秦の昭襄王の城から、その寵姫の計らいでようやく脱出できた孟嘗君は斉の国に急ぎます。この秦の国を旅する場合、「関所手形」が必要ですが、それを偽造して(これも偽造を難なくする家臣いたのでしょうが)、城門を通りぬけ、真夜中、国境のある函谷関にさしかかります。当時の秦の掟で、一番鶏が鳴いてからでないと城門を開いてはいけなかったのです。函谷関は天下の嶮と言われた場所で、此の関を越えなければ他国へ出ることはできない交通の難所です。朝、鶏が鳴くまで通ることはできません。まだ真夜中です。秦の兵が追いかけれ来るにちがいありません。うかうかしてはおられませんが、夜明けを待つしか他に方法はありません。危険がすぐ後ろまで押し迫っているのですが、どうすることもできません。困憊そのものです。その時、家臣に加えていた「物まね名人」が、
「私が・・・・」
と、言ったかと思うと、たちまち鶏の鳴き真似を大空に向かって高らかに張り上げます。その余りにも上手な鶏の鳴き声を聞いた近くの鶏舎の鶏が、「朝が来たか」とばかりに、一斉に鳴きだしたのです。その声を聞いた関守も
「もう朝か・・・・・・」
関門を開けます。「それ・・」とばかりに孟嘗君の一隊も、にせの関所手形を使い、楽々と関門を通りぬけ、秦の外に逃げ出ることができたのです。それからしばらくして秦の軍勢がそこに来るのですが、もはや、後の祭りです。これが有名な「狗盗鶏鳴」の故事です。
なお、「コソ泥」や「物まね名人」をその家臣に加えた孟嘗君を「何で???」と薄笑いを浮かべていた人達が、これら家臣の軍功を聞いて、「将の器とは・・・」と深く思ったと言うことでした。