渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

試斬に二つあり

2023年03月30日 | open







刀の試斬に二つあり。
一つは、刀の刃味吟味としての
様(ためし)。個体の利鈍を試す。
もう一つは、斬剣術の技の実践
による自分の技量の試し。

これは斬術稽古としての試し。
刃引きで切っている。
斬鉄剣小林康宏は切れすぎる
からだ。山田朝右衛門が刃引
で畳平一畳を切って稽古して
いたのと同じ。
この巻畳表は置き。上部分は
刺していない。置き斬である。
斬剣術の稽古としてやっている。


これは研ぎ上げ後に刃を付けて
の試し。こちらも斬術実践の
試しだが、刃付けの試刀も兼ね
ている。


私の斬術は抜刀術の一環として
の剣法として切るので、抜刀道
のように抜いて前に出て立ち止
まって振り上げて切る、という
事はしない。全て前に踏み込み
ながらとか、踏み出しながら
とか、横に移動しながら等々の
業を繰り出しながら切る。
足を止めてエイヤと切るのは
それは据え物切りだ。
私は抜刀術の中の斬刀法として
切る。
そして、それが本来の「切り」
だ。
後ろ手に縛った捕虜の斬首で
はないのだから、剣法として
斬刀法を使う。
当然、敵も刀を持っている。
その想定だ。
その為、こちらは軸線を外して
斬り込む。袈裟はそれ。
真っ向は真っ直ぐに進むが、
試斬ではほぼ使わない。敵が
こちらの正中線を捉えようと
するのを外しながら斬る。
合撃(がっし)や切り落としの
業以外ではそれ。

よく試斬と称して、足を止めて
振りかぶって物体を切っている
人が大勢いるが、直截に言うと、
ほとんど武術としては意味が無
い。イアイや剣術の業として切
らないと剣の術にはならない。
それでも、私の斬剣術とて被切
物体は静止しているので、稽古
にも限界がある。
ゆえに、型(カタ)ではない形
(カタ)で切る場合も、あくまで
も仮想敵と見立てて切らないと
武術としての刀法にはならない。
足止め腕振りの切りはよほど
明確な目的を持たないと無意味
だ。そんな刀法はイアイにも
剣術にも存在しないからだ。
抜刀術をやっているならば、
の流の業で斬るべきだ。
剣術ならばやはり然り。
真っ向と袈裟は理論が異なる
で、そこは自分で明確な要義と
ビジョンを持つ必要がある。

たかだか巻畳表が切れたか切れ
ないかなどというレベルが低い
事をいつまでもやっていては、
剣法として何の価値も無い。
刀術は体術であるので、どの
ような動きと身体操作で、何を
どう切るのか、何のためにどう
切るのか、なぜそう切るのか、
を常に考えていないとならない。
でないと、剣法にはならない。
足止め腕振り絶対視はナンセン
スだ。
武術の動きとして試斬はやって
ほしい。

足止め腕のみの振りの切りなど
やっても、畳表などは小学生で
も切断できる。
キュッキュというまさに剣術の
動きそのもので切らないと、
何のための剣法なのか、迷路に
入り込む。
求道者(ぐどうしゃ)の方々は、
よくよく吟味されたし。

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