私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

“在地願為連理枝”とは

2016-01-25 09:32:12 | 日記

  “在天願作比翼鳥<天に在りては願わくば比翼の鳥作らん>”
  “在地願為連理枝≪地に在りては願わくば連理の枝為らん>”    
 
  と、玄宗と楊貴妃はお互いに“七月七日長生殿。夜半無人私語時”に『密相誓<密<コマ>やかに相誓う』

 この「連理の枝」についても、中国では、次のような話が二つ残っています。
 一つは、後漢の末頃の蔡晶<サイショウ>の親孝行の話です。もう一つの方は、宋の時代の韓憑<カンヒョウ>とその妻何<カ>氏の夫婦愛の話です。この長恨歌に出てくる“連理枝”は後の韓憑の話の方ではないかと思われます。

 その話とは、

 戦国時代、宋の国の大臣・韓凭(かんひょう)とその夫人の何氏は仲睦まじい夫婦であった。ところが、宋の国王・康王は、何氏の美貌が気に入り、自分のものにしようとして韓凭を捕え、監禁してしまい、その妻「何氏」を城に連れて来ます。城に連れて来られた何氏は、隙を見て、城の高台から飛び降りて自殺してしまします。一方、夫の韓凭も間もなく愛する妻のために自らの命を絶ちます。
 その二人に激怒した康王は、二人を同じお墓には入れず、わざと、すぐそばに別々に埋葬します。お互いがすぐそばにいるにもかかわらず、いつまでも一緒になれない辛さを味わわせるためでした。
 ところが、なんと、数日後には、二つのお墓から木が生え、枝と葉が抱き合うように絡み合い、王の思いをよそに、お互いに連なってしまいます。二人の愛の深さを物語るお話です。

 なお、「理」とは、「木目」のことで、連理の枝とは、一つの木目になった枝、要するに、枝が一緒になった木のことです。私の「前集」にはその説明として
   「樹一枝相向。連接脉理而生為連理枝<樹の一枝相向う 連なりて脉理を接ぎ 連理の枝と為る> 」と書かれております

そのように何時までもい互いに愛し合うことを誓った詞としての”在地願為連理枝”です

   


「在天願作比翼鳥」の「比翼」の名のある神社・・・

2016-01-24 11:13:00 | 日記

 楊貴妃が玄宗と「天に在りては比翼の鳥にならん」と誓った「比翼」ですが、その名が付いている建物が、「我が町吉備津」にあるのです。吉備津神社の建築様式に付いている名前なのです。「比翼入母屋造り」と呼ばれています。屋根の棟が二つくっついている独特の造り方なのです。あまり知られてはいませんが、此のお宮さんに参ると、今、どんなに仲たがいをされているご夫婦でも、ごく自然のうちに仲良くさせてくれます。「夫婦和合」の神様です。最近は、離婚の数が以外に多いとか聞きますが、その危機一歩手前のご夫婦のお方に、「ぜひ一度お参りしてみたら」と、進めたい神社です。そんな日本で、ただ、一か所のお宮さんなのです。縁結びは出雲大社に、六年目めぐらいになられた夫婦のお方には、此の吉備津神社にお参りして、玄宗と楊貴妃のような、お二人の堅い、永遠の愛をお確かめ頂くのもいいのではないかと思いますが。いかがでしょうか??

 もしなんでしたら、ご連絡していただけたら、特別に、この吉備津神社について、私なりに、ご説明させていただいてもいいのですが。

 さて、そんなことはいいのですが、その「比翼入母屋造り」の美しさを見てください。

              

 左は、一昨年の雪の日の、、右は、昨年の五月の碧の中の比翼入母屋造りの吉備津神社です。夫々季節によって風景が変わります。


「比翼の鳥と作<ナ>らん」の比翼とは

2016-01-22 09:30:06 | 日記

 “在天願作比翼鳥 在地願為連理枝” 
 と、二人は「密相誓<ヒソカニアイチカウ>」のでした 。

 ここにでる「比翼の鳥」とは何でしょうか??私の持つ「前集}には
 “鳥一羽。相比而飛。為比翼鳥”
 と、説明がしてあります。   
                   
 これも中国の古いお話です。羽が一つしかない雄鳥が北の国いました。また、南の海にも、北の鳥と同じような羽が一つしかない雌鳥が住んでいました。この雄雌の鳥は自分の醜い姿を何時も卑下しておりましたが、ある時、この2匹が出会い、一つになり、誰にも負けない力が付いて、一度飛び立てば千里を飛ぶ力を得て、それ以後、永久にこの二人は離れることはなったというお話です。
 このお話から分かるように大変仲のいい夫婦を「比翼の鳥」と呼んでいます。
 
