そんな高天原に、須佐之男命が「颯爽と」ではなく登場します。アマテラスのその勢いに押されたりはしないのですが、やはり、いくら悪神とはいえ弟です。姉のアマテラスのその神々しいお姿の前では、おのずと頭を上げることすらできません。「姉上」の存在は、弟にとっては誰にもまして平身低頭の気分に自然に湧き出てくるのが当たり前の気持ちです。その例を、我が町吉備津から拾ってみます。
江戸末期です。「尊王だ」、「いや佐幕だ」と、日本中が大騒ぎしていた時代です。その激動の荒波にのまれこむように生きた一人の女性が、我が町「宮内」にいました。名は「堀家喜智子」といいます。足守藩士「佐伯維因」の娘です。何を隠そう、あの「緒方洪庵」の姉君です。この弟洪庵が
「この世の中に怖い者はいない。将軍だって・・・」
と豪語しているのですが、唯一、生涯頭の上がらなかったのが、姉の「喜智女」」だったのです。「姉の前に出るとどうしても物が言えなくなる」と、常に、言わしめた女性なのです。一番上の姉です。大きくなるまで大変な面倒を懸けたのです。その父「佐伯維因」には何やかやと文句を言っっていたのだそうですが、姉の喜智女だけには、「何事に付いても、素直にすべて従った」と言い伝えられています。それくらい、洪庵にとっての姉は特別に恐ろしい存在でもあったようです。まあ、それだけ洪庵の姉「喜智女」には、総ての面に於いて尊敬できるだけの知性と愛情がしなわっていたのだろうと思うのですが。
此のアマテラスも、やはりこの喜智女的な性格だったのではないかと思うのですが。どうでしょうか、女性のすごさは。「もし」と云う言葉を使うことを許されるのならトランプではなくクリントンならと云う思いもしないでもないのですが??????