私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

中大兄が天皇に・・・・

2017-03-11 09:58:23 | 日記

 中大兄の母「斎明天皇」が九州の朝倉宮で急死されます(661年5月9日)が、これも、何か例の金正男みたいに毒殺されたのではと云う噂が当時あったのだそうですが???
 この天皇の急死は、いくら正義をかざしても、百済の太子「豊璋」の援助どころではない、当面の倭国の体制造りの方がより重要だと思われますが、そこら辺りの事もよく分からないのですが、そのまま皇太子の中大兄を中心とした倭軍が新羅征伐に出かけております。
 当時、日本はアジアの最強文明国「唐」を模範にした国家体制に整えようとしていたのです。奈良の都も長安を模倣して造り、法律も文明も総てに於いて師匠とすべき国家であったはずです。630年には遣唐使も派遣しております。そんな、どんなに歯節を剥いても勝てる相手ではないことぐらい分かっていたはずだと思うのですが、国際情勢に疎かったのでしょうか、それとも無謀と知りながら、どこかの誰かのように遮二無二に、挑んだのでしょうか・・誰がどう指導したのかは不明ですが、兎に角、朝鮮に出向いたのです。太閤みたいな空元気だけがあったのでしょうが。まあ、兎に角も、出向いて行ったのです。結果は、当り前のように、唐と新羅の軍勢に為す所なく倭軍は大敗してしまいます。663年の事です。此の事件がかの「白村江<ハクスキノエ>の戦い」です。

 私の町近くに『鬼ノ城』(総社市)がありますが、その記録は何も書物等には記されてはおりませんが、近年、市の発掘調査によりますと、この遺跡は663年頃造られたのではという報告が出ております。この戦いの後、唐・新羅の軍隊が、今度は仕返しのために日本に攻め込んでくるのではないのかと云う恐れのために防御用に天智天皇が造らせた建造物ではないかと考えられておりますが。
 また、此の時強行されたと言われる天智天皇の近江遷都も、その唐の倭国の都「平城京」侵攻に備えるたものものではなかったかとも云われておりますが。それは表面的な話で、奈良にいた豪族たちの勢力との確執がこの遷都の真の目的だあったとも云われております。しかし此の遷都が、これまた、日本の歴史を彩る大変面白い物語に発展していきます。
 此の遷都に関して、例の額田王の歌

              “三輪山をしかも隠すか雲だにも情<こころ>あらなも隠さふべしや”

 でも、大変有名な出来事として歴史に残っております。