(ハマ帰りのため暖機中。於広島
県福山市。大学の時、新車で通
学用セカンドバイクのカワサキ
AR50を買ったので、買ったその
日に神奈川県川崎市のバイク屋
から広島県まで弾丸で24時間以
内で走り抜いた。慣らしを1日
で終わらせるためだ。真夏でも
Gジャンを着ている。ハンドル
は帰還時にはノーマルハンドル
を逆着けで低くオフセット装着
している。グローブはプロショッ
プ高井。メットはアライのスネル
規格)
革ジャンは小学生の時から着て
県福山市。大学の時、新車で通
学用セカンドバイクのカワサキ
AR50を買ったので、買ったその
日に神奈川県川崎市のバイク屋
から広島県まで弾丸で24時間以
内で走り抜いた。慣らしを1日
で終わらせるためだ。真夏でも
Gジャンを着ている。ハンドル
は帰還時にはノーマルハンドル
を逆着けで低くオフセット装着
している。グローブはプロショッ
プ高井。メットはアライのスネル
規格)
革ジャンは小学生の時から着て
いた。
主として、防寒着ではなく防護
服的な意味合いで。
アイススケートが大好きで、冬
場には屋外スケートリンクで滑
るのが常だった。
冬休みなどはフリーパス券(渓流
釣りの年券のようなもの)で滑り
放題で毎日のように滑っていた。
靴はホッケーとハーフスピード
だったが、ホッケーが多かった。
将来大学行ったらホッケー選手
になりたいなぁとか漠然と思って
いた。
現在のようなウエアは無かったの
で、転倒防護服としてオートバイ
と同じく革ジャンをスケートの時
に来ていた。
よく行くリンクは品川と横浜ドリ
ームランドだった。
スケートは5歳のときからやって
いた。5歳時には榛名湖にも滑り
に行った。天然氷の氷結湖で。
1960年代というのは、日本では
非常にスケートが人気あって、
都内23区内にも多くのリンクが
あったし、広島県でも福山にも
リンクがあった(福山のリンク
も小学生の頃によく滑った)。
横浜ドリームランドは夏に周回
プールで、冬場は野外スケート
リンクとなっていた。オーバル
サーキットみたいなリンク。
余談だが、横山剣さんは鶴見区か
ら戸塚区に転校し、ドリームラン
ドそばの中学に入った。同い歳。
横浜の原宿(笑)という所にある。
私は同じ中学に進むはずだった。
横山剣さんとは同じ中学で同級生
になってたかも知れない。
だが、私は中学に入る前に父の
転勤で持ち家を売却し移住した。
そしてのちに大学の時に横浜鶴見
に舞い戻った。
元クールスの横山さんとはすれ違
い(笑)。
もしかすっと、クラスメートにな
っていたかもしれない。
港の山下公園までは10数キロある
横浜のチベットと呼ばれた戸塚区
だが、湘南の藤沢のほうが変な場
所だ。
横浜市よりも遥か北まで市の区域
が伸びているのが藤沢市だ。
湘南じゃねえじゃん、てとこまで。
戸塚で住んでいた場所や学校から
チャリでちょいと南に行くと藤沢
市だったが、それは分かる。
だが、横浜ドリームランドあたり
からの西から西北にかけては藤沢
市なのだ。チャリで5分の隣り町(笑
ありえね~、とか小学生の当時
地図を見ながら思っていた。
横浜市六浦なんてもうほとんど
鎌倉だしさ(笑
でも、地図上の印象としては、
横浜市の中に藤沢市が長い縦棒
のように割り込んだ区割りとな
っている。
市政制度の流れの中で、なんで
ああいう行政区割りになったの
でしょうね。
そういう不思議は時々ある。
横浜市鶴見区でも、東寺尾は
鶴見区なのに西寺尾は神奈川区
だ。元々はどちらも寺尾なのに。
埼玉県さいたま市にもあって、
旧大宮市の三橋地区は、平成
大合併再編の時に、三橋1~4
丁目まではさいたま市大宮区
で、5~6丁目が西区にされち
まった。
同じ町内で区が違うのよ(笑
それって、なんかかなり無理
やりのように思える。
地域性とか生活圏とか丸無視だ
もの。
機械的に無機的に地図上だけで
線を引いて行政区を分けた感じ。
もっとしでえのがあるぜ。
長野県のある場所は、平成再編
で勝手に岐阜県にされてしまっ
た。
そこで生まれ育った奴が社内
にいたが、「出身県が長野から
岐阜に変わってしまった」と
嘆いていた。
その感覚は、たぶん、生まれが
日本てのが突然上からの一方的
な指図で「生まれ中国」とかに
なったような感覚だと思うよ。
逆に言うと分かる?生まれが
朝鮮なのに、突然自国が日本国
にされてしまったようなもの。
つまり、お上のやる事はいつの
時代も民衆の生活や実態などは
丸無視だ。国境なき意思団ての
は権力のこった。
革ジャンと同じくらいに着たの
がGジャンだった。
これも小学生の時から。
だが、Gジャンは最近は着てい
ない。
というか、持っていない。
友人の息子が中学生の時にG
ジャンがほしい、と言ってい
て、高校入学の時に私のLeeを
あげてからは私は持っていない。
中学の時は革ジャンと共によく
着たけどね。かなり。大学の時
にも着ていた。
中学の時は、Gジャン、革ジャン、
赤いスイングトップが3点セット
だった。
そういや、映画『道頓堀川』
(1982年深作欣二監督)の主人
公の邦ちゃん(真田広之)も
大学生役でGジャンを着ていた
