水俣を訪ねることが決まったのであれこれと勉強することにしました。
昨年春、完全年金生活者になったとき、<東京・水俣病を告発する会>のニュースの購読を停止したので現在の状況がわからなくなっているのです。皆さんにも参考になるかも知れませんのでぼくの学びの様子をときどき掲載します。
最初にぼくと<水俣>との関わりを書いた文章を紹介します。2000年5月発行の『木苺』97号「おもいで話ー私の出会ったひとびと⑥」の一部です。HPを閉鎖したので書き写します。
「チッソ東京本社での交渉の時、隅っこに居させて貰いました。川本さんをはじめとする患者さんたちの問いかけは、わたしの生き方にも確実に影響をあたえるものでした。心から哀悼の気持ちをおつたえします。」
水俣病患者さんのリーダー川本輝夫さんの追悼文集『熱意とは、事ある毎に意志を表明すること』に、久保田好生さんがぼくのハガキを紹介してくださった。
99年8月1日に東京で開かれた川本さんを偲ぶ集いで、土本典昭さんや原田正純さんなどのはなしに耳を傾けながら、ぼくは感動に浸っていた。30年間もこの問題とかかわり続けてきた久保田さん(都立高校教員)のお陰でこの集いに参加できたのだが、水俣病事件にかかわってぼくが何かをしたということはない。
池商の教員有志で、何年間であったか、月々相思社設立のためにカンパを送り続けたぐらいである。だが、チッソ東京本社での交渉を垣間見た患者さんたちの姿は、今日なお鮮明である。
授業で<水俣病>をテーマにしたのは1972年。石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読み、映画『水俣ー患者さんとその世界』(東プロ、2時間46分)をみ、クラス毎に生徒の有志が文集をつくった。そして、寺本元熊本県知事の出張尋問のため水俣から患者さんが見えるというので、6月25日の集会に生徒の希望者を募って参加した。
川本さんの迫力ある姿に接したのは73年3月、裁判勝訴のあと、東京本社で行われた直接交渉の時である。
田上義春さんや浜本二徳さんなど映画で何度も見たことのある患者さんや石牟礼道子さんも居られた。ぼくは部屋の隅っこに居させて貰っただけだが、島田社長に迫る川本さんの言葉はきびしいがやさしく、人の生き方を問うものだった。
ぼくはこれらの人々の言葉や行動に、忘れかけていた故郷の室戸の漁師であるおんちゃんらの姿を重ね合わせても居た。
自分の言葉で、臆することなく、人であれ、と迫る。公害地獄をみ、体験した深みから、無責任な殺人企業の社長に対し発せられる言葉なのだが、それは優しさに満ちていたと、ぼくは今でも思っている。
チッソ水俣工場の労働者が公害という名の人殺しに荷担してきたように、「単位の奴隷」から「賃金の奴隷」へと姿を変えることによって、ぼくらは日本の現実ー公害地獄の中にますます深く絡め取られていく。どうしたらそうでない生き方が出来るのか…。
川本さんは、ぼくにも生徒にも問いかけていた。
1955年秋に弟が急死したとき、親戚のおばあちゃんたちのご詠歌がぼくをなぐさめ落ち着かせてくれたのだが、患者さんたちも、ときどき、白装束でご詠歌を詠いながら東京の集会に参加した。
ぼくはここでも患者さんたちの優しさに癒され、活力をいっぱい貰ったように思う。
岩瀬政夫さん(都立高校教員)が<水俣>と出会って、全国を巡礼したときの日記を『水俣巡礼ー青春グラフティ70~72』として公刊(現代書館)された。ぼくのような表面的な関わりとは違う、患者さんとの出会いの中で、岩瀬さんが絶句しつつ学んだ「人間を癒し、突き動かす水俣の力」について書いている。一読をおすすめしたい。
昨年春、完全年金生活者になったとき、<東京・水俣病を告発する会>のニュースの購読を停止したので現在の状況がわからなくなっているのです。皆さんにも参考になるかも知れませんのでぼくの学びの様子をときどき掲載します。
最初にぼくと<水俣>との関わりを書いた文章を紹介します。2000年5月発行の『木苺』97号「おもいで話ー私の出会ったひとびと⑥」の一部です。HPを閉鎖したので書き写します。
「チッソ東京本社での交渉の時、隅っこに居させて貰いました。川本さんをはじめとする患者さんたちの問いかけは、わたしの生き方にも確実に影響をあたえるものでした。心から哀悼の気持ちをおつたえします。」
水俣病患者さんのリーダー川本輝夫さんの追悼文集『熱意とは、事ある毎に意志を表明すること』に、久保田好生さんがぼくのハガキを紹介してくださった。
99年8月1日に東京で開かれた川本さんを偲ぶ集いで、土本典昭さんや原田正純さんなどのはなしに耳を傾けながら、ぼくは感動に浸っていた。30年間もこの問題とかかわり続けてきた久保田さん(都立高校教員)のお陰でこの集いに参加できたのだが、水俣病事件にかかわってぼくが何かをしたということはない。
池商の教員有志で、何年間であったか、月々相思社設立のためにカンパを送り続けたぐらいである。だが、チッソ東京本社での交渉を垣間見た患者さんたちの姿は、今日なお鮮明である。
授業で<水俣病>をテーマにしたのは1972年。石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読み、映画『水俣ー患者さんとその世界』(東プロ、2時間46分)をみ、クラス毎に生徒の有志が文集をつくった。そして、寺本元熊本県知事の出張尋問のため水俣から患者さんが見えるというので、6月25日の集会に生徒の希望者を募って参加した。
川本さんの迫力ある姿に接したのは73年3月、裁判勝訴のあと、東京本社で行われた直接交渉の時である。
田上義春さんや浜本二徳さんなど映画で何度も見たことのある患者さんや石牟礼道子さんも居られた。ぼくは部屋の隅っこに居させて貰っただけだが、島田社長に迫る川本さんの言葉はきびしいがやさしく、人の生き方を問うものだった。
ぼくはこれらの人々の言葉や行動に、忘れかけていた故郷の室戸の漁師であるおんちゃんらの姿を重ね合わせても居た。
自分の言葉で、臆することなく、人であれ、と迫る。公害地獄をみ、体験した深みから、無責任な殺人企業の社長に対し発せられる言葉なのだが、それは優しさに満ちていたと、ぼくは今でも思っている。
チッソ水俣工場の労働者が公害という名の人殺しに荷担してきたように、「単位の奴隷」から「賃金の奴隷」へと姿を変えることによって、ぼくらは日本の現実ー公害地獄の中にますます深く絡め取られていく。どうしたらそうでない生き方が出来るのか…。
川本さんは、ぼくにも生徒にも問いかけていた。
1955年秋に弟が急死したとき、親戚のおばあちゃんたちのご詠歌がぼくをなぐさめ落ち着かせてくれたのだが、患者さんたちも、ときどき、白装束でご詠歌を詠いながら東京の集会に参加した。
ぼくはここでも患者さんたちの優しさに癒され、活力をいっぱい貰ったように思う。
岩瀬政夫さん(都立高校教員)が<水俣>と出会って、全国を巡礼したときの日記を『水俣巡礼ー青春グラフティ70~72』として公刊(現代書館)された。ぼくのような表面的な関わりとは違う、患者さんとの出会いの中で、岩瀬さんが絶句しつつ学んだ「人間を癒し、突き動かす水俣の力」について書いている。一読をおすすめしたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます