く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<金子文夫資料展示館> 数十万点に及ぶ民俗・歴史・考古資料

2016年10月16日 | メモ

【戦前の絵葉書や髪飾り、おきあげ、演劇・映画ちらしなどを展示中】

 重要伝統的建造物群保存地区の福岡県うきは市吉井町の町並みを訪ねたのを機に、その一角にある「うきは市立金子文夫資料展示館」に立ち寄った。金子文夫氏(1912~2007)は郷土史家で福岡県の考古学会の先駆者的な存在。吉井町文化財専門委員会会長も務め、地方文化功労賞を受賞している。金子氏は民俗・歴史・考古資料の有数なコレクターでもあり、同館は吉井町が寄託を受けた数十万点に及ぶ資料の保存・整理・公開の施設として設けられた。(下の写真は紙と布でできた人形の「おきあげ」)

 2階の展示コーナーに上がると、入り口で博多祇園山笠の大きな人形が出迎えてくれた。今夏、博多リバレインに飾られていた桃太郎などで、タイトルは「昔話博多勢揃い」。吉井町出身の博多人形師、生野四郎さんが製作した。金子氏の河童の置物のコレクションの前には昨年の作品「大黒天・弁財天・布袋」も展示されていた。筑後吉井で博多山笠の人形をこの時期にこんなに間近で目にするとは!

 

 展示会場では「おきあげ」などの民芸品や髪飾り、戦前・戦中・戦後の絵葉書や演劇・映画のちらしなどを展示中。「おきあげ」は羽子板の押し絵のように、お雛さまや歌舞伎などを題材に厚紙と布を貼り合わせて作った人形で、竹串を台に刺し並べて飾る。一般に「押し絵雛」といわれ、久留米など筑後地方一円で昭和の初めまで盛んに作られた。旧家の蔵などからたまに発見されるが、傷みやすいため現存数は少ないという。

 

 様々な髪飾りやお歯黒の道具類も展示されている。簪(かんざし)ではきらびやかな〝びらびら簪〟から〝耳掻き簪〟まで。耳掻き簪は一方の先が耳掻きの形になっており、同館の金子功さんによると幕府や政府の贅沢禁止令に対抗する方便として生まれたという。お歯黒は明治維新後、日本を訪れた外国人に「世界一醜いメイク」と酷評され、政府は慌ててお歯黒禁止令を出したとか。昭和10年代の松竹少女歌劇や宝塚少女歌劇の公演のちらしなども多数展示されている。

 

 壁面には「戦前・戦中の絵葉書に見る当時!」と銘打って古い絵葉書類がびっしり。90~100年前の「青島(チンタオ)戦跡絵葉書」や「関東大震災絵葉書」などに交じって「國民精神総動員絵はがき」や「恤兵(じゅっぺい)絵葉書」というものもあった。恤兵とは今や耳慣れない言葉だが、兵士をいたわり物品をめぐむことを意味する。展示中の資料はコレクションのごく一部という。金子氏の収集分野の広さと膨大な量にはただ圧倒されるばかりだ。

 

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<筑後吉井> 往時の繁栄を物語る重厚な白壁土蔵造りの町並み

2016年10月15日 | 旅・想い出写真館

【清流の町、町の中央を貫く南新川には感動的な〝五庄屋伝説〟】

 福岡県の南東部にあり、大分県との県境に位置する筑後吉井(うきは市)。白壁土蔵造りの重厚な町並みで知られ、20年前の1996年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。福岡県内では第1号。筑後吉井は清流の町でもある。4本の川が流れ、そのうち中心部を東西に貫く南新川は江戸時代に5人の庄屋が死を賭して筑後川から水を引き入れたという逸話から〝五庄屋川〟とも呼ばれる。

 筑後吉井は江戸時代、城下町の久留米と天領の日田を結ぶ豊後街道(吉井街道とも)の宿場町として栄えた。今は国道210号となって車の往来が激しいが、明治時代には馬車鉄道が走り、大正時代には筑後軌道鉄道の石炭小型蒸気機関車が走っていた。吉井は3回大火に見舞われた。その教訓から火事に強い土蔵造りの建物が明治末期から大正時代にかけ次々に建てられた。それも豊かな財力があってこそ。今も国道沿いの「蔵しっく通り」や「白壁通り」などに70軒ほどが残る。

  

  

  白壁土蔵造りを代表する建物の一つが「居蔵(いぐら)の館」として公開されている旧松田家住宅(上の下段㊨)。主屋は2階建て、広さ約400平方メートルで、製蝋業で財を成した大地主の分家として銀行経営に携わっていた当主一家の住まいとなっていた。入ってすぐ左手は神様を祀る高い吹き抜けの空間。奥の室内には小倉藩絵師 近藤藍圃(1832~1914)の鶴の襖絵などが描かれていた。力強い筆致。風呂の天井はユニークな放射状のデザイン。

  

 「居蔵の館」の前を流れるのが南新川。すぐ東側にある吉井小学校の校門脇など川沿いのあちこちにこの川の由来を記した案内板が掲げられている。それによると、土地が高地にある浮羽地方は度々旱魃に見舞われた。農民の苦労を見かねた庄屋たち5人は筑後川の上流に取水口を設け、用水路で水を引き込む工事の計画を立てる。藩主には「工事の費用は5人の庄屋が全部受け持ち、決してお上にはご迷惑をかけませぬ」との嘆願書を提出し、「もし事が成就しなかったときは私共5人をお仕置き下さい」と申し出た。

  

 容易ならざる工事に首をなかなか振らなかった藩主も願いを聞き入れる。ただし村の入り口には5人の磔台(はりつけだい)も立てられた。工事が始まったのは1664年1月。磔台を目にした人々は「五庄屋どんを殺すな」とばかり老人や子どもも含め村を挙げて工事に精を出し、わずか2カ月という短期間でこの南新川を完成させた。この川によって周辺地域は水不足の心配が無用の土地に生まれ変わった。「水とふれあいの小道」と名づけられた川沿いの散策路を歩いていると、野球ヘルメットを被った自転車の少年が元気に「こんにちは」と声を掛けてくれた。吉井町はあいさつ運動を展開しているらしく、川べりにも「あいさつの広がる吉井 地域の輪」という標語が掲げられていた。

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