この大津皇子の謀反が発覚して???、その2日後には刑が執行されています。驚くべき早さです。そこら辺りにも、何か此の事件の奇妙さが伺えるのです。此の事件については、又、「万葉集」にも彼と関連した歌を、数首見ることができます。
先ず最初は、皇子の姉「大伯皇女」とのやり取りの歌として紹介されてあります。
この大伯皇女は前に書きました斎明天皇の新羅征伐の時、吉備の大伯海の船上でお生まれになった皇女です。だから、この時の皇女の歳は24歳で、伊勢の斎宮として伊勢神宮におられます。大津皇子も21歳になっており、その姉に、自分の気持ちや、今ある自分の立場に付いて聞いてもらいたかったのでしょうか、姉を尋ねてわざわざ伊勢に行きます。姉弟でどのような話をしたのかは分かりませんが、一晩じっくりとお話をしたのでしょうか、その早朝、再び、姉は大和ヘ帰って行く、多分、大和に帰れば、もう二度と会うこともないだろう心痛な思いの別れだったのでしょうか、その時の大伯皇女の弟の運命を歎いた歌が載っております。ご存じの
“わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし”
”二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ”
の二首です。
天武天皇の崩御は9月9日です。大津皇子の”謀反<ミカドカタフケム>ことが発覚<アラハ>れぬ” 9月24日のことです。そして逮捕・処刑が10月2日・3日ですから、皇子がこの姉を伊勢に尋ねたたのは、此の8日間だったのではないでしょうか???多分10月1日の暁時に伊勢を出て大和へ帰ったのだろうと想像がつきます。愛する姉に、自分の今の立場、その真実をぜひ知ってもらいたかったのでしょうね。それしか自分を証明する何ものも、その時の皇子にはなかったのでしょう。たった20歳前後の若い青年だったものですから。愛されていた父「天武」ももうこの世の人ではなかったのです。歴史書は、「天皇は大津を大変可愛がっていた」と伝えています。