く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良の古い自然災害> 「過去の痕跡は今後を示唆 災害は時・所・姿を変えて繰り返す」

2012年11月11日 | 考古・歴史

【奈良教育大学の公開講座で西田史朗名誉教授】

 奈良教育大学で10日「奈良の古い自然災害―地形・地質・遺跡から知る」をテーマにした寧楽秋季講座会が開かれた。講師は地質鉱物学研究の第一人者、西田史朗名誉教授。西田氏は「過去10年間の出来事はこれからの10年間に、過去100年間の出来事はこれからの100年間に再来するだろう。古い自然事変の痕跡は今後を考えるうえで無視できない示唆を与えてくれる」と話す。

   

 奈良県の地形は吉野川を境に南北で大きく変わるという。吉野川以北では乾いた材木を曲げると折れるように「歪みの限界→破断」の結果、地震が起きる。一方、吉野川以南では餅を焼くと膨らみ破裂するように「隆起→安息限界」の結果、崩壊を繰り返す。横軸に時間、縦軸に変位(大地の動き)をとって図にすると、吉野川以北の奈良盆地では大地が階段状に突発的な動きをし、以南の吉野山地は直線の定常的な動きを示す。ただ、いずれも大地の動きは1年間に1mm、100万年で1000mのペースという。

 奈良盆地東側には南北にそそり立つ活断層がある。長さ約35kmの「奈良盆地東縁断層帯」。ここで震源の深さ10km、マグニチュード7.5の地震が起きると、最大震度が7、多くの地域で震度6となり、死者5000人余、負傷者19万人余と想定されている。活断層は地質学上では200万年前の第四紀から現在までに活動し、今後も活動すると推定される断層を指す。だが、原子力発電所関連では12万~13万年前と定義されているそうだ。

 奈良の市街地はその断層帯から西側(JR岐阜駅側)に向かって下っていく。「この地形は山側からの土石流が積み上がってできたもの」という。奈良盆地断層帯は西側から見ると屏風のようにそそり立つが、生駒山の阪奈道路も名阪国道(国道25号)も西側からの上りが急でヘアピンカーブが多い。西田氏によると「そのヘアピンカーブの下に活断層が隠れている」。

 奈良盆地には火山がないのに温泉が多い。水質を調べると、ナトリウムや塩化物を多く含む。それは昔、海が広がっていることを示す。その証拠に菖蒲池にある蛙股池からはサメの歯やイワシのうろこ、エビ・カニの化石などが見つかっている。盆地の地下深くに硬い花崗岩が広がっているのに温泉が湧くのは、岩盤がひび割れ状態になっているからだろう推測する。

 奈良には特異な景観が多い。その1つ、鍋倉渓は黒々とした岩が川を埋め尽くし、天の川伝説などもある。だが西田氏は「この石は斑レイ岩(生駒石)と呼ばれるもので、土石流のなごりとみられる」。屯鶴峰(どんづるぼう)は火山活動期の二上山から噴出した火山灰が降り積もり、その後の風化・浸食作用によって今の景観が形作られた。曽爾の兜岩や屏風岩の柱状節理の岸壁は「大きな火砕流の末端」。不思議な景観の裏には過去の大きな自然事変が関わっているというわけだ。

 一方、吉野山地については「大平原がある時期、隆起してできたとみられる。そのために山間部で河川の蛇行が目立つ」。大峰山の最高峰、八経ケ岳は過去100年間に約47cmも高くなっているという。「それが地滑りや崩落など災害の原因になっている」。地層がもろいことも吉野地方での災害の多発につながっている。吉野川両側の段丘の石は「腐り礫(れき)」と呼ばれ、ハンマーで簡単に割れるそうだ。昨年の紀伊半島大水害は記憶に新しいが、奈良県中南部は過去にも度々水害に襲われてきた。1889年の十津川大水害では山崩れが頻発、各地に天然ダムができて死者・不明者は245人に上った。

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<寧楽美術館所蔵の瓦> 白鳳・奈良時代中心の古瓦 帝塚山大博物館で展示

2012年11月10日 | 考古・歴史

【「瓦は歴史を正直に語ってくれる」と甲斐弓子特別研究員】

 古代瓦の収蔵・研究では国内有数の帝塚山大学付属博物館(奈良市)で、いま「寧楽美術館所蔵の瓦」展(24日まで)が開かれている。寧楽美術館は若草山や東大寺南大門を借景に取り入れている国の名勝「依水園」の中にある。同美術館は中国古代の青銅器や古鏡、中国・朝鮮・日本の陶磁器などを中心に2000点を超える資料を収蔵。その中には白鳳・奈良時代を中心とする古瓦類が約200点含まれている。

  

 その中で特に注目されるのが7世紀白鳳時代の山村廃寺(奈良市山町ドドコロ)出土の軒瓦。ドドコロとは随分変わった地名だが「堂所」が訛ったものといわれる。軒丸瓦(写真1)は単弁8弁蓮華文で外縁に線鋸歯文が巡る。軒平瓦(写真2)は均正忍冬唐草文で「法隆寺式」とも呼ばれる。この軒平瓦の文様をもとに、法隆寺西院伽藍創建時の軒平瓦が白鳳時代後半の製品との画期的な見解が1936年に発表されている。

   

 藤原宮は宮殿建築として初めて瓦葺きになった。その宮跡出土の軒丸瓦(写真7)は複弁蓮華文で、中央に置いた中房の蓮子(ハスの実)が1+8+8になっている。このように蓮子が中央の1個を中心に二重に置かれるのがこの時代の軒丸瓦の特徴という。

 平城宮から出土した軒丸瓦(写真18)の中には恭仁宮出土の蓮華文の模様と全く同じものがある。これは瓦を作るための型「瓦当笵(がとうはん)」が恭仁宮から、745年の平城遷都に伴って平城宮の造瓦工房に移動してきたことを示す。ただ恭仁宮出土の瓦には外縁に線鋸歯文が巡り、平城宮出土のものには凸鋸歯文が巡る。外縁が彫り変えられた理由は不明だが、遷都に伴って新たな軒丸瓦として作ったことを示したかったのではないかという。

    

 展示品の中には東大寺の堂塔に葺かれた軒瓦もあった。天平時代の末に造営工事が始められた頃のもの(写真27)と、1180年の平重衡の焼き討ちに伴う鎌倉時代復興期のもの(写真28)では文様も大きさも随分異なる。鎌倉復興期の軒瓦は従来のものより大ぶりに作られ、中央部分に「東大寺大仏殿」といった文字や梵字が刻まれている。

 同大学考古学研究所の特別研究員、甲斐弓子さんは「瓦は歴史を語る」「瓦って実に正直」と話す。「瓦は木製の笵に粘土を入れて作る。最初のうちは文様がくっきり出るが、何回も使っているうちに線が太くなったり、ぼやけたりしてくる。そのことから作られた順番が分かる。平安時代の瓦はあまり美しくないが、鎌倉時代になるときれいになる。なぜか? 多くの宗派ができ仏教文化が華を開いたことが関係しているのではないだろうか」。

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<キダチチョウセンアサガオ(木立朝鮮朝顔)> ラッパ形の大輪の花を下向きに

2012年11月09日 | 花の四季

【中南米原産、「エンジェルトランペット」とも】

 ナス科の低木で、原産地はブラジルなど中南米。日本には明治末期に渡来してきた。朝顔にも白百合にも似た大きな大輪の花を下向きにつけ、夜になると甘い香りを放つ。花の色は白と黄色の2種があり、春先から11月末ごろまで咲く。わが家の近くでもちょうど今が盛りと咲き誇っていた。花冠の長さは20~30cmで漏斗形。その形から英名では「エンジェルトランペット」と呼ばれる。

 近縁種にチョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)があるが、こちらは花を上向きに咲かせる。キダチも以前は同じチョウセンアサガオ属に分類されていたが、今ではキダチチョウセンアサガオ属として独立している。チョウセンアサガオはインドなど熱帯アジア原産で、キダチより早く江戸時代に薬用として渡ってきた。名前に「朝鮮」が含まれるのは朝鮮半島経由で渡ってきたことから「海外」「外国」の意味が込められたものとみられる。

 いずれも植物全体にスコポラミンなどアルカロイド系の有毒成分を持つ。スコポラミンには中枢神経抑制作用があり、華岡青洲は1804年、チョウセンアサガオから精製した麻酔薬を使って、世界初といわれる全身麻酔で乳がん摘出手術を行った。このことから日本麻酔科学会はチョウセンアサガオの花をシンボルマークにしている。

 キダチの「エンジェルトランペット」は大輪の花が好まれ、最近、公園などで見かけることも増えてきた。ハワイではハワイアンキルト(パッチワーク)のモチーフとしても人気。ただ有毒成分を含むだけに取り扱いには注意が必要だ。10年ほど前には栃木県茂木町で、花のつぼみをてんぷらにして食べた4人が手足のしびれやろれつが回らない食中毒症状を訴え、うち2人が入院したことがあった。

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<飛騨千光寺住職・大下大圓師> 「執着せず手放す勇気を! 心と身辺の棚卸しが大切」

2012年11月08日 | メモ

【南都二六会・仏教セミナー「いさぎよく生きる 仏教的シンプルライフ」】

 奈良の中堅寺院でつくる南都二六会(岡崎良昭会長)主催の「いのちのおしえ」仏教セミナーが7日、奈良市のならまちセンターで開かれた。講師は飛騨千光寺(岐阜県高山市)住職の大下大圓師(写真㊧)。「いさぎよく生きる 仏教的シンプルライフ」と題して講演した大下師は「人生の物語は書き換えられる。一度、心と身辺の棚卸しをして、思い切って整理し手放すことが大切。いさぎよく生きるとは『いい(↗)加減』ではなく『いい(↘)加減』に偏らない心で生きること」と話した。

 

 大下師は1954年生まれで高野山大学卒業。学問仏教ではない「実践仏教」「生きるための仏教」を提唱し、飛騨を拠点にいのちの研修や臨床スピリチュアルケアとネットワーク活動の普及に努めている。NPO法人日本ホスピス在宅ケア研究会理事。京都大学大学院で瞑想療法をケアプログラムとして開発実践中。東日本大震災以降、東北を延べ20回訪れ、お経を上げる傍ら、被災者への足湯や一緒にお茶を飲む「おちゃっこの会」などのケア活動に取り組んできた。音楽療法士の資格も持つ。

 大下師は「長生きするには自分を大事にして他者も大切にする心『自利利他』が大切」と指摘する。「早くがんになって死にたい人は毎日人の悪口を言う、怒りを表す、愚痴を言うこと。周りの人とうまくコミュニケーションし、笑うことで免疫力が高まる。怒りは3万個のがん細胞を発生させるが、笑いは5万個のがん細胞をやっつける」

 人生のしまい方については「過去は変えられないが、手放すことはできる。執着せずに思い切って整理し手放す勇気を出すこと」。大下師はそれを〝身辺の棚卸し〟と呼ぶ。まず自分の余生(この世での予想滞在年数)を考える。次に残された年数で本当に何がしたいか、どうしてもやっておかなければならない仕事や趣味は何かを考える。居住空間でどうしても必要なものを選ぶ。それらを仕事用、私生活用、家庭用などに分類したリストを作り、それ以外は整理し手放す。「人生は長さではなく、どのように生きようとしたかの質が問われる」とも話す。

 ものの見方は「ネガティブに考えるかポジティブに考えるかで全然違ってくる。人生の物語は自分で書き換えることができる」。例えば嫌な人などとの人間関係に苦しんでいる人は「あの人は私を成長してくれる人」と物語を書き換える。「私はどうしてこんなに不幸なのか」と悩んでいる人は「苦しみは自分の魂の成長につながるのだ」と見方を変える。

 大下師は瞑想の効用も説く。「瞑想はストレスの解消、免疫力アップなど心身の改善、そして思慮深い人間形成につながる。最近は宗教ではなく、健康の手段として注目され、特に米国では予防医学の観点から大変盛ん」。瞑想といっても座禅を組まなくても毎日5分間で十分という。大下師は昨年「国民総幸福」を国是に掲げるブータンを訪ねたが、学校では授業の前に必ず瞑想をしていたそうだ。ブータンの国民1人ひとりが自信と誇りを持っているのも印象に残ったという。

 ある新聞の調査によると、死に対して恐怖の有無を聞いたところ「怖い」が55%、「怖くない」が35%だった。過半数の人が恐怖心を持つ。大下師はそれを克服するには「死後の生命の永世を信じること、あるいは天や宇宙など永遠の生命に融合することなど、自分なりの死生観を持つことが大切」という。この日のセミナーでは大下師の講演に続き、第2部では岡崎会長らも加わって僧侶4師によるシンポジウムも開かれた。

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<ジュディ・オング倩玉> 今や版画界の第一人者 「日本家屋は無駄を削ぎ落とした最高傑作」

2012年11月07日 | ひと模様

【1983年から日展入選13回、2005年には特選にも!】

 大ヒット曲「魅せられて」で有名な台湾出身の歌手・女優のジュディ・オングには木版画家というもう1つの顔がある。雅号は「ジュディ・オング倩玉(せいぎょく)」。25歳の時、棟方志功門下の井上勝江の個展で版画に魅了されたのがこの世界にのめり込むきっかけとなった。これまでに日展入選回数は13回(うち特選1回)に上る。いま堺市立東文化会館文化ホールで開催中の「ジュディ・オング倩玉 木版画の世界展」(18日まで)はそんな彼女の画業の足跡を余すことなく堪能させてくれる。

      

 初めての日展入選作は1983年の「冬の陽」。モデルは飛騨高山の合掌造り。1979年の「魅せられて」のヒットの4年後で、「ジュディ・オング」と知られないように日本帰化名の「翁玉恵」で応募した。入選の知らせが届いた時には思わず万歳をしたそうだ。85年の入選作「揚屋」では京都の「角屋」の紅色の漆喰壁にヒントを得て、それまでの白黒の世界に臙脂(えんじ)色を持ち込んだ。以来、臙脂色を配した伝統的な日本家屋の作品が増える。

 そして2005年「紅楼依緑」(上の写真)でついに特選を受賞した。名古屋の老舗料亭をモチーフとしたもので、漆喰壁の臙脂色と木々の緑色のコントラストが際立つ。翌06年には日展無鑑査作品として「銀閣瑞雪」(下の写真㊧)を出品する。静かな佇まいの銀閣に降り積もった雪をめでたい瑞雪として描いた。

  

 日本の伝統家屋や建物の素晴らしさに目覚めたのは22歳から京都に時代劇の撮影に行くようになってからという。「日本家屋は日本の気候風土、食文化、生活文化の全てに適応し、無駄を全て削ぎ落とした最高傑作。魔除けの鬼瓦、夏涼しく冬暖かい茅葺き屋根、格子窓、障子、襖、縁側……どれも本当に美しい」。

 作品の中には京都ゆかりのものが目立つ。2003年日展入選の「鳳凰迎祥」では池面に映る宇治・平等院の鳳凰堂を切り取った。この作品はその後、平等院に奉納している。08年には南禅寺近くの豆腐屋の玄関口を描いた「涼庭忘夏」、10年には国の名勝・渉成閣の回棹廊を描いた「廊橋浅秋」で日展に入選した。昨年の入選作は長崎・丸山の料亭を題材にした「華燈翠園」(上の写真㊨)で、正面の大きな提灯が印象的。右側の緋毛氈の風合いもさすが。展示作品の中には珍しく奈良をテーマにしたものもあった。奈良公園の浮見堂を描いた「湖光亭影」(2010年白日会展出品、下の写真)。御堂の背後の紅葉が実に鮮やか。

   

 作品の大小に限らず、彫り始めるまでに最低3回は同じ絵を描くという。まず現地でスケッチ、次にそのスケッチや撮影した写真を参考に墨と水彩絵具で下絵を描き、最後に版木にトレースする。しかも白黒でなく色刷りの場合は使う色の枚数分だけ版木を彫ることになる。「私の部屋の壁に掛けたいという思いで作品づくりに取り組んできた。だが、回を重ねるほどに一層難しくなってくる。でも出来上がったときの喜びはなんとも言えない」。会場には「私の永遠のモチーフ」というツバキをはじめ多くの花の作品も彩りを添えていた。

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<正倉院と正倉院宝物> 「北倉の天皇遺愛品こそ、正倉院宝物を守った原動力!」

2012年11月06日 | 美術

【帝塚山大学市民講座で、関根俊一教授が力説】

 奈良国立博物館で開催中の第64回正倉院展(12日まで)も会期半ばを過ぎたが、今年も宝物の輝きを一目見ようという多くの観客でにぎわっている。宝物は戦乱や火災、盗難などに遭うことなく1250年余にわたって守られてきた。まさに〝奇跡の正倉院〟といわれる所以だが、関根俊一・帝塚山大学教授は3日開かれた市民大学講座で「北倉に収納されていた聖武天皇のご遺愛品こそ、正倉院の宝物を守った原動力といえる」と力説した。奈良国立博物館勤務当時に長く正倉院展に携わってきた経験から来る〝確信〟だろう。

 正倉院はもともと東大寺に付属していたが、明治時代に入って国の管理下に置かれ、現在は宮内庁が管理している。正倉は向かって右側から北倉、中倉、南倉が並ぶ。創建時代については諸説あったが、ヒノキの年輪年代測定から中倉に741年伐採の材木が使われていることが判明、大仏開眼会の752年から759年ごろまでに創建され当初から現在と同じ形だったことが分かった。

  

 (左から「螺鈿紫檀琵琶」「瑠璃坏」「木画紫檀双六局」) 

 現存する宝物数は2011年現在で8935件(1910年当時4955件)。この100年間にほぼ倍僧しているが、これは新しく宝物が追加されたわけではなく、未整理だったものが整理されたことによるもの。これらの宝物は大きく分けると、聖武天皇崩御後に光明皇后が東大寺大仏に献納したもの、大仏開眼会や聖武天皇の大葬・一周忌に使われたものなど東大寺関係の宝物、東大寺造営のために置かれた役所「造東大寺司」関係の宝物の3つがある。

 このうち天皇遺愛の品々は北倉に納められ、東大寺と造東大寺司関係の宝物は中倉と南倉に収蔵された。このため北倉は奈良時代から勅封(天皇の封)として管理されてきた。「天皇のご遺愛品が北倉にあったからこそ厳重な管理下に置かれ、そのことで今日まで宝物が守られてきた」。関根教授がこう主張するのもそのためだ。宝物類は現在、鉄筋コンクリート造りの東西の宝庫に収納されている。

 それにしても1250年の間、「燃えず、腐らず、盗まれなかった」のはまさに奇跡としか言うしかない。1180年の平重衡の南都焼き打ちや1567年の三好・松永の合戦による大仏殿炎上時にも類焼を免れた。地震や落雷、台風などの自然災害にもほとんど遭わなかった。ただ北倉には1254年の落雷による焼損痕が残る。また盗難も皆無ではなく、過去3回盗難に遭ったという記録が残っているそうだ。

 講座の後半では今年の正倉院展の見どころを、展示品1点ごとに映像とともに紹介した。今回の特徴として①聖武天皇ゆかりの北倉の宝物が多い②ガラス関係品がまとまって展示されている③螺鈿(らでん)、平脱、木画、撥鏤(ばちる)、密陀絵などの優れた技術が見られる――の3点を挙げていた。

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<いこま国際音楽祭> 言葉の壁を乗り越える〝音楽の力〟!

2012年11月05日 | 音楽

【世界の一流演奏家と地元の子どもたちが感動の共演】

 世界的なピアニスト、韓伽倻(ハン・カヤ)が音楽監督を務める「いこま国際音楽祭」が10月29日~11月4日、奈良県生駒市の「たけまるホール」で開かれた。今年で3回目。4日のファイナル・コンサートでは、世界初演の東日本大震災レクイエム曲「果てしない問いかけ」(徳山美奈子作曲)に地元の小学生が合唱と朗読で参加、フルートやトランペットのソリストの演奏では全国トップレベルの実力を持つ小中学生のブラスバンドが共演し、会場を埋め尽くした観客の万雷の拍手を浴びた。

         

 韓伽倻(写真㊨)は桐朋学園大学卒業後ドイツに渡り、内外のコンクールで上位入賞を重ねた。現在は演奏活動の傍ら国際コンクールの審査員も務め、1999年からはドイツ・カールスルーエ国立音楽大学教授として後進の指導に当たっている。「いこま国際音楽祭」では生駒に実家があるという縁もあって、2010年の平城遷都1300年祭記念として開かれた第1回から音楽監督を務めている。音楽祭は「飛び立て生駒から世界へ 世界から生駒へ」をモットーに掲げる。

 今年もドイツからカールスルーエ音大教授陣を中心に世界で活躍する演奏家が参加し、マスタークラスの公開レッスンや地元小学校での授業「世界はともだち 音楽塾」などを通じて交流。2日のガラコンサートでは生誕150年のドビュッシーに、3日はブラームスに焦点を当ててプログラムを構成した。

 最終日4日の「果てしない問いかけ」には外国人演奏家たちに小学生約50人や和太鼓奏者2人も加わった。作曲した徳山は東京芸大・ベルリン芸大卒で、1997年度ウィーン国際作曲コンクール1位。今回は親友の7歳当時の日記「生きてるって何だろう」を基に作曲したという。「なぜ、という問いかけを体で感じていただけたら、うれしく思う」(演奏前の徳山の挨拶)。約15分の曲で、ピアノの同音連打の響きと児童の「生きてるって何だろう」「死ぬって何だろう」と繰り返す合唱・朗読、雷鳴のような太鼓の轟きが印象的だった。

 休憩後の後半にはまず女性フルーティストのレナーテ・グライス-アーミンが中学生のブラスバンドの伴奏でドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を演奏、続いてトランペットのラインホルト・フリードリヒがジャン-バティスト・アーバンの「ヴェニスの謝肉祭による主題と変奏曲」を吹いた。ダブル・トリプルタンギングなど超絶技巧の演奏技術はさすが当代随一のトランペット奏者。最後にクラリネットのヴォルフガング・マイヤーは女子小学生たちのサクソホンなどの伴奏に乗って、ベニーグッドマン作曲の「クラリナーデ」など3曲を軽快に演奏した。

 生駒は吹奏楽が盛んな地として知られる。生駒中学の吹奏楽部は1998年以来、全日本吹奏楽コンクールで金賞8回という全国屈指の実力校。小学校でも桜ケ丘、俵口両校が全日本小学校バンドフェスティバルの常連校になっている。世界一流のクラシック演奏家との共演でも、ものおじすることなく実力のほどを遺憾なく発揮して観客をうならせた。

 この日は大震災での被災木材で作られたバイオリンも披露され、ニコラス・チュマチェンコが「夕焼け小焼け」を演奏してくれた。チュマチェンコはこれまでにルドルフ・ケンペ、サバリッシュ、ズービン・メータら名指揮者とも共演している名バイオリニスト。その被災バイオリンは復興支援リレーとして「世界の1000人のバイオリニストが引き継ぐ」キャンペーンで各地を巡っている。そうした由来もあってか、まさに琴線に触れる優しい響きだった。

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<「藤ノ木古墳」石室公開> 神秘の巨石空間に眠る奇跡の未盗掘石棺!

2012年11月04日 | 考古・歴史

【金銅製鞍金具など出土品の国宝馬具類も里帰り】

 法隆寺西側にある国史跡の藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)。その未盗掘の石室から1985年、男性2体が合葬された石棺や装飾性豊かな馬具が見つかり、世界的な大発見といわれてから約27年。3日特別公開されたその石室内部(4日まで公開)は、築造された約1400年前の6世紀後半の空気がなお漂っているような神秘的な空間だった。

   

 入り口をくぐって長さ7~8mの羨道(せんどう)を進むと、その奥に朱塗りの石棺を安置した玄室が広がっていた。その中に眠っていた人物2人については「聖徳太子に関わりのある身分の高い人物とみられる」と斑鳩町教育委員会の担当者。まだ諸説あり、確定には至っていない。天井までの高さは4m以上あるだろうか。その天井の巨石は「重さが30~50トンと推測され、3kmほど離れた平群から運ばれてきたとみられる」。

 国宝の「金銅製鞍金具」などの馬具類は玄室の奥壁と石棺の間の約80cmの狭いスペースから見つかった。日本書紀に外国の使者の歓迎式など国家的な儀式で「飾り馬」を並べたという記述があることから、この古墳から出土した馬具類もこうした儀式などの際に装着されたものではないかといわれる。普段は副葬品とともに奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に保管されているが、古墳の公開に合わせて里帰り、斑鳩文化財センターで3日始まった「斑鳩 藤ノ木古墳の馬具展」(12月2日まで)で公開されている。

 

 この馬具展に出品されている藤ノ木古墳の馬具は金銅製の「鞍金具(後輪=しずわ)」「棘葉形杏葉」「円形飾金具」など15点。鞍金具は中央上部に付いた把手(とって)部分などの金色の輝きがまばゆいばかり。全面に龍や象、獅子、鬼神などの様々な文様が透かし彫りや浮き彫りで表されている。(上の写真㊧は藤ノ木古墳の玄室、㊨は国宝の「金銅製鞍金具(後輪)」=いずれもパンフレットから)

 同展には三里古墳や烏土塚古墳など平群地域の6世紀の古墳を中心に奈良県内で出土した馬具類も同時に展示されている。ただ藤ノ木の「鞍金具」に見られるほどの精緻なデザインの馬具はまだ出土例がない。そのため「鞍金具」の製作地についても中国大陸説、朝鮮半島説(その中にも新羅説と百済説)、国内説の3つの説があり、被葬者とともにいまだに明らかになっていない。

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<大和文華館>画僧が描いた仏の姿、単なる転写に留まらない独特の画趣

2012年11月03日 | 美術

【開催中の「清雅なる仏画」展、国宝含む67点】

 平安時代半ば以降、仏様の姿・形を墨で巧みに描く僧侶たちが次々に登場した。玄証・定智・信海ら能筆の画僧が描いた「白描画像」の中には単なる転写に留まらず、観賞性の高いものも多い。奈良市の大和文華館で開催中の「清雅なる仏画―白描画像が生み出す美の世界」展(11日まで)では、これらの画僧が線描で描いた御仏の逸品を展示している。

     

 国宝「善女龍王像」(上の写真㊧)は1145年定智筆で金剛峯寺所蔵。空海が824年、京都の神泉苑で行った「請雨経法」の際に愛宕山に現れたとされる龍王を描いたもの。縦約1.6m、横約1.1mの絹本著色の大作だが、画像全体が暗く色が褪めているのが少し残念。この仏画を写し取った白描(1201年深賢筆)が京都の醍醐寺に伝わるという。

 大和文華館所蔵の「金胎仏画帖断簡」12面(上の写真㊨はそのうち1面)は宅間為遠筆といわれ、彩色鮮やかな仏様の下に蓮台などが描かれている。伝為遠筆の金胎仏画帖断簡は奈良国立博物館やMIHO MUSEUMの所蔵品も出展されている。重要文化財「戒壇院厨子扉絵図像」は東大寺戒壇院に安置されていた華厳経厨子の扉に描かれていた絵画を写し取った巻物で、長さが11m余もある。この厨子は治承4年(1180年)の平重衡の兵火で焼失し現存しない。このため往時の厨子扉絵を今に伝えるものとして大変貴重なものといえる。

 展示図像の中で多いのが画僧玄証の作品。玄証は平安末期から鎌倉時代にかけ高野山を中心に密教図像の収集と書写に努めた。「阿弥陀鉤召図(こうしょうず)」はその玄証筆で、盲目の僧の首にかけた縄を阿弥陀如来が引っ張り、そばで勢至、観音両菩薩がはやし立てるユニークな画像。来迎した阿弥陀仏が衆生を極楽へ往生させる様を象徴的に描いたもので、別に僧をいじめているわけではない。動きがない仏様を描いた画像が大半だけに、その大胆な構図が印象に残った。

      

 重文「薬師十二神将像」(上の写真)は薬師如来像の周りに日光・月光菩薩と十二神将を配置した大きな画像で彩色も鮮やか。「日光・月光十二神将図扉絵」も色鮮やかな一対の厨子扉絵で、繊細な筆致に見とれてしまった。最後に釈迦入滅時の様子を描いた涅槃図が3幅展示されていたが、そのうち南北朝時代の個人蔵2幅は初公開。そのうち1幅は裏書から「あじさい寺」として有名な矢田寺(金剛山寺)伝来の涅槃図と判明した。

