日本書紀には此の事件について次の世に書いております。参考までに・・・・・・
「・・・九月九日・・・天渟中原瀛真人天皇<アマノ ヌナハラ オキノ マヒトスメラミコト>崩<カミサ>り給ひ、皇后、臨朝称制<ミカドマツリゴト キコソメス>。冬十月二日、皇子大津、謀反<ミカドカタムケヌ>とすること発覚<アラハ>れぬ。皇子大津を捕<ト>るに逮<オヨ>びて・・・・・」
“庚午の日(三日)、皇子大津を訳語田<ヲサダ>の舎に賜死<ミマカラシム>”
とあります。謀反の為逮捕され、直ぐ翌日の三日に死を賜っておるのです。電光石火とはまさにこの事を云うのです。その詳細を問うこともなしに、即座に刑を執行しています。これが、後世になって、鵜野皇女の我が子可愛いさのためのでっち上げの事件だと言われる所以です。毒殺なんてそのような複雑怪奇な怪しげな陰謀による処刑ではありません。更に、書紀には、大津の妃「山辺皇女<ヤマベノヒメミコ>」について
”髪を被<ミダ>し、奔赴<ハセオモム>きて、殉<トモニシニ>ませり”
と書いてありす。余りにも悲惨な事件だったのでしょうか、当分の間、人々の噂に上り“皆な歎欷<ムセビ>ぬ”と書かれてあります。
此の事件の後すぐ、此の事件に関わったとされる30数名の関係者はすべて
“従<シタガイシ>者をが皆之を赦すべし“
として、「何のお咎めもなし」で、この事件が終了しております。