいぞ」と言い続けて亡くなった。
私がかの地で生まれた時、村をあげて誕生祝いをしていただいたのだそうだ。八十年も前である。身重であった若い母には村の女衆たちが、その頃珍しかった夏ミカンを毎日さし入れて下さったと語っていた。どの家にご厄介になっていたのだろうか。八十年も前のお礼を親の分まで言いたく思っていた。
正月も近いというのに宮野河内を流れる海風は暖かかった。お寺のばばさまのものやさしい声が、はるのの耳によみがえった。
「ここらあたりはなあ、水に不自由しよりますけど、ああた方、うちの井戸は、自由に汲みなはりませ」
じつは水のことが一番心配だったのである。はるのは父親の松太郎と一緒に大蓮寺に挨拶に伺った。浄土宗の寺である。海岸道路を造るのに、人夫衆三、四十人をひき連れて宿をきめ、賄わねばならない。脳を病んで外に出たがらない母に替わって、はるのが一切を任された。親族の女衆が三人、手伝ってくれることになった。
「海岸をひとまわり、舟でまわり申したが、思いのほかの難工事になるやもしれませぬ」
はるのの婿の亀太郎も連れての挨拶まわりであった。話は順調にすすんだ
(12)親とはこうあらねば…
「こういう波のおだやかな、人当たりのやわらかい村に、土方どもがくり出してきて、おさわがせ申しやす。幸いに乱暴者はおらんようで。島原・長崎界隈から来ており申す。休みの日には、顔見知りをかねて、こちらさまの薪割りなり、庭掃きなり、言いつけられ申せ。働き者が揃うておりやす」
母はるのは父親松太郎のことばを感心して聞いていた。おだやかな海岸の農漁村に、他国の若者らが二、三十人入ってくる。宮野河内[みやんがわち]という村で、村にとっては不安な出来ごとかもしれない。道路工事というものは、行く手に崖があったり、岩石があったり、たまには火薬を使ってハッパをかけたり、危険な仕事でもあった。よくよく地元の人々と呼吸を合わせておかないと後で困ることが出てくる。米の調達、魚や野菜の調達、薪を集める、ぜんぶ地元の人々のお世話にならねばならない。
人夫衆の楽しみといえば、食べることと飲むことだけといってもよかった。人夫衆を分宿させてもらう家々の相談もしておかねばならなかった。どの家に何人くらいという見当も、事情に詳しい大蓮寺さまに相談した方がよい。村の人々は信心ぶかくてお寺とのつながりが深い。
「ご相談でござりやすが、この度の道路工事には地元の衆に働いてもらおうと思うており申す。半分ほどは、わしが家の常雇いを連れて参りやす。あと半分は、地元のこちらから出しては下さるまいか。畑を見れば、麦の仕納[しの]も大方すんだ様子。唐芋[からいも]も掘りあげの時期を越したように見え申す。いかがなものじゃろう。一軒々々の事情もあるやに思われるが、人数を出しては下さるまいか。賃金は農閑期がいくぶんなりともうるおうように考えておりやす。我が家の常雇いの組とさして差はつけ申さぬ。畑仕事や魚とりとは幾分勝手がちがうと思うが、ちがう正月が来ると思うて、働きに来ては下さるまいか。いかがじゃろう」
それに、道路工事は村のゆく末にもかかわることである。ご相談しながら、手落ちのないようにしたいものだ。
松太郎の言葉には真実味があふれていた。人の親とはこうあらねばならない、はるのはそう思った。この時、彼女は身重の躰[からだ]で、七カ月目に入っていた。
持参した酒のせいもあって、座がうちくつろいできた。村の主だった者が集められていた。盃のやりとりがはじまった。
(13)産湯には井川の水を
同席していた顔役の一人が表情をくずして言い出した。
「いやあ吉田さん、失礼ながら、われわれは勘ちがいしておりましたぞ。誰が言い出したか、島原の丸山遊郭方面からテキ屋の親分が、ごろつきの子分どもをばわんさと連れて、乗りこんでくるそうじゃけん、女、子どもは外に出すなちゅうて、用心しておりやしたぞ」
「いやいやいや」
