川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「北朝鮮で暮らすということ」 韓錫圭さん

2012-12-31 07:53:49 | 韓国・北朝鮮

2012年12月31日(月)

昨日は年賀状の宛名書きをしました。藤井伸さん、洪大杓さん、日高正人くんから来た賀状が出てきました。もう会うことができなくなった人たちです。

 「登り来て かえり見すれば 伊豆の陸(くが) 裳裾となりて 富士見ゆるくに」 藤井伸(大島高校・元同僚)

 「ようやく 立ち上がりつつ あります」  洪大杓(友人・「弟」)

 「昨年は自分も合計8ヶ月ぐらい入院してしまい、母親の痴呆が進み、6月に老人ホームへ入所しました。息子の顔も名前も忘れてしまい残念です。今年は穏やかな年にしたいものです。自分も現在、抗がん剤で3週間に一度の上京です」 日高正人(大島高校・元生徒)


 

北朝鮮を脱出してきた友人の講演録を読みました。折に触れて直接お聞きしている話ですが、友人たちにもぜひ読んでもらいたいと思います。

 想像を絶する寒気の中で年を越す人たちを想います。

(全文は文末に表示したHPで読めます。終わりの部分だけ掲載します)。

「北朝鮮で暮らすということ」 韓 錫圭

(省略)

大量餓死の時代

 みなさんは不可解に思われるかもしれませんが、どうして北朝鮮は世界で一番ひどい食糧難を経て、大量の餓死者を出したのか。それを理解できない方がいらっしゃると思うのですが、私が最初に行った時に、社会主義という経済のシステムをすごい疑問に思ったのです。

まず、農業システム、日本で農家の方は自分の持っている田んぼや畑にこれを植えたら一番収益になる、自分の持っている土地に対して充分理解したうえでやりますよね。ところが北朝鮮に行ってみたらそうではないんですよね。今年、農業はどういうふうにする、5月1日から田植えをする、そう、上で指示をしたら北の端から南の端まで全部5月1日からヨーイドンと田植始めれ!となるんですよね。

そうしたら、北の端は稲がこれくらいにしかならないし、南の端は伸びすぎているかもしれない。関係ないんです。5月1日から全国の農民が競争なんです。毎日放送でじゃんじゃんやるわけです。どこの農場は何%植えた、どこの農場はこれぐらいだ、と。適地適作なんて関係なく農業が進められる。

 

働かない幹部たち

 農業も工業もそうですけど、幹部たちは働かない。農業だと一番末端の作業班というのですが、作業班の班長でも働かない。その作業班には朝鮮労働党の責任者がいる。農民同盟の責任者がいる。青年同盟の責任者がいる。婦人同盟の責任者がいる。すでに4人、それに班長で5人。それは絶対働かない。本当に何にもレッテルのついていない人間しか働かない。そのレッテルの付いていない人間が働かない人の分まで働かなくてはダメじゃないですか、だから加重になるわけです。

ところが、農民と言うのは都市が支援することになっているんです。農繁期になると学生、会社員全国から行って田植を手伝うわけです。秋の刈り取りもそうなんです。そうすると農民は沢山来た支援者たちに、あれしろ、これしろと言えばいいのです。北朝鮮では指導農民といいます。直接働かない。指導だけすればいい。だから、専門の農民が農業をやるわけじゃない。全国がそういうシステムになっていているし、農業のやり方自体が上からこうやれと言う指示で動く。

 そうなるとどうなるか。土地がだんだん疲弊します。収穫量が減って行きます。治産治水をしない。幹部でなきゃ生きていけない。そういう社会なんです。工業も同じです。ひとつの作業班で各役人は全部働かない。上からは有給はどれくらいと決めてきます。でも実際の現場では、なんでもいいから小さなレッテルがついていれば働かない。一番下っ端しか働かない。そうするとバランスが取れないじゃないですか。北朝鮮の本物の農民と本物の労働者は、自分の背中の上に何人の人間を養っているか、そう思っていました。