な。
真田さんとは同い歳だが、1982
年当時の大学生はあんな恰好し
てたよ。てか、ウエスタンハーフ
ブーツも全く同じ(笑
私は学生ダンパの時に、よしゃ
いいのに体育館には床を守る為
にシートが敷かれていて、そこ
でツイストをやっていたらヒール
がもげ取れてしまった事があった。
あれには参った(笑
スニーカーの連中はノープロ。
当たり前だけどさ。
このウエスタンハーフブーツは
かなり多くの大学生が普段履き
として履いていた。
主として、防寒着ではなく防護
服的な意味合いで。
アイススケートが大好きで、冬
場には屋外スケートリンクで滑
るのが常だった。
冬休みなどはフリーパス券(渓流
釣りの年券のようなもの)で滑り
放題で毎日のように滑っていた。
靴はホッケーとハーフスピード
だったが、ホッケーが多かった。
将来大学行ったらホッケー選手
になりたいなぁとか漠然と思って
いた。
現在のようなウエアは無かったの
で、転倒防護服としてオートバイ
と同じく革ジャンをスケートの時
に来ていた。
よく行くリンクは品川と横浜ドリ
ームランドだった。
スケートは5歳のときからやって
いた。5歳時には榛名湖にも滑り
に行った。天然氷の氷結湖で。
1960年代というのは、日本では
非常にスケートが人気あって、
都内23区内にも多くのリンクが
あったし、広島県でも福山にも
リンクがあった(福山のリンク
も小学生の頃によく滑った)。
横浜ドリームランドは夏に周回
プールで、冬場は野外スケート
リンクとなっていた。オーバル
サーキットみたいなリンク。
余談だが、横山剣さんは鶴見区か
ら戸塚区に転校し、ドリームラン
ドそばの中学に入った。同い歳。
横浜の原宿(笑)という所にある。
私は同じ中学に進むはずだった。
横山剣さんとは同じ中学で同級生
になってたかも知れない。
だが、私は中学に入る前に父の
転勤で持ち家を売却し移住した。
そしてのちに大学の時に横浜鶴見
に舞い戻った。
元クールスの横山さんとはすれ違
い(笑)。
もしかすっと、クラスメートにな
っていたかもしれない。
港の山下公園までは10数キロある
横浜のチベットと呼ばれた戸塚区
だが、湘南の藤沢のほうが変な場
所だ。
横浜市よりも遥か北まで市の区域
が伸びているのが藤沢市だ。
湘南じゃねえじゃん、てとこまで。
戸塚で住んでいた場所や学校から
チャリでちょいと南に行くと藤沢
市だったが、それは分かる。
だが、横浜ドリームランドあたり
からの西から西北にかけては藤沢
市なのだ。チャリで5分の隣り町(笑
ありえね~、とか小学生の当時
地図を見ながら思っていた。
横浜市六浦なんてもうほとんど
鎌倉だしさ(笑
でも、地図上の印象としては、
横浜市の中に藤沢市が長い縦棒
のように割り込んだ区割りとな
っている。
市政制度の流れの中で、なんで
ああいう行政区割りになったの
でしょうね。
そういう不思議は時々ある。
横浜市鶴見区でも、東寺尾は
鶴見区なのに西寺尾は神奈川区
だ。元々はどちらも寺尾なのに。
埼玉県さいたま市にもあって、
旧大宮市の三橋地区は、平成
大合併再編の時に、三橋1~4
丁目まではさいたま市大宮区
で、5~6丁目が西区にされち
まった。
同じ町内で区が違うのよ(笑
それって、なんかかなり無理
やりのように思える。
地域性とか生活圏とか丸無視だ
もの。
機械的に無機的に地図上だけで
線を引いて行政区を分けた感じ。
もっとしでえのがあるぜ。
長野県のある場所は、平成再編
で勝手に岐阜県にされてしまっ
た。
そこで生まれ育った奴が社内
にいたが、「出身県が長野から
岐阜に変わってしまった」と
嘆いていた。
その感覚は、たぶん、生まれが
日本てのが突然上からの一方的
な指図で「生まれ中国」とかに
なったような感覚だと思うよ。
逆に言うと分かる?生まれが
朝鮮なのに、突然自国が日本国
にされてしまったようなもの。
つまり、お上のやる事はいつの
時代も民衆の生活や実態などは
丸無視だ。国境なき意思団ての
は権力のこった。
革ジャンと同じくらいに着たの
がGジャンだった。
これも小学生の時から。
だが、Gジャンは最近は着てい
ない。
というか、持っていない。
友人の息子が中学生の時にG
ジャンがほしい、と言ってい
て、高校入学の時に私のLeeを
あげてからは私は持っていない。
中学の時は革ジャンと共によく
着たけどね。かなり。大学の時
にも着ていた。
中学の時は、Gジャン、革ジャン、
赤いスイングトップが3点セット
だった。
そういや、映画『道頓堀川』
(1982年深作欣二監督)の主人
公の邦ちゃん(真田広之)も
大学生役でGジャンを着ていた
な。
真田さんとは同い歳だが、1982
年当時の大学生はあんな恰好し
てたよ。てか、ウエスタンハーフ
ブーツも全く同じ(笑
私は学生ダンパの時に、よしゃ
いいのに体育館には床を守る為
にシートが敷かれていて、そこ
でツイストをやっていたらヒール
がもげ取れてしまった事があった。
あれには参った(笑
スニーカーの連中はノープロ。
当たり前だけどさ。
このウエスタンハーフブーツは
かなり多くの大学生が普段履き
として履いていた。