あちこちで照れたような声がもれ出た。
「まあまあ、吉田さん」
和尚さまが言った。
「何しろ、舟人[ふなと]の衆が船着き場に揚がっても、家々から首が出る土地柄でござり申す。よその人間が、いっぺんに三、四十人も揚がるとなれば、村がざわつくのもむりからぬことでして」
「はい、わしもそのへんは心得ており申す。若い者たちには、くれぐれ、土地の人方にご無礼のなかよう、とくに年頃の娘御たちには近づかんよう」
どっと笑い声があがった。
「いやいや」
松太郎は座り直した。
「冗談ではなしに、組のきまりをはずしたものは即刻クビじゃ、二度とやとわぬと申し渡してあり申す。わしがいうのも何じゃが、心根のよか若者ばかりでござして、婿にとってもよかような若者もおりやす。働き者ばかりで、目えかけてもらえれば、この上ないことで」
婿にとってもと言ったのには実感があった。はるのの下に六つちがいの妹がいたのである。
ご隠居さまにはとくに気をつかって挨拶に出向いた。前の代の坊守さまである。見るからにやさしげなこの元坊守から嬉しいことを言われた。
「お前さま方ならば、うちの井川の水をばさしあげましょう。ここは水の少なか土地でなあ、それぞれ苦労しよります。おうちは力仕事で、水に不自由なされましょう。何、下洗いは海の水で一切すまして、上り水に井川を使えばよござんしょ」
この申し出はじつにありがたかった。ほとほとと目許やさしい老女にはるのは言われた。
「見れば、その胎には、ややさまが宿っておらいます様子。うちの井川の水が、産湯になるやもしれませぬなあ」
お寺に相談したことが幸いをもたらした。臨月にまだ間があるはるののもとに、村の女房たちが夏みかんを届けはじめた。それは「ややさま」が生まれた後まで続いた。
(14)命名は道の完成を予祝
やや児の誕生祝いは村をあげてやってもらった。思いもうけぬことであった。はるのは折にふれて、道子にそのことを語った。
「宮野河内の人方の御恩を、くれぐれも忘れんように。まるで宝物のように可愛がっていただいた」
その言葉ははるのの遺言となった。
はるのの言い遺したかの地の人たちは、もうこの世におられまい。八十年も前のことである。よそ者の赤児の誕生を祝ってくださった宴を思い浮かべる。方々の家から鯛やタコ、イカ、ナマコなどが持ち寄られ、婆さまたちが三味線を弾き、芸達者たちが踊ってくれたそうで、私が出生の地を天草と思うのは、右のようなゆかりあってのことである。
赤児の名は道路の完成を予祝して、道子と命名された。
「正月前の日雇い稼ぎを」という祖父松太郎の申し出には、たちまち人数が集まった。はるのは、選に洩れた家々から野菜なり、魚介類なりを仕入れるようにつとめた。
それらのことを「かりそめの縁と思うてはならぬ」と松太郎は言うのであった。
「道というものは、人それぞれのゆく手を定めるものぞ。心しておかねばならん。どういう未来が見えるか。足もとの用心をわれわれはつくっておかねばならん。人さまとの縁がつながってこそ、道というものは生まれる」
この人物は表情も声もしごくおだやかで、一族の長としての風格があった。
(略)
出典 熊本日日新聞 2008年11月21日~24日 http://kumanichi.com/feature/kataru/ishimure/20081121001.shtml
金色の 小さき鳥の形して
銀杏(いちょう)散るなり 夕陽の丘に
川越水上公園の銀杏並木の風景に中学生の時に習った与謝野晶子の歌を思い出しました。教えてくれた松村薫先生の表情と共に。
今日12月1日は妻の母の90歳の誕生日です。
なぜか、読んで日の浅い石牟礼(いしむれ)道子さんの文章を紹介します。『熊本日々新聞』に連載中です。石牟礼さんがお母さんの言葉をつづって居られます。。
「 葭(よし)の渚」 作家・石牟礼道子さん
(11)「御恩を忘れまいぞ」
(略)