 なお、この「比翼の鳥」は、葛飾北斎にも描かれておりますのでお見せします。(北斎漫画 第三編より)
  
    

 なお、吉備津神社の神殿拝殿の造りも比翼入母屋作りと云われていますが、それは明日に。


「天宝十歳明」 の「明け方」がまちげえとるんじゃ

2016-01-21 10:03:32 | 日記

 「もうひとつ まちげえとるところが あるんじゃがなあ・・」と、彼からのご指摘がありました。それが「天宝十歳の七月七日の朝方」という私のブログです。
 彼は言います。
 「七夕の話は、もともと、中国にあった話じゃけえ・・・」と。
 
 その話は、

 『 昔々、中国の瓊<ケイ>という国に、「遊子・伯陽」という夫婦がおったんじゃが、妻の伯陽は九十九才で死んでしもうてのう。夫の遊子はものすごうつろうなって、昔、二人で、なかように見たお月さまを、めえにち めえにち 見上げて暮らしょうたんじゃ。すると、ある晩のことじゃったそうな。その大空をなあ、どげえになっとんか わからんのじゃが  妻の伯陽が カササギに乗ってとびょうるんじゃ。「おーい」とよんだのじゃが、伯陽は知らん顔して そのまんま どけえか 飛んで行ってしもうたんじゃ。 そうこうしておるうちにのう その伯陽も百三歳で死んでしもうてのう せえから 天に上がり星と成って 烏にのって  伯陽をおいかけたんじゃと。でも、追いかけたんじゃが 二人のなけえ 天の川がじゃまあしてしもうて、おいつけんのんじゃ、でも、七月七日にはのう その天の川の邪魔者「帝釈<タイシャク>」が どけえかいってしもうて おらんけえ 二人はデートすることができるんじゃ。それを仲立ちしたんが、伯陽が乗っていた「カササギ」で、その羽を延ばして橋にして遊子を渡らせてあげたんじゃ。 』  と。

 「こげえな話からでも分かるようにな、玄宗と楊貴妃が、この七月七日長生殿で話したのは、おめえがゆうように 「明け方」ではありゃあせんのじゃ。そうじゃ、百人一首の「家持」の歌にある
       「かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにけり」
 にもあるんじゃが、二人がその永遠なる愛を誓いおうたんは、「夜ぞ更けにけり」の真夜中の頃じゃったんじゃ。明け方じゃあねんじゃ」 と。

 本当に、毎度毎度、ご丁寧な事です。感謝することしきりです。いわれて、よく「古文前集」を見ると、「天宝十歳明皇憑楊妃肩」と書かれており、「明皇」とは玄宗皇帝を云っている言葉ということがよく分かります。「知らないということは畏れも羞じもなんのその」、そのものだということを、八十になってしきりに痛感しております。


“夜半無人私語時”の「私語」は

2016-01-20 11:20:18 | 日記

 またまた。彼の人よりお便りを頂戴しました。

 彼曰く、
 「ほんとうにのう しりもせんくせえしやがって めえにち めえにち ごくろうなこっちゃ。もうおわるんかとおもようたら まだ、つづきょんか、ええかげんに しとけえのう・・・そりゃあそうと、おしえたらにゃあ おえんことがあったんで せえで けえとるんじゃが  きのうの なけえ  「夜半無人私語時」があったろうが この「私語」をどうよんだらええんか、おめえは しとるんか?? 「しご」じゃあ ねえど こりょう 日本人がよむんならのう 「ささめきごと」(「ささめごと」とも)という ええ「やまとことば」があるんじゃが おめえは しりゃせんじゃろうが」
 と。 
 まあ、それから、源氏物語がどうのこうのと、その博学ぶりを長たらしく書いておりました。毎度のことで有難く読ましていただきました。考えてみたら友達ってホントにいいもんですね。新年早々そんなことを思っております。彼が言う「知りもせん癖して毎日毎日ようも」という思いは、私自身もそう思いながら書いております。

 まあ、この「私語」を、中国語では、どう読むのかは分かりませんが 、彼のご注告の通りに、日本人でしたら、「ささめきせし時」と読むのがいいのではないかと思いました。私の持っている「古文前集」にもルビがふってあるのですがよく分からなかったものですから、「夜半無人私語時」をそのまま書いておいたのです。今朝のご教示で、もう一度、見てみますと「ササメゴトセシ」と、どうにか読めるのではないかと思います???。それをどうぞ

                   

 

 周りには誰もいない幽寂な宮殿の奥の間で二人だけでちぎりあった言葉が「私語」なのです。誰も知らない二人だけの誠の心を通わせた言葉なのです。

 なお、彼は続けて、「もうひとつ ちごおとるとこがあるんで おしえたる」と、書いて下っておりますが、それは明日にでも。