【「平和の礎」犠牲者24万人余を刻銘、国籍や軍人・民間人の区別なく】
沖縄戦戦跡の一つ「ひめゆりの塔」(糸満市)を訪ねた。2回目。米軍の沖縄上陸作戦開始から3カ月後の6月19日、ガマ(自然洞窟)の第三外科壕が米軍の手榴弾攻撃を受ける。中にいたのは看護要員として動員されていた「ひめゆり学徒隊」ら96人。その大半の87人(うち42人が学徒と教師)が犠牲になった。ひめゆりの塔は終戦直後の1946年4月、地元民の手によってガマの前に建立された。ガマを挟んで正面には1957年に建てられた新しい「ひめゆりの塔」。白壁には沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校のシンボルだったユリ1輪と戦没した教師・学徒の名前が刻まれている。
ガマの中を覗き込もうとしたが、柵があってよく見えない。約40年前の1975年夏、この場所で過激派の活動家が沖縄訪問中の皇太子(今上天皇)と美智子さまに火炎瓶を投げつけるというゲリラ事件があった。皇族による沖縄訪問は戦後初めて。犯人2人は6日前からこのガマに潜入していた。事なきを得た皇太子は警備担当者を処分しないよう依頼したが、県警本部長は減給処分、警察庁から警備責任者として派遣されていた佐々淳行警備課長は辞表を提出したという(受理されず)。献花した後、「ひめゆり平和祈念資料館」に向かった。亡くなった学徒の多くは16~17歳。修学旅行生たちが近い年代ということもあって真剣な表情で遺影や遺品、生存者の手記などを見つめていた。資料館の出口付近には多くの千羽鶴が掛けられていた。
次に向かったのは沖縄戦終焉の地、摩文仁の丘を望む台地にある「平和祈念公園」。「平和の広場」を中心に沖縄戦の犠牲者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」の刻銘碑が放射状に広がる。21年前の1995年6月23日に建設された。この日は沖縄での組織的戦闘が終結した「慰霊の日」。ここで毎年この日「全沖縄戦没者追悼式」が開かれる。刻銘碑は国籍や軍人・民間人などの区別なく、今も「慰霊の日」に毎年追加される。今年6月現在で24万1414人(沖縄県14万9425人、県外7万7417人、米国1万4009人など)。「沖縄県平和祈念資料館」には県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦の写真や遺品、証言集などが並ぶ。資料館の展望室から望むと、「平和の礎」の反対側に真っ白な「平和祈念堂」が平和の大切さを訴えるように輝いてそびえていた。