くっそつまらねえ映画。
鑑賞に堪えないので途中で
視聴を停止。
台詞がすべてくだらない冗
談で占められている。
脚本がクソ。
これが面白いというのなら
ば、米国人の知性が疑わし
い。
久しぶりにドZ級の映画を
視た。って最後まで観てな
いけど。
本当に堪えられない製作費
の無駄遣いだ。
好きなハル・ベリーが出る
ので観ようとしたが、彼女
よくこんなクソ映画に出た
なぁ。
58才のハル・ベリーが53才
のマーク・ウォールバーグ
と中高のハイスクールでの
同級生という設定。
ハル・ベリーは米国諜報機
関THE UNIONのメンバーで
ド素人のマークをスカウト
する。
というところまで観た。
あまりに台詞がクソで英語
でF(P-----)なので観るのを
やめた。
ホントにくっそつまらぬく
だらない映画。
完全に製作陣の自慰映画だ。
観ないほうがよいです。
同じくだらないならよっぽど
『0093 女王陛下の草刈正雄』
のほうがいいぜ(笑
全編ドリフだが。というか
ゲバゲバ90分。
世の中の移り変わりには不思議
なものがある。
ここ10数年前頃から、1980年代
の空前絶後のバイクブームの頃
とは決定的に異なるバイクシー
ンが日本で展開されてきた。
それはホンダのスーパーカブブ
ームだ。
だが、すまん。
本当にまことにすまんのだが、
カブの事を「オシャレ」だとか
思った事は私は一度も無い。
これは私の私的概念だけでなく
実際に本質はそうなのではなか
ろうか。カブの良さの本質は
オシャレとかそういう類、そ
うした感性とは180度真逆だと
思う。
徹底した実用性、完成された
エンジンシステム、AK47小銃
のような無敵の耐久性、廉価
大衆性、等々がカブの魅力で
あり実力なのではなかろうか。
これは登場した1958年からず
っと今でも。
その実力から実用車として
スーパーカブは歴史上多くの
人々に重用されて来た。
それが本来のカブらしさであ
り、カブの持ち味を活かした
カブならではの使用法なので
はと思う。
あるいはセカンドバイクとし
て趣味者が好きなようにいじ
り倒したりする趣味性の高い
二輪として。
決してシティを走るオシャレ
なタウンビークルではない筈
だ。
だが、ホンダがカブ人気を逆
手に、取って着けたオシャレ
キャンペーンをやってから
女性や若者たちもカブ好きを
公表し始めた。
1980年代にはその圧倒的な
実用実力をライダーたちは
認めながらも、くっそダサ
とっつぁんバイクとして実
はカブは捉えられていた。
これはもう全国区で。
カブに乗るとしたらダジャレ
で乗るようなものだった。
スズキからギャグというバ
イクチョロQのようなモデ
ルが出た時のように。
だが、今やカブは一つのカブ
世界というカテゴリーを築い
ている。カブ世界の発信源は
和歌山だったか奈良だったか。
それと漫画アニメの影響も
強いだろう。
まあ、ダサいとっつぁんバイク
という全国的印象(社会現象
だった)が希釈されたのは歓
迎されるべきだろうが、カブ
は決して今でも「オシャレ」
なものではない。
カブがオシャレ、カブはオシャ
レ、それは絶対にまやかしだ。
カブの良さや実力はそのような
軽佻浮薄なレッテルとは真逆の
骨太で無骨で超絶さにこそある。
ちなみに、私が12才で初めて
自分の力で運転した発動機付
二輪車は広島県三原市内で、
叔父のスーパーカブだった。
祖父の自宅敷地内で。
めちゃくちゃ面白いので笑い
が止まらなかった。
中一になる時で、何かで親族
が集まって30人程家に泊まっ
ていた。
私も首都圏から三原に来行組
だった。
その休みには毎日のように一
つ学年が上の東京のイトコと
取り合うようにカブに乗って
いた。叔父もフツーに乗らせ
る。「道路に出るなよ~」と
言いながら。
敷地内で乗ってたのに警察官
が来て免許証見せろとか言って
たが、親戚の叔母が応対して
敷地内だからという事でパス。
てか、私有地内に本官君は令
状もなく入ってくんなよ(笑
女子校生さえもが抱くカブへ
のイメージは、1980年代は
これだった。
1980年代の歴史的金字塔二輪
劇画である『バリバリ伝説』
(1983〜)での描写。第2話目。
【転倒】暗峠をスーパーカブ
で攻めたら本当に大惨事が起
きてしまった…。バイク女子
C125 原付
全然攻めてないけど。
バックから攻めたのかな(笑
これは世にも珍しい転倒。
急坂で速度が落ちたので仕切
り直そうと一度停止したら、
そのまま坂下に二輪車がバッ
クして運転者滑り落ちての転
倒。
というか、ブレーキ利かなか
ったのだろうか。
ブレーキ要素外だろうなぁ。
前輪はきちんとロックさせて
るのに、そのまま路面ミュー
が消失して滑って後退してる
から。
後ろに進んで転ぶとは想定外。
これは気の毒な転倒だ。
公道では速さではない。安全
が第一だ。
その安全も、公道の路面の断
面形状、カント、砂利や砂の
堆積等々の面から考察して、
左側に寄って一定速度でサス
に仕事させずにトロッコのよ
うに回るのが安全なのではな
い。
バイクを乗りこなす以前に路
面を乗りこなす事こそが安全
に繋がる。
一番危険なのは速度云々では
ない。
一番道路の左側に寄って一定
速度でタイヤに面圧をかけず
にダラリと回るのが旋回では
一番危険なのだ。
そして、多くの初心者はそれ
をやって、さらに後ろブレー
キで制動できるかと思って踏
み込み、ほぼ転倒する。
動画配信サイトでの公道での
旋回時の転倒はほぼ全員がそ
れだ。限界バンク角以上の寝
かしによる車体接地での転倒
を除いて。
それはオートバイの運転が下
手だからだけでなく、運転以
前に走る場所を間違っている
からだ。
走る場所はたとえタイヤ1本
分でさえも、路面からマシン
への挙動を惹起させるファク
ターは大きく変わって来る。
公道はサーキットではないの
で、公道でのベストラインは
サーキットのベストラインと
は大きく異なる。
これは路面形状から来る物理
的理論的なものだ。
公道で速くとも一つも偉くも
なんともない。
二輪の公道走行では転ばない
走者こそが最優良走者である
のだ。
公道とサーキットは何もかも
が異なるが、同じ点もある。
それは「いつ、どこで、どう
やって回頭させるか」という
点だ。
その位置は公道とコースでは
理論上同一ではないが、走り
の組み立て方、考え方は同じ
だ。
この瞬間でも、回頭性の違い
が如実に出ている。#19本間
選手の後ろの2台は#19の位置
まで進んだ段階でも#19と同
じ旋回速度での回頭はできて
いないだろう。速度を抑える
か膨らむかのどちらかである
のはこの瞬間場面から読み取
れる。
[NHKスペシャル] 熊本 阿蘇の
大草原は絶滅危惧種の宝庫
受け継がれる野焼き 火山と
生きる
新・映像詩 里山 第2回 NHK (youtube.com)
阿蘇の草原は毎年新たな命を
得て青々と繁る。
荒ぶる火山の活きる山だが、
命の環を繋ぐこの世の楽園の
ような草原が人の手によって
縄文時代から育まれている。
人によって人と自然の調和が
弁証法的な方法で採られてい
る。
いきものの生命の息吹が培わ
れる場所。
それが阿蘇だ。
【絶対行くな】第3回立入禁止
区域(八王子・府中・奥多摩・吉祥
寺・三鷹など)
行かないほうがいい都下の
場所。