九州の地図を眺めてみると、胎内を思わせるような不知火海、八代海がある。その中に小さな獅子島と天草上島・下島・御所浦島が寄り集まっている。右手対岸に水俣がある。その水俣の海辺から西北へ目をうつし獅子島をこえて真横を見ると、梶木岳という山をもった半島がある。首にあたるような道路を沿岸に沿って逆にのぼれば、宮野河内[みやんがわち]という地名が見つかる。母「はるの」は、「宮野河内の人方の御恩を忘れまいぞ」と言い続けて亡くなった。
私がかの地で生まれた時、村をあげて誕生祝いをしていただいたのだそうだ。八十年も前である。身重であった若い母には村の女衆たちが、その頃珍しかった夏ミカンを毎日さし入れて下さったと語っていた。どの家にご厄介になっていたのだろうか。八十年も前のお礼を親の分まで言いたく思っていた。
正月も近いというのに宮野河内を流れる海風は暖かかった。お寺のばばさまのものやさしい声が、はるのの耳によみがえった。
「ここらあたりはなあ、水に不自由しよりますけど、ああた方、うちの井戸は、自由に汲みなはりませ」
じつは水のことが一番心配だったのである。はるのは父親の松太郎と一緒に大蓮寺に挨拶に伺った。浄土宗の寺である。海岸道路を造るのに、人夫衆三、四十人をひき連れて宿をきめ、賄わねばならない。脳を病んで外に出たがらない母に替わって、はるのが一切を任された。親族の女衆が三人、手伝ってくれることになった。
「海岸をひとまわり、舟でまわり申したが、思いのほかの難工事になるやもしれませぬ」
はるのの婿の亀太郎も連れての挨拶まわりであった。話は順調にすすんだ
(12)親とはこうあらねば…
「こういう波のおだやかな、人当たりのやわらかい村に、土方どもがくり出してきて、おさわがせ申しやす。幸いに乱暴者はおらんようで。島原・長崎界隈から来ており申す。休みの日には、顔見知りをかねて、こちらさまの薪割りなり、庭掃きなり、言いつけられ申せ。働き者が揃うておりやす」
母はるのは父親松太郎のことばを感心して聞いていた。おだやかな海岸の農漁村に、他国の若者らが二、三十人入ってくる。宮野河内[みやんがわち]という村で、村にとっては不安な出来ごとかもしれない。道路工事というものは、行く手に崖があったり、岩石があったり、たまには火薬を使ってハッパをかけたり、危険な仕事でもあった。よくよく地元の人々と呼吸を合わせておかないと後で困ることが出てくる。米の調達、魚や野菜の調達、薪を集める、ぜんぶ地元の人々のお世話にならねばならない。
人夫衆の楽しみといえば、食べることと飲むことだけといってもよかった。人夫衆を分宿させてもらう家々の相談もしておかねばならなかった。どの家に何人くらいという見当も、事情に詳しい大蓮寺さまに相談した方がよい。村の人々は信心ぶかくてお寺とのつながりが深い。
「ご相談でござりやすが、この度の道路工事には地元の衆に働いてもらおうと思うており申す。半分ほどは、わしが家の常雇いを連れて参りやす。あと半分は、地元のこちらから出しては下さるまいか。畑を見れば、麦の仕納[しの]も大方すんだ様子。唐芋[からいも]も掘りあげの時期を越したように見え申す。いかがなものじゃろう。一軒々々の事情もあるやに思われるが、人数を出しては下さるまいか。賃金は農閑期がいくぶんなりともうるおうように考えておりやす。我が家の常雇いの組とさして差はつけ申さぬ。畑仕事や魚とりとは幾分勝手がちがうと思うが、ちがう正月が来ると思うて、働きに来ては下さるまいか。いかがじゃろう」
それに、道路工事は村のゆく末にもかかわることである。ご相談しながら、手落ちのないようにしたいものだ。
松太郎の言葉には真実味があふれていた。人の親とはこうあらねばならない、はるのはそう思った。この時、彼女は身重の躰[からだ]で、七カ月目に入っていた。
持参した酒のせいもあって、座がうちくつろいできた。村の主だった者が集められていた。盃のやりとりがはじまった。
