渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

備後國三原城

2025年01月15日 | open

 

<城、その「美しさ」の背景>第95回  三原城   壮大な海城の面影 鉄路の下にかろうじて

<城、その「美しさ」の背景>第95回 三原城  壮大な海城の面影 鉄路の下にかろうじて

満潮時には海中に浮かんだ「浮城」   瀬戸内海沿岸には、海上に突出するように築かれ、堀に海水が引き入れられていた海城がいくつもあった。海に浮かぶ美観を讃えて「浮城」...

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教育学部出身の人の筆による
レポート。

三原城の上に鉄道が敷設され
たのには大きな理由が二つあ
る。
それは明治新政府時代に「城
郭は野蛮な旧態の象徴である」
という明治のニワカ先進国気
性が一気に蔓延した事。
明治政府は廃仏毀釈や文化財
の破壊等、かなり乱暴な事を
していた。
一番酷かったのは、ニワカ西
欧かぶれゆえ、東京の地名を
すべて数字に変えた事だ。町
名さえ排して全て数字。

あまりにも非現実的で不便な
のですぐに
廃止にされた。
明治初頭当時は議会も国会も
無く、すべて太政官布告とい
う上からの命令に法的効力を
持たせる中央集権制だった。
そして、法制史を学ぶと具に
見えて来るが、その布告は朝
令暮改で矛盾と錯綜に満ちて
いる。
旧体制時代の武士は明治ごく
初期の欺瞞的な新戸籍解放政
により、士族になった。
日本人の階級を華族、士族、
平民の3つに分類(厳密には
その最頂点に皇族)した。
この階級制度は戦後の昭和23
年(1948)まで継続された。
皇室のみは日本の階級制度と

して現在も残っている。
生まれながらに社会的階級が
決められているという江戸期
よりも統制的な制度を明治新
政府は採用していた。
だが内実はニセモノの自由を
謳い、広島藩の士族は明治9
年に屋敷を召し上げられて処
払いされ
、広島城勤務の元武
士の
士族たちは北海道の屯田
兵の
ように寒い山の山頂に追
いやられ
た。
秩禄処分は全国に布告
され、
元武士たち=公務員は
突然無
職無収入にされた。

「自由の時代だから職を選ん
で働くのも勝手次第」という
欺瞞的な新自由主義を表看板
として。

明治政府が為した出鱈目は非
常に多く、人民の階級関係な
く国民
を苦しめ抜いたが、そ
うした
事は教科書には出てこ
ない。

美辞麗句のみが「勝った者」
たちの作る教科書には並ぶ。
士族たちが筆舌を尽くせない

苦労をした事だけは、あたか
も滑稽であるかのように「武
士の商法」として教科書には
描かれている。つぶしの利か
ない武士たちが始めた商売が
悉く失敗した例を挙げて。

だが、旧幕臣の娘たちが遊廓
身売りしなければならなかっ
た事などは一切教科書には出
て来ない。ニセモノの文明開
化の表層的な近代化を描くば
かりだ。

三原城の上に鉄道を敷設した
第二の理由は、単純に物理的
に土地が無かったからだ。
三原要害は天然の軍港城郭と
して飛び抜けて優れた地勢に
あり、戦国末期では日本一の
軍事拠点だった。これは城郭
史からも軍事史からも疑う余
地はない。
三方を急峻な山に囲まれ、前
面に海を抱く。戦国末期の重
要な海軍である水軍を出撃さ
せるのに充分の地理的位置と
地形を有する場所に戦国最末
期に築城されたのが備後國三
原城だ。
毛利一門小早川隆景によって
築城された。
小早川が転封(てんぽう)の後
に築城名人元大工の武将福島
正則が関ヶ原以降安芸備後両
国の領主として入封(にゅうほ
う)したが、広島城無断改築の
嫌疑をかけられて改易となっ
た。
三原城を実質上完成させたの
は福島正則だった。
だが、記録を読むと、福島氏
は徹底的に安芸門徒=浄土真
宗を弾圧したので、領民たち
には受けがかなり悪かった。
しかし、これは戦国期から続
く江戸初期の武将にとっては
当たり前の事だ。
一向一揆のように農民たちが
宗教と結合して団結し一揆(同
盟連合の事)による軍事力を持
つ事は武将たちの一番恐れる
ところだ。
当然、権力機構を脅かす同盟
組織である宗教は弾圧する。
仏教
もキリスト教も。
宗教は人民救済の為とかでは

なく、「政治勢力」として日
本では古くから機能していた。
また、日本のインスタント鎌
倉仏教自体は権門
として権勢
を持ち、非常に為政者にとっ
ては脅
威となる。僧兵などは
非常に
精鋭化した優秀な戦闘
員だ。