経済はどんどん落ち込んであたりまえのシステム、私は飢餓の時代になった時、本当に悔しかったです。私が北朝鮮に行って、北朝鮮について勉強して知識を持ってみると、世界中で北朝鮮ほど地下資源の豊富な国はありません。本来ならば、世界で最高の暮らしができる国土を持っているのが北朝鮮です。無い鉱物はありません。今北朝鮮が核兵器を持っているかどうかといつも騒いでいます。ウランが出るからやっていることなんです。輸入してやらなければならないなら、北朝鮮はできません。ソ連の核開発の最初は北朝鮮のウランでやった。そう言われるほど北朝鮮にはウランがあります。

 

社会主義システムへの疑問

 社会主義と言うシステム自体に私は疑問を持ちました。北朝鮮で現実を見た時、他の社会主義国家はどうなんだろうと考えました。その頃はまだ、ほかの社会主義国家の映画も見せていましたし本も外国のものがたくさんありました。そういうものを見ていると、レーニンのときにすでに、社会主義計画経済のひずみがソ連の出版物や映画にも出ています。それから長い時間を経てソ連が崩壊する前くらいのソ連の出版物を見ると賄賂作戦、上役に賄賂を使わないとダメな、現象も出ています。ソ連だけではなく、中国の本を見ても社会主義というシステム自体がそうならざるを得ない、そういうものじゃなかったのか。ヨーロッパの社会主義国家がざーっと崩壊した時に、あぁ、なるべくしてなった結果なんだと思っていました。でも、北朝鮮ほどひどかったかどうかは分からないのですけど。

 

配給だけに頼る階層は死んでいった

 飢餓の時代を考えてみたら、私は今でもその時代がフラッシュバックすると夜中でも本当に跳び起きます。さっきも言ったように、配給というシステムで成り立っていた社会で配給が遮断された時、大量餓死が起こったわけです。本当にすごいありさまでした。300万人、数字で300万、戦争でない、平和な時代に300万というのは恐ろしい数字です。

朝出勤するために外へ出ると、冬なんかは雪が降って一晩たつとアイスバーンになります。その道のあちこちに人が倒れています。近寄ってのぞいて見て、目が動いている人はまだ生きている。目がじっと固定している人はもう死んでいる。大人は倒れても何も言いません。でも子どもは母ちゃん、腹減ったよ―、1日中怒鳴ります。自分の親に向かって怒鳴っているのじゃないです、道行く人が自分の声を聞いてだれか振り向いて、誰かがパンのひとかけでも握らしてくれないか、そういう期待のもとで怒鳴るわけです。私が考えるに、お前もっと腹減るのに、どうして叫ぶんだよ、と思うのですが。

その叫び声が止まった時が、その子の死ぬ時なんです。考えられないでしょう、日本ではお医者様は食いっぱぐれしない職業だと言われます。一番先に、大量に死んだのがお医者様、教員、科学者、知識人。その人たちは配給にだけ頼って生きていましたから。それに社会主義国家ではインテリ層は基本階級じゃないと宣伝されています。普通は御主人が会社で働くと奥さんは専業主婦になって内職をします。その内職の方がお金になります。おかしいでしょう、正規の会社員として働いているご主人より、手内職をしている奥さんのほうがお金を稼げる。でも北朝鮮はそういう状況なんです。

 私が一番初めに日本に入って来た時、まだ在留資格も得られない時、働けないので内職をしたことがあります。西陣織のネクタイを作る内職をしました。1本1万円で売るネクタイ、あれはみんな手で縫うのですが、1本つくりあげて60円です。手内職というのはそれくらい安いのです、日本では。いくらしたって、自分の食べる分にはならないじゃないですか。ところが北朝鮮ではそうじゃない。私が行った頃には、イグサに似た草で編んだカバンとか、帽子とか、そういうものを輸出していたんですけど、みんな女性の手内職なんです。すごく器用で。その内職の収入がご主人の収入の何倍にもなる。私が大学を卒業して勤めた時、初任給60円くれました。額面は60円なんですが、冠婚葬祭があるとか、職場で今度の土日はどこかの橋の現場で道路工事をしないとダメだとか、それに使う道具とか材料とか、みんなその会社でしないとダメなんです。それを従業員が負担するのです。月給からピンハネしてしまうんですよね。最後残るのは配給を取るお金が残るならいい月で、残らない月はマイナスになってしまうんですよ。生活は維持できない。

