吉備の穴海でみられたその美しい夕焼け雲のたなびきを御覧になって、そのまま御船は玉島の港に入ったと言い伝えられておりますが、その日が1月7,8日頃でしょうか??それから何処の辺りを航海されたのかは何も書かれてないのですが、はっきりと分かる日は、「大日本史」(水戸光圀著)に
”(一月)十四日庚戌、伊予の熱田津石湯の行宮に次<やど>る”
とあります。岡山市街地辺りに広がる穴海から四国の松山辺りまで、660年頃の船足では、なんと一週間もかかっております。「どうしてそんなに時間が???」とお思いでしょうが、次の歌を見ればそれがよく分かります。これも万葉の時代の字で綴ってみます。
“熟田津爾舩乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜”
「熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」で知られる額田王の歌として知られているのですが、本当は斎明天皇ご自身の歌なのだそうです。
ここに見られるように、当時の航海は 「潮もかなひぬ」です。潮や風の加減を見ながらですので、大変時間がかかっていたと言うことが分かりますね。だから、穴海を通りぬけた後、瀬戸内海に入ってから相当な時間がかかったのでしょう。伊予まで一週間も要したのです。
それに比べると、中大兄のお読みになった
“わたつみの豊旗雲に入り日さし今夜の月夜清明こそ”
の歌を作られた時の気分爽快さは言わずもがなと思います。船酔いすることもなく、鏡のような波静かな海上を滑るように行く船上でなかったならば、このようなおおらかで心静かに夕焼けをご覧になられることはなかったのではと思われます。だから、この歌は一月六日以後、一日か二日の内にお造りになられたのではと推察しております。青い色で塗られている辺りが吉備の穴海です。現在の岡山平野で、岡山市街地は海の真っ只中にあります。