信長の比叡山焼き討ちは非道
な事のようにも伝えられるが、
武士階級の指示や政策をも無
視して私的に勝手な権力を振
舞う宗教集団は社会的にもと
ても危険な存在で
あるのだ。
まして、一向宗は団結力が高
い。浄土真宗などは現在では
統一協会やオウムや創価学会
と並ぶカルトとしてフランス
はじめ各国で「異常集団」と
して禁止されている。
信仰の自由を保障された現代
ではあるが、統一協会や創価
学会による芸能界や政財界の
耳り支配をみるに、いかに
ルト宗教の影響力が社会そ
ものを掌握してしまい、民
も国策も無力になるかが分
だろう。
そして、カルトたる宗教が支
配する土地は、民衆の気性も
極めてカルトそのものになる。
特徴は異常異様な「排外主義」
が日常的に横行する事だ。差
別も大好きな土地柄・人柄と
なり、
いくら行政が人権教育
を施そ
うとも骨の髄まで染み
ついた
集団的排外性は払拭で
きない。

これは現実的に広島県におい
て現出している事は容易に看
取できる。
広島県は集団的排
外主義の異
様なエリアだ。これはど
んな
に広島県人が否定しよう
とも
事実として現出している
ので
物理的に否定のしようがない。

そうした土壌というのは、戦
国期から続く宗教的土着性に
深く根
付いたものだろう。安
芸門徒と呼ばれる浄土真宗

けでなく統一協会も非常に

島県は勢力を持ち、また創

学会もまるで東京八王子地

のようにかなり強い土地だ。

そして、現在の日本はカルト
が政権与党となっている国と
なってしまっているのが現実
であり、事実だ。
つまり、その勢力を政権内に
取り込む連立別与党の裏筋の
思惑により、集団的強制
力を
容易に発動できる国とな
って
しまった。カルトの強大膨大
な支持基盤を利用して。


三原城は福島正則の後に紀州
から浅野家が広島城・三原城
に入った。
三原城は一国一城の決め事に
抵触させないため、江戸期に
は城ではなく「要害」として
表現されていた。
その城を破壊したのは「明治
政府の御一新」だった。

広島県三原市では地元市民に

は不思議な気風がある。
それは、現在の広島県=広島
藩を数百年に亘り統治した浅
野氏にはさして恩顧も私淑も
示さない事だ。
三原においては築城に着手し
た小早川隆景をまるで神かの
ように信奉している。
実質的に治世を最長期間為し
たのは浅野氏であるのに。
有り体に言えば「無視」とい
う風だ。
これは、何かある。
社会学的な土着性による気質
の背景が。
実質的に三原城を完成させた
福島正則に至っては見向きも
しない。
その地元民の気性には、何か
裏付けがある筈だ。
直接自分や一族が世話になっ

たのでもない遠い昔の人物を
創造主のように信奉する異様
な土着信仰。
ひとつひとつ紐解けば、真実
が見えて来るだろう。
現代のこの全国版ではない地
域的特異な気性を形成するも
のが何であるかが。
ただ、背景と構造が判明して
も、集団的排他性については
何も変わりはしないだろ
うが。
日本は言語さえもが統一され
ていない国だから。
さらには、自分とこルールを
押し通す事があたかも地方文
化の温存や地域活性化である
かと勘違いしている政策に便
乗している精神性が根強いの
で、悪しき部分を捨象しての
変革も改善も無理。
その無理さの強大さは、現実
的に別地方からこの土地に実
際に住んで生活してみないと
余人には解るまい。
エトランゼにとっては「異様」
な土地だ。

なお、日本の「国歌」は広島
県の教育現場の死人まで出し
た事件により法として制定さ
れた。
あまりにも教育現場の人間が
私的強制圧力を集団的に強行
する事により、教育関係者た
ちの自殺や心身症患者が多発
したからだ。
差別を赦さないはずの勢力が
時として集団的強制を強いて
人を死に追いやる。「正義」
の名の下に。
広島県では一時期「君が代」
そのものを知らず、歌えない
世代が多く存在した。
「君が代」を知ってその賛否
を自分自身で考えて歌う歌わ
ないを自主的に選択させるの
ではなく、強要教育としてそ
の自由意思を剥奪する事を集
団的強制力で実行していた。
それが教育か?教育者か?
結果としては、君が代国歌法
制化を後押しして「強制的に
歌う」ような構造を作り上げ
てしまった。
集団的強制が、対極にある集
団的強制を法権力として構築
させる事をしてしまった。
広島県独特の異様な歪みとは
そうした社会的な事件にもあ
りありと現れている。
根本的な部分が根底からおか
しい。
「異様」であり、「異常」で
ある。
だが、認知症患者が自分の事
を認知症であると認知できな
いように、広島県人には自分
らの行いが「異様」であると
の自覚は無い。一切。
人が人として大らかに自由に
生きる事を拒絶し、人の尊厳
を踏みつぶそうとする覚醒な
き土地。
人を狂わせる見えない何かが
憑りついているのだろうか。

 
 
 
 

 


 










 


バイクマンの気持ち

2025年01月15日 | open

 



すげーわかる(笑