でもお医者様とか科学者、技術者、学校の先生とか、みな大学卒のインテリですよね、そういう人たちは資本主義的な方法で金を儲けちゃいけない、内職も正規の労働じゃないので資本主義的とみなされるんです。だからやっちゃダメ、御主人の給料で配給をもらう、それ以外は考えられない。そういう状態で生きていた。工場地帯はご夫婦ともども会社勤めをしていて、配給で暮らしていた。そういう所で配給がパタリと止まったら方法がないわけです。だからバタバタ死んだ。おびただしい数の人たちが死にました。

 

人災としての飢餓

 うちの嫁は優しいので、私が朝出勤する時に嫁に言うのです、誰かが家に物乞いに来たら絶対何もやるんじゃない、外で、道端やヤミ市などで子どもでも手を出して、あなたが食べ物や10円札でも持っていたら、あげてもいい。でも家に訪ねて来た人間には絶対何もやるんじゃない。

そうしたら、ある日、家へ帰ってきたら近所の、まっ黒けの男の子がいるんですよね、どうしたのと聞いたら、どうしたらいいんでしょう、お腹が空いたと言ってきたから、ごはんにキムチをのせて、スプーンを付けて、外に行って食べなさいと言ったら、家の中で食べてそれから出て行かないんです、と。十日くらい居たんですかね。追い出そうと思ってもガッチリ家のモノをにぎって出ないんですね。必死になって。家に帰ったらお腹が空くから。近所の子ですがその親に言ってもしょうがないんです。親は自分が食わせられないから知らん顔なんです。嫁がなんとか連れ出してほしいと言いにいったのですが、食わせられないからしょうがないと。最後に私の娘婿が来て、出しました。お母さん、そんな方法じゃダメ、ビニール袋にご飯を一杯と、おかずを入れて下さい、と言うんですね。その子のところへその袋を持って行って、これをやるから俺についてこい、と。その子は食べ物を見て、出て行く方がいいか、居座っていた方がいいか、見比べて考えて、やっぱりやめたと思ったらしい、そうしたら婿が最後に一発なぐりました。恐怖心を持たせて、それで連れ出しました。

 ものすごい数の人が死にました。1994年、5年、6年、7年、最高に死にましたよね。どのくらい死んだか。私は2番目の娘婿を連れてその実家の田舎に行ったら、道でその娘婿は友達に会ったんですね。お母さん、ちょっとあの子と話してくるから、と。戻ってきたら手に紙束を持っているんですよ。A4の紙を四つ切にした紙を5センチ厚さくらい持っているんです。お母さんこれ見て下さい、と。見たら名前 ○ ○○、性別 男、年齢 ○○、その他 5名と 書いてある紙です。この紙きれ一枚が5人分なんです。死体を5人処理したってことだったんです。一番最初、餓死者が出始めた頃、ひとりひとりを埋めました。大量になるとそうできない、集めて処理します。行政機関に専門の部署がありました。その部署が、ひとり死体を処理したら朝鮮のお金で300円くれたのです。ところが政府がその金を出しきれなかった。だから、こんなに溜まったんです。行政機関の上から、金が付いたから取りに来いって言われて、取りに行くための死体処理の紙がこれくらいあったんです。四つ切の紙がこれくらいあったら何人になります?それくらい沢山の人が死にました。

 朝鮮労働党の党会議、党員の何%か参加しないとできない会議を構成できないくらい、死にました。私はそれは絶対に天災じゃないと思っております。どこまでも人災です。私は政治がどれほど恐ろしいものであるか、本当に骨身にしみて思い知らされました。子どもたち家族を死なせないために、その時初めて、日本に居る親に向かってまとまった金が必要ですと連絡しました。それまで私は親にまとまって何かしてもらったことは無かったのです。送ってくれたお金が日本円で25万でした。それでは足りなくて親しいお友達が足してくれて、食堂を経営しました。経済が金正日の手に負えなくなったから、個人経営をしてもいいという、そういう時期があったのです。そこで家族が食べて、利益金として残ったものは中国製のトウモロコシを買って、飢え死にしそうな人をあつめておかゆでも食べさせるそういう機関があったのですが、そこへ持って行きました。国際的に北朝鮮が手を挙げて、食糧援助が必要ですと言って初めて食料が入ってくるようになったじゃないですか、そのあと、一定期間、餓死は止まったのですけど、このごろまた、それに近い様相を呈しているようです。

 

食糧支援の必要性を訴える

 私は日本に居た小さい時、第二次大戦のドイツのことを、どうしてそこまで行くんだろう、ドイツにも科学者や良心的な人はいたのにどうしてそういうナチスのユダヤ人虐殺や世界的な戦争を出来たんだろう、と思っていました。でも自分がそのシステムの中に入ってみたら、どうにもならないということが分かりました。いったん権力を握ったら、その権力を手放さないためにはどんなことでもやる。

北朝鮮の強制収容所に私の知っている人もいっぱい行きました。今もそうじゃないですか。金正雲体制も受け継いでいますからね。でも私は二度とあんなにひどい飢餓の時代は訪れてほしくないと思っています。ほかの人たちは私に言います。北朝鮮なんか食糧支援したところで、みんな軍隊とか上の奴らが分捕ってしまうんだから、送る必要は無い。そうじゃないと私は訴えます。確かに上の奴らは分捕ります。でも少数の人間がその食料を食べる訳じゃないんです。それは金と替えるために横取りする訳なんです。それでその食料をヤミ市に流します。末端の人たちは金を出さないと食べられません。でも品物があれば、買うために必死になって何かをやって、手に入れる。でももともと品物が無かったらどうにもならない。大量餓死が出た時は、国際支援が無かったから、食糧自体が無かった。食べるものが無かった。どういう宣伝をしたと思います?牛やウサギが食べるものは人間も食べられる。冬に木の葉っぱも集めろ。ピョンヤンは別だと言いましたが、そんなところでもトウモロコシの根っこを掘って職場へ持ってきて納めろ、そうしないと配給券をやらない。そういう時代がありました。地方の人達は草の葉っぱでも木の葉っぱでもいいから集めろ、そして、各家庭ごとにどんなものをくれたか。酵素だと思うんです。ベイキングパウダーに似たような粉を分けてくれたんです。それを木の葉っぱとか、水分といっしょに混ぜて寝かせると食べられるようになる、というんです。私もやってみました。すると、ちょっと発酵するんじゃないでしょうか、ドロドロした感じになります。口に入れましたが、とてものどを通るような代物ではなかった。

 ものが無いとどうにもならないんです。だから支援物資を入れる必要は無い、というのには私は反対です。入ってほしい。そうしたら餓死者は出ない。正直、支援物資はたくさん入って、もらいましたけど、ただでもらったことはありません。ヤミ市に行ったら、最初はアメリカや韓国から来たことを隠すために袋をばらして他の容器に入れていましたが、沢山入ってくるから追いつかない。後になったら、アメリカ、韓国などの袋ごとヤミ市で売っていました。買って食べる食糧でも無いとダメだ。入れるなと言う意見には賛成していただきたくないんです。

出典「北朝鮮で暮らすということ」●http://www.chikyukotobamura.org/forum/salon121027s.html


最新の画像もっと見る

コメントを投稿