暴力団の事務所には笑えた。
全国の町どこにでもあるが
な(笑
こちらもシュールだぜ。
東京の酷道。
【絶対行くな】多摩地域の酷道
(都道)5選(八王子、町田、奥多摩など)
でも、広島県三原市の北に
抜ける峠道「恵下谷(えげだ
に)」のバス通りは、1960年
代にはもろにこんな感じだ
ったよ。東京から夏休みに
遊びに行ってぶったまげた。
で、離合不能だから、路線
バスと鉢合わせしたら、バ
スは下がらないから、対向
車が狭い峠道をバックで待
避所まで後退するのよ。
それまたおどれーた。バス
はスクールバスのような小
さな三原市営バス。
ちなみにその峠道が開通する
までの三原市から北側に抜け
る道は谷底の川沿いのこれだ
った。いや、まじで。
三原という場所は、戦国時代
末期城下登場時以降ならず明
治以降、つい最近まで町から
外に出るにはこのような道し
かなかった土地。東西北を山
に囲まれ、前は海。
まともな道は存在しなかった。
これほんと。
海沿いの国道が開通したのは
昭和30年代の事だ。
恵下谷も谷下に拓かれた大八
車がやっと通れる程の道だっ
た。
(三原市恵下谷/2010年代/
撮影私)
山を削って作られた現在の
三原市恵下谷の峠道。現在
も路線バス通りだ。拡幅さ
れたのはつい最近の事。
1960年代末期などはもろに
上掲の都道酷道のような道路
だった。
三原市営バスは平成末期に
経営破綻の為、バスは現在
は私営会社が運行させている。
遠くに見えるのが三原市街地。
遠方が四国の阿讃山脈。
近くの山は左が筆影山。
右が竜王山(秦の山)。
この撮影場所は備後国だが、
向かいの山々は安芸国だ。
これが三原。
のどかではない田舎町。
江戸期からの住人も今は市街
地外部の農村部を除いてほぼ
いない。今は殆どが外からの
流入者で構成されている。
明治以降には埋め立て湾岸部
は工業化され、工場労働者と
して多くの人間が外部から転
住して来た。
気性は全く以て穏やかではな
い。三原市民の性格は全国各
地の炭鉱町の気性に非常に似
ている。特に九州飯塚・田川
の気性にそっくりだ。
飯塚の気性はどういうものか
というと、1960年代には酔っ
た炭鉱夫が電柱に登り、上か
ら火をつけたダイナマイトを
投げたりしてた土地。
また、池での高圧電流で一気
に魚を獲るのは遊んでいた小
学生が浮いたので禁止された。
さらに市議会で革新議員を
「しぇからしか!」と議場で
ぶん殴った議長の小指は無か
った。そういう土地が飯塚。
今は多少薄まったが三原市も
そうした土地柄ととても人的
気性が似ている。これ、事実。
コンパクトでインフラ等の面
では住みやすい街だが、人的
質性は旧炭鉱町のそれに極め
て近似だ。脅迫、恐喝、窃盗、
強盗、殺人がよく起きる街。
交通マナーも極めて悪い。
良くない面は宜しくないから
みんなで直すように努力しよ
うよ、と市民としての立場か
ら言うと「あんたぁ、三原が
嫌ならあんたが三原から出て
行きんさいや」と逆切れする。
巨大造船所の総務部長でさえ
そのような非常識な感情的態
度で広島県特有の集団排斥手
法で横暴な対応に酒席で一変
する。凡そ大会社の部長とも
思えない態度と考え方。
そんな民度の土地。
なお、スポーツや武道の団体
においても、違法で不正な収
賄や汚職が社会的に明るみに
出て、それを糾すとスポーツ
選手や武道修練者が今後練習
できないようなパワハラを為
して指摘者を排外排斥排除す
る。
そういう土地が広島県だ。
これ、嘘ではなく事実。
恐ろしい土地だ。ファシズム
が公然と横行する地方国家だ。
佐藤摩弥選手が女子レーサー
史上初のGⅠ制覇!!
