660年頃の日本は、斎明天皇の時世で、その皇太子が中大兄皇子です。その時、朝鮮半島では、新羅が唐と結んで百済を滅亡させています。日本に人質として派遣されていた百済の皇太子豊璋を助けて百済の国を再興させようと斎明天皇は、自ら軍隊を引き連れ朝鮮に出発します。661年1月の事です。その船団には皇太子中大兄皇子も、弟の大海人皇子も、更に、その妻、中大兄の娘「大田姫皇女、オオタノヒメミコ>」も、あの額田王も乗船しておりました。
そのような一大船団を組んで天皇は瀬戸内海を西に進んでおりました。その船上で大田姫皇女が大海人皇子のお子様をお生みになられます。そのお子様の名前が生まれた海の名前にちなんで
“大伯皇女<オオクノヒメミコ>”
と名付けられます。それが1月6日です。そこから吉備の児島の内側を通り、大変静かな入り海「吉備の穴海」に入り、波静かなゆったりとした安全な航海です。乗っておられた中大兄も、大変、気分良く航海されていたのです。その上、その時は、自分の娘と弟の間に可愛らしい女の子まで生まれたのです。爽やかな一時をお過ごしになられていたのでしょう。気分爽快です。のんびりと夕暮れ時の穴海を眺めておられたのでしょうか。そこに今まで見たこともないような夕焼け雲が西の空に懸っています。多分写真のような焼け雲が懸っていたのでしょうか。この辺りでは秋から冬の初めごろにかけて、いわゆる「豊旗雲」がたびたび見られます。昨年の秋以来から今年の初めにかけても数回もこのような雲を観察しております。これもその内の一つです。
「わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜明らけくこそ」と、中大兄は此の歌が口をついて出てきたのではと思いますが。
なお、この写真は、昨年、秋に吉備津神社にある犬養木堂の銅像の上にかかった雲です。と云うことは、この歌は、今まで定説になっている「播磨灘」ではなく、吉備の穴海で詠まれた歌だと言う方が正しいように私には思えるのです。どうでしょう。このような雲がかかるのは
島と島の間によく出来るのだと伺った事があるように思うのですが。気象学者にお聞きしたいのですが。