(13)産湯には井川の水を
同席していた顔役の一人が表情をくずして言い出した。
「いやあ吉田さん、失礼ながら、われわれは勘ちがいしておりましたぞ。誰が言い出したか、島原の丸山遊郭方面からテキ屋の親分が、ごろつきの子分どもをばわんさと連れて、乗りこんでくるそうじゃけん、女、子どもは外に出すなちゅうて、用心しておりやしたぞ」
「いやいやいや」
あちこちで照れたような声がもれ出た。
「まあまあ、吉田さん」
和尚さまが言った。
「何しろ、舟人[ふなと]の衆が船着き場に揚がっても、家々から首が出る土地柄でござり申す。よその人間が、いっぺんに三、四十人も揚がるとなれば、村がざわつくのもむりからぬことでして」
「はい、わしもそのへんは心得ており申す。若い者たちには、くれぐれ、土地の人方にご無礼のなかよう、とくに年頃の娘御たちには近づかんよう」
どっと笑い声があがった。
「いやいや」
松太郎は座り直した。
「冗談ではなしに、組のきまりをはずしたものは即刻クビじゃ、二度とやとわぬと申し渡してあり申す。わしがいうのも何じゃが、心根のよか若者ばかりでござして、婿にとってもよかような若者もおりやす。働き者ばかりで、目えかけてもらえれば、この上ないことで」
婿にとってもと言ったのには実感があった。はるのの下に六つちがいの妹がいたのである。
ご隠居さまにはとくに気をつかって挨拶に出向いた。前の代の坊守さまである。見るからにやさしげなこの元坊守から嬉しいことを言われた。
「お前さま方ならば、うちの井川の水をばさしあげましょう。ここは水の少なか土地でなあ、それぞれ苦労しよります。おうちは力仕事で、水に不自由なされましょう。何、下洗いは海の水で一切すまして、上り水に井川を使えばよござんしょ」
この申し出はじつにありがたかった。ほとほとと目許やさしい老女にはるのは言われた。
「見れば、その胎には、ややさまが宿っておらいます様子。うちの井川の水が、産湯になるやもしれませぬなあ」
お寺に相談したことが幸いをもたらした。臨月にまだ間があるはるののもとに、村の女房たちが夏みかんを届けはじめた。それは「ややさま」が生まれた後まで続いた。
(14)命名は道の完成を予祝
やや児の誕生祝いは村をあげてやってもらった。思いもうけぬことであった。はるのは折にふれて、道子にそのことを語った。
「宮野河内の人方の御恩を、くれぐれも忘れんように。まるで宝物のように可愛がっていただいた」
その言葉ははるのの遺言となった。
はるのの言い遺したかの地の人たちは、もうこの世におられまい。八十年も前のことである。よそ者の赤児の誕生を祝ってくださった宴を思い浮かべる。方々の家から鯛やタコ、イカ、ナマコなどが持ち寄られ、婆さまたちが三味線を弾き、芸達者たちが踊ってくれたそうで、私が出生の地を天草と思うのは、右のようなゆかりあってのことである。
赤児の名は道路の完成を予祝して、道子と命名された。
「正月前の日雇い稼ぎを」という祖父松太郎の申し出には、たちまち人数が集まった。はるのは、選に洩れた家々から野菜なり、魚介類なりを仕入れるようにつとめた。
それらのことを「かりそめの縁と思うてはならぬ」と松太郎は言うのであった。
「道というものは、人それぞれのゆく手を定めるものぞ。心しておかねばならん。どういう未来が見えるか。足もとの用心をわれわれはつくっておかねばならん。人さまとの縁がつながってこそ、道というものは生まれる」
この人物は表情も声もしごくおだやかで、一族の長としての風格があった。
(略)
出典 熊本日日新聞 2008年11月21日~24日 http://kumanichi.com/feature/kataru/ishimure/20081121001.shtml
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます