く~にゃん雑記帳

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<奈良奉行・川路聖謨と文化財> 甲冑・刀剣に高い関心、仏像は「モノ」として評価

2012年11月25日 | 考古・歴史

【帝塚山大学考古学研究所市民講座、講師:森下恵介氏】

 最後の奈良奉行として今なお親しまれている川路聖謨(かわじとしあきら、1801~68年)。奉行の仕事には大和一国の治安維持のほか「寺社の巡見」があった。公儀(幕府)が宝物として認定した文化財がしっかり保存されているかを確認するわけだ。では川路は寺社の宝物をどう評価していたのだろうか。奈良市の帝塚山大学で24日「奈良奉行と文化財―川路聖謨が見た寺社の宝物」をテーマに市民講座が開かれた。講師は奈良市埋蔵文化財調査センター所長の森下恵介氏(写真)。

   

 川路は奈良在任中(1846~51年)のことを日記「寧府記事」に書き残している。それによると、赴任間もない46年4月9日の興福寺、東大寺、春日社を皮切りに、5月にかけて三倉(正倉院)、元興寺、百毫寺、唐招提寺、薬師寺などを次々に巡見、9月には法隆寺を訪ねている。さらに48年3月には5日間かけ長岳寺、長谷寺などを経て吉野地方を巡見した。

 東大寺では大仏そのものより蓮華座の細密な線刻に驚嘆し、正倉院では警備が手薄な中で蘭奢待(香木)などの宝物が盗難に遭わないのが不思議であると記す。仏像への評価は「仕方なきもの」「銭にならぬ仏」など総じて低い。信仰の対象というよりも「モノとして評価している」(森下氏)。多くの寺院が仏舎利を祭っていることについては本物の舎利がそんなにあってたまるものかと率直な意見を記しているという。

 一方、甲冑や刀剣類へは高い関心を示した。法隆寺の峰薬師(西円堂)には昔から刀剣や銅鏡が奉納されてきたが、山路は「武器売る肆(店)のごとく、且小間物やにも似たり……とても四五日もかからずして、みること不能」と記した。名刀などに魅入られて、気がついたら夕方になっていたという。山路は名筆・書跡も高く評価し、工芸品の材質・技術・希少性についても詳細に書き記した。

 奈良の年中行事であるお水取りや薪能、おん祭りには奈良奉行が将軍名代として参加した。だが、こうした祭事に対しても手厳しい。おん祭りの「ヨヤマカセ」の行列については「何のことに候や」「噴飯の極み」「関東には無きこと」。当時7日間続いたという薪能については「見物は難行苦行」「耳に謡曲移りたるが如し」「能ぜめも今日にて相すみたり」。お水取しに至っては「火を粗末にする法会」「去年の水を今年出して人にくるる也泥水也」とボロクソである。

 奈良公園の神鹿殺害はかつて石子詰め(罪人を穴に入れ小石を詰めて圧殺)などの厳罰に処せられた。赴任から4カ月ほどして角切りのため集めた鹿のうち1頭が誤って死ぬという事故があり、興福寺から奉行所に吟味申し立てがあった。これについて山路は「石子づめ、首切るというのは戦国以前のことなるを…」「鹿殺しの罪、死に及ぶというは梨園の戯曲に演義せしもの」として、処分を求めた興福寺の対応に驚きを隠さなかった。

 山路は在任中、古都の美しい景観を取り戻そうと町民と共に植樹活動を展開し、御陵の盗掘対策にも力を注いだ。こうした山路の文化財や景観などに対する接し方について、森下氏は「幕末の知識人に共通する〝古物観〟があった」とみる。「武士の学問の基本である儒学的価値観、漢学的素養、さらに近代的合理主義につながる考証学が底流にあったのではないか。それがその後の神仏分離、廃仏毀釈につながったのだろう」。幕臣の川路は江戸城開城決定直後、割腹ピストル自殺して果てた。

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