![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/8e/d2818df8b07c9c76023de296f6c36bc6.jpg?1706773952)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/8b/92d69330ee45abe324c08bbd21763f44.jpg?1706773952)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/d0/a637af15af49764752eec3b85459edbd.jpg?1706773952)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/fc/66aac20729fed04d194acec89b7d643e.jpg?1706773952)
団地といったらこれだよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/3b/191b2f0798922fec250a7b0353c0d618.jpg?1706773955)
広島県と岡山県の一部のみが
集合住宅ではなく新興住宅地
の事を団地と呼ぶ。
元々は住宅公団が開発建設し
た最先端集合住宅街が団地と
呼ばれた。公団だから団地。
文化住宅とも呼ばれ、1960年
頃にシステムキッチン、リビ
ングダイニング、ベランダ、
風呂、水洗トイレがあるモダン
な最新様式の洋風環境の住宅が
団地で、抽選により入居できた。
ただし、収入制限もあり、一定
額以上の基準収入、基準の安定
した職業層(企業勤めや自営、
弁護士、医師等)でないと応募
資格が無かった。
団地は1950年代当時の最先端の
夢の住宅であるので、大森山王
の団地などは立地も高級住宅地
にあって「白亜の御殿」などど
呼ばれた。それが団地だった。
今でいう中流以上でハイソより
やや下の層が入居していたのが
団地だった。金出せば誰でも入れ
るのではなく、審査と抽選があ
ったのだった。団地に住む勤め
人は大抵通勤で都心部に出勤
していた。
まだ一般住居は都内でさえも
トイレは汲み取りが当たり前、
サンマを焼くには軒先の外で
七輪で、風呂は戸建てでも銭
湯で、という住宅事情だった
戦後昭和30年代(1955~1964)
においては、団地は夢のよう
な洋式生活ができる憧れの住
居だったのである。都市部に
住む国民の垂涎の的。
応募に都会の人たちは殺到し、
その倍率はとんでもない倍率
となっていた。まったく当選
しない。うちが都内都心部から
湘南の郊外の新開発新築団地に
当選した時、両親は歓喜で手を
取ったという。
大抵は5階建て、エレベーター
無しの建築だった。うちは3階
の角部屋だった。
どの団地も一棟あたりの日当た
りは抜群で、付近に学校病院も
あり、スーパーマーケットも団
地内にあって、国民的住環境と
しては、当時国内ダントツで整
備されていた。郊外の立地の場
合、団地内まで最寄り駅から路
線バスも開通し、生活するのに
一切の不便は無かった。間取り
は2DKから3LDKが一般的だった。
分譲と賃貸の両方の棟が同じ団
地内にあった。
日本国内の団地大普及により、
住宅環境が変化して、核家族化
と地方から都心部への移住が日
本の歴史の中で加速した。
日本の戦後高度経済成長の国民
的都市-郊外連結型生活住宅の
象徴が団地だった。
団地の住環境の整備の成功こそ
が、日本経済が奇跡的な戦後の
大復興を遂げた土台だったとい
っても過言ではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/ad/ede2c63ca43b7be9edf8f1ba21632e14.jpg?1706773956)
これは昭和36年1961年の都内
の団地。私が住んだのは神奈
川県の湘南の団地だったが、
造りは全く同じ。団地の風景
だけを見たら、どこの団地か
判別するのは難しい。
子どもたちは父兄に手を引か
れているので、季節は春、団
地内にある幼稚園への入園式
の日あたりだろう。私もこの
ような園児だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/2a/7bfc88382408249e3aaf109a90bacfc1.jpg?1706773955)
この子どもたちは私より5〜10
才ほど歳上だろう。私はこの
写真が撮影された1961年には
1才で、まだ団地住まいで
はなく東京目黒区の戸建て
賃貸住宅住まいだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/6b/7b234a6b6f05ce664f07c14aa5cdf99f.jpg)
目黒は目黒でとても良かっ
たが、同世代の子どもが大
量にいる住環境を求めて、
両親はほうぼうの団地募集
に応募していたようだ。
たまたま神奈川県の団地に
当選したので、私は東京生
まれなのに神奈川県育ちと
なって神奈川に縁ができた。
生まれ東京、育ち神奈川と
いう私の人生のルートがで
きた。そして高校は都内文
京区だったが、上に進学後
の学生時代にまた神奈川に
戻って来た。選び住んだの
は子ども時分に住んだ事が
あった馴染み深い横浜だっ
た。
たまたまの偶然だが、その
学生時代から社会人の時に
住んだ横浜市内のある町は
近隣住民も何もかも抜群の
場所だった。嫌な思いは一
つとして無かった。
今まで住んだ場所で住民の
人柄や区政市政周辺環境で
歴代トップはダントツで新
宿区西早稲田だが、第二位
は横浜のその場所だ。
団地の特徴は、同じ生活レベル
の国民が集住したという特徴が
あった。そのため、文化度や
意識レベルも等しいものがあ
ったし、一切の差別も不当な
排斥意識も行動も無かった。
皆無。
共同住宅地域とはそういうもの
だったし、個人的エゴや見栄や
虚栄心を押し通す人は存在しな
かった。全員生活レベルがまっ
平で同じだったからだ。御殿に
住んで別荘でバカンスを楽しむ
上流階級ではなかったが、中流
階級の上のほう、というような
国民生活レベルの人たちが住ん
でいた。全国的に進学率が低か
った時代にあっても、高校大学
進学率は極めて高い。文化的で
民度の高い人たちが団地に住ん
でいた。
それが住宅公団の団地だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/c9/d12ce8b724f624e1b8ae5eabcb6de3f6.jpg?1706773983)
芝生の空き地広場が必ずあって
子どもたちはそこで野球をした
りコマを回したりメンコをした
りして遊んでいた。
ここで昭和少年たちは社会性を
学んだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/93/4b6abcdc04269a8e47ff7f1570f5a94f.jpg?1706773983)
団地とは一般的には公団の集
合住宅をいう。
新興開発住宅地を団地と呼ぶ
のも間違いではないが、自分
らの言語のみが全国基準であ
ると思い込むのは、広島県人
はやめたほうがいい。
狭い特定地方の地域では通じて
も、日本では通用しないからだ。
こういうのが団地。
地元言葉で地元でのみ概念
を語る際には問題は無いが、
これが団地だという概念を
知識としてでも知っていな
いと、都市開発や住宅事情
を国民として論じる時には
通用しない。おらが村は全
国区ではないからだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/98f835f2962bbe7fbc5d04c3652a1b8a.png)