「大海人を討て]との指示が近江より発せられますと、すぐに大海人も兵を吉野で挙げます。それを聞くと、近江側は西国「吉備」と「筑紫」に使いを発して応援を要請します。当時、まだ、その勢力が大変衰えたとは云え、西国の強国は、依然として、この「筑紫」と「吉備」の2カ国を置いてはなかったのです。この一つ「吉備国」に遣わしたのが「樟使主磐手<クスノオミ イハテ>」です。その時、天皇は言われます。
“もし服せざることあらば、就きて之を殺せ”
と。その時の吉備の国守は「当摩公広島<タイマノキミヒロシマ>」で、此の人は吉野側、「大海人」の方に心を寄せていました。それが分かった「磐手」は、「広島」を殺してしまいます。
それに付いて歴史書は
“広島を給<アザム>きて之を殺す”
と書いております、「給<アザムク>」がどのような状態を語る言葉かは分かりませんが、「給」ですから何かを与えて安心させてその隙に暗殺したのかもしれませんが、兎に角、殺しております。それがどのようにその後の戦況に影響を与えたのか分かりませんが。
なお「筑紫」でも「兵を出すことを断った」とありますから、吉備のようにはっきりとした吉野にくみする態度ではなかったのではないでしょうか。やんわりと御断りをしたのだと思います。この事でも分かるように、「吉備人」は、どうも、それまでの歴史的諸事件を見てもに、性急に物事の善悪を判断して、即座にそれを解決にしようとする傾向があるように思えるのですが。やんわりとお断りすることが苦手な集団のように思えます。これも外国からの移民の人達によって発展したお国柄からではなかったのでしょうか。ということは、今の、あのアメリカのトランプ氏的な特徴を持った人間集団だったのではないでしょうかね。
まあ兎に角、このような大友側の作戦の失敗もあって、この戦いは、結局、近江側、大友皇子が破れ吉野側の勝利に終わり、再び、朝廷は大和に還ってきます。
なお、此の話の中に出で来る「当摩公広島」なる人物について何も分かってはいませんが、672年頃衰えたと言え、まだ。相当な勢力を吉備国は維持していたのだと言うことは分かります。吉備真備や和気清痲呂などの前の歴史の中にほんの少しだけ顔を見せる人物ですが。