「あの日を忘れない!新潟港追悼集会」に参加された藤田さんが一文を寄稿してくれたのでそのまま紹介します。藤田さんは14日、埼玉から車で駆けつけてくれました。
追慕・追悼 藤田勝久
12月14日、午後1時半より、新潟西港中央埠頭にて追悼式が
行われた。
51年前の1959年12月14日、午後2時9分に清津港に向け
船は出港して行った。
その時刻、2時すぎに51年後の埠頭で「アリラン」を絶唱する女性は
オペラ歌手、田月仙さんである。
彼女の声は、港の緑青色の冷たい波間を越えて港外遥か清津に
届くかのようであった。
Iさんと話をする。
「あの日、この港から船に乗りましたよ。 8歳でした。 何も分らず
はしゃいでいましたよ。 一家、10人で行ったのですよ。」
坂中英徳氏が話をしている。
「亡くなる前、日本婦人は、頭を日本に向けて埋葬するよう遺言した。」と。
Iさんは言う。
「うちのかあさんも、同じこと言いましたよ。 だけど、頭を日本に向けた
ら見にくいと思って、こういう風に斜めにして、日本が見えるように埋葬しまし
た。」
彼は、朝見かけた人が夕方には死んでいる1997年の大飢餓の時代に
妻子を連れて脱北する。 2年後、ロシアを経て新潟空港に辿り着いた。
港に来て埠頭に立ち寄ったが、その日、新潟は猛吹雪で彼の子供は必死で
彼の服を掴んで歩いていたという。
軍役10年を勤めあげ頑健には見えるが、もう59歳、今後の平安を祈らず
には いられない。
Iさんは言う。
「2,3年のうちに、あの国は解放されますよ。 間違いないですよ。」と。
(蛇足)脱北してきたAさんは「日本」は遺言でも禁句だから実際は「東海(トンへ)」と言ったとのことでした。「東海」は日本海を指す朝鮮語です。(けいすけ)
追慕・追悼 藤田勝久
12月14日、午後1時半より、新潟西港中央埠頭にて追悼式が
行われた。
51年前の1959年12月14日、午後2時9分に清津港に向け
船は出港して行った。
その時刻、2時すぎに51年後の埠頭で「アリラン」を絶唱する女性は
オペラ歌手、田月仙さんである。
彼女の声は、港の緑青色の冷たい波間を越えて港外遥か清津に
届くかのようであった。
Iさんと話をする。
「あの日、この港から船に乗りましたよ。 8歳でした。 何も分らず
はしゃいでいましたよ。 一家、10人で行ったのですよ。」
坂中英徳氏が話をしている。
「亡くなる前、日本婦人は、頭を日本に向けて埋葬するよう遺言した。」と。
Iさんは言う。
「うちのかあさんも、同じこと言いましたよ。 だけど、頭を日本に向けた
ら見にくいと思って、こういう風に斜めにして、日本が見えるように埋葬しまし
た。」
彼は、朝見かけた人が夕方には死んでいる1997年の大飢餓の時代に
妻子を連れて脱北する。 2年後、ロシアを経て新潟空港に辿り着いた。
港に来て埠頭に立ち寄ったが、その日、新潟は猛吹雪で彼の子供は必死で
彼の服を掴んで歩いていたという。
軍役10年を勤めあげ頑健には見えるが、もう59歳、今後の平安を祈らず
には いられない。
Iさんは言う。
「2,3年のうちに、あの国は解放されますよ。 間違いないですよ。」と。
(蛇足)脱北してきたAさんは「日本」は遺言でも禁句だから実際は「東海(トンへ)」と言ったとのことでした。「東海」は日本海を指す朝鮮語です。(けいすけ)
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