「GⅠ第47回日刊スポーツ
キューポラ杯」優勝戦
オートレースって結構カッチョ
いいのよ。
ロードレース世界選手権GP125
で1995年1996年に日本人で初
めて2年連続世界チャンピオン
になった青木治親選手もオート
レースに転向したが、もっと
衝撃的だったのがSMAPの森
且行氏がオートレース選手に
なった事だった。あれは世の
中の多くの人が驚いた。
オートレースはロードレース
よりも門戸は狭く、選手養成
学校で厳しい教育を受けなけ
ればならないが、その学校に
は誰でも入れる訳ではない。
というのも、選手候補生の学
校に入学するには体重が60kg
以下でないと受験資格がそも
そも無いのだ。
女性警察官の受験資格の身長
制限は撤廃されたようだが、
オートレースには受験資格そ
のものに体重制限がある。
そして競馬と同じく厳しい
訓練と教育と躾が為される。
試験も厳しいが、そのテスト
過程には人格・素行検査と性
格・心理検査という項目があ
る。
要するに人間的に不適格者と
試験官が判断したら学校に
入校さえできない。
品行方正で人格に優れ、感情
的にならず冷静で判断力の優
れた者だけが入校できる。
国内国外のロードレースや他
のモーターサイクルレースは
人格や素行等の試験は一切無
い。
誰でもサーキットライセンス
を取り、規定時間を走ってそ
の証明書を協会に提出して
レースライセンスを申請すれ
ばロードレース選手のノービ
スライセンスは取得できる。
(国際Aまで上がるのはレー
ス成績の規定ポイント以上
の獲得者)
だが、オートレースは競馬の
旗手が誰でもなれるのとは違
うのと同じで、非常に厳しい。
オートの選手が総じて全員が
ジェントルマンであるのは、
その資格獲得のための学校へ
の入校の厳しさと訓練教育過
程での厳しさがあるからだろ
う。
同じオートバイの世界でも万
国で最も厳しい人間的な躾を
されるのが日本固有の二輪レ
ースであるオートレースの世
界だ。
過去には1960年代末期に船橋
オートで黒い霧事件という事
件も発生したが、その後は綱
紀粛正が徹底されている。
一応公営ギャンブルだが、選
手が住む世界はまるで武道の
ような礼儀と人間的人格を重
んじる世界がオートレースの
世界。
尤も、武道といっても日本の
今の柔道界などは選手も協会
も関係者たちも堕落しきって
いるが。
先のオリンピックでも日本の
代表選手が柔道家として最低
の態度を複数人が見せており、
それを持ち上げる大馬鹿な風
潮も蔓延している。
ギャンブルレーサーではある
が、オートレースやボートや
競馬の選手から柔道選手たち
はその品行を見習ったほうが
よい。
小汚い態度、礼儀を忘れて勝
ち負けだけを優先する斯道へ
の取り組み方、身内贔屓の開
き直りは柔道家たちはやめて
もらいたい。
佐藤摩弥選手の日本オートレ
ース史上初の女性レーサーの
G1制覇は素晴らしかった。
オートレースがこのレースか
ら74年前に始まって初めての
快挙だった。元モトクロス選
手。
オートレースも競馬もモーター
サイクルロードレースも、素
晴らしい点がある。それは男
女混走である事だ。同じ土俵、
同じ世界で性別の差なく正々
堂々と真っ向勝負ができるの
だ。
スポーツの中に本当の意味で
の男女平等の世界が存在して
いる。
自分で転んだバイクさえ起こ
せず、女の性を売り物にして
男を利用して男に寄生する贋
ライダーである姫ライダーな
どは存在が許されない本物の
ライディングの世界が存在し
ている。
1989 MFJ GP TT-F3 青木宣篤
が全日本国際A初優勝 & GP250
史上最年少高校生国際A級
青木信篤選手が国際A級F3
で初優勝のレース。
青木選手の横にはキャンギ
ャルレースクイーンの岡本
夏生当時23才(笑
TT-F3は市販車改造クラス
で、4スト400cc未満、2ス
ト250cc未満のレギュレー
ション。
1980年代当時、GP250クラ
スよりもファンの間では人
気があり、メーカーもワー
クスをF3クラスに投入する
程だった。
純レーシングマシンで戦わ
れるGP250よりも市販車改
造(ステージ3チューン)
のレースのほうが人気があ
るという日本固有のカテゴ
リーだったが、世界選手権
は純レーサーのみで戦われ
るので、レース関係者では
純レーサーでのGPクラスに
こそ将来設計では力を入れ
ていた。
だが、市販車改造クラスは
即一般公道市販車の販売成
績に直結したので、メーカー
も力を入れていた。
なお、現在は600ccクラス
(過去の250に相当)は純
レーサーでのレースではな
く、市販車改造クラスとな
っている。
GP250マシンの速さは、こ
の1989年時点で筑波で57秒
台だ。そのほんの何年か前
にはA級で1分0秒台だった
のに。
この時期、毎年いかに車が
速くなっていたかが判る。
筑波57秒台などは1983年時
点では「フレディ・スペン
サーしか出せないだろうタ
イム」などと呼ばれた幻の
タイムだった。
感覚としては陸上短距離で
100m8秒台で走るような異
次元のタイムの感じだった。