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<ハマギク(浜菊)>野菊で最大の白花 「浜菊に海嘯(つなみ)は古き語り草」

2012年11月02日 | 花の四季

【属名・種小名に「ニッポン」。動植物ではハマギクと鳥のトキだけ】

 日本原産のキク科の多年草。名前が示すように海浜植物で、本州北部の太平洋側、青森県から茨城県の日当たりのいい砂浜や海岸の崖に自生する。花期は9~11月。清楚な白花で直径は6~8cmほどあり、野菊の中では最も大きい。暑さにやや弱いが、潮風や寒さには強く、茎の下部が木質化して冬を越す。種が取れないため、春に若い元気な茎を切り取って「さし芽」で増やす。別名に「フキアゲギク(吹上菊)」、英名は「Nippon daisy(ニッポンデイジー)」。

 江戸時代初期の日本最古の園芸書といわれる「花壇綱目」(1681年出版)に「浜菊」として登場することから、かなり早くから栽培されていたとみられる。学名は「Nipponanthemum nipponicum(ニッポナンテムム・ニッポニクム)」。属名にも種小名にも「ニッポン」が付くのはこのハマギクと、「ニッポニア・ニッポン」の名前を持つ鳥のトキだけ。そのことからも日本を代表する植物であることが分かる。

 その学名の名付け親は茨城県出身の植物学者、松村任三博士(1856~1928年)。東京・小石川植物園の初代園長で、「日本の植物学の父」牧野富太郎博士は門下生の一人。ハマギクは茨城県ひたちなか市や岩手県宮古市の市の花、宮城県七ケ浜町の町花になっている。ところが昨年3月の東日本大震災に伴う大津波では、ハマギクをはじめとする海浜植物も大きな被害を受けた。「浜菊に海嘯(つなみ)は古き語り草」。高浜虚子を師と仰いだ富安風生(1885~1979年)が詠んだこの句が改めて思い起こされる。

 だが温かい地域間交流の中で、元のハマギクの咲く海辺を取り戻そうという動きも活発に。海岸沿いのハマギクが津波で流された宮城県七ケ浜町には昨年夏、茨城県日立市の小学校などから町花ハマギクの苗2800株が贈られた。今年も7月下旬行われた「ありがとう七ケ浜・海まつり」の中でハマギク植樹祭が行われ、700余株が植えられた。ハマギクは「逆境に立ち向かう」という花言葉を持つそうだ。

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<く~にゃん物語⑱> ウサギの楽園「大久野島通信」の第4弾だよ~

2012年11月01日 | ウサギ「く~にゃん物語」

【新鮮キャベツはおいしいな! 子ウサギたちの大好物】

 広島県竹原市沖に浮かぶウサギの楽園「大久野島」から、またまた最新の写真が届いたよ。関西在住のお友達ご夫妻が10月末に島を訪れ、撮ってきてくれたんだ。いつもは島内唯一の宿泊施設「休暇村大久野島」に泊まる1泊2日の日程。だけど今回は予約が取れなくて、やむなく日帰りだったとか。それでもたくさんの子ウサギたちが待っていてくれて、愛らしい仕草にいっぱい癒やされてきたそうよ。

   

 今回もウサギの大好物、新鮮キャベツをどっさり持参。その数、なんと10玉。結構重いのに、いつもご苦労さまです。そのキャベツを子ウサギたちがおいしそうに食べている様子を中心に撮ってきてくれたよ。上の写真は島の東南にあるキャンプファイアー場のそばで撮影。この子ウサギたちは仲が良くて、どうも兄弟姉妹らしいとのこと。

 

  休暇村本館の周辺にも子ウサギたちがいっぱい。中にはソテツの大きな葉っぱの下でキャベツを分け合う2匹のウサギや、木のテーブルの下で頭をくっつけ寝そべるウサギたちも。秋の行楽シーズンとあって、この時期、特に週末には多くの観光客が餌を抱えてやって来る。この日は修学旅行で島を訪れた小学生の団体さんもいて、市販の乾燥ペレットをあげていたとか。だから、この居眠りウサギさんも、もうおなかがいっぱいなのかな。どのウサギもみんな満足そう。仲間たちのこんな光景を見ていたら、私も何だかうれしくなってきた!

  

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