私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

海上に仙山あり

2016-01-10 13:40:29 | 日記

 道士は天の端から地の果てまで探したのですが、そのいずれも茫々として”皆不見”でした。そうこうしているうちに、何処からともなく小耳にはさんだことがありました。

      忽聞海上有仙山 
            「海の上に仙人が住む山があり」というのです。
            この海について、中国では、大層神聖な場所として古来より考えられ、仙人も海の上の山て入るのは普通でした。

      山在虚無縹緲間      <山は虚無、縹緲の間に在り>
            山は虚無<キョム>(空しく何もなく)で、縹緲<ヒョウビョウ>(はるかに広く広がっている)とした場所にあった 
             
      樓閣玲瓏五雲起      <楼閣は玲瓏<レイロウ>として五雲起る> 
            すきとおるようなあざやまな御殿には五色雲が湧き起こり
 
      其中綽約多仙子 
           そのなかには大変な美しい仙女がたくさんいました。 綽約<タクヤク>とは「しなやかで美しいこと」です      

      中有一人字太真       <その中に一人有りて、字<アザナ>は太真 
           その仙女の中に「太真」と言う名の者がいたが、


      雪膚花貌參差是 
           雪のように白い肌と花のように美しい顔は楊貴妃にそっくりであった。参差<シンシ>とはよく似た顔という意味です。

      金闕西廂叩玉扃       <金の闕<ケツ>の西の廂<ソウ>玉扃<ギョクケイ>を叩き>
            「金闕西廂」とは黄金の正堂の西にある部屋です。そこの玉の戸口を道士が叩いた。」 多分こんな意味だと思います?????         

      轉小玉報雙成       <うたた小玉<コダマ>をして雙成<ソウセイ>に報ぜしむ>
            よくその意味が分かりません??。小玉・雙成というのは楊貴妃に仕えていた天女の名だと思いますが。
            道士の話を直接聞いたのが小玉で、その小玉が、雙成に、それを伝え、雙成は楊貴妃にと、言うのではないかと??

 

 


方士をして慇懃に覔めしむ

2016-01-09 09:25:28 | 日記

 臨卭の修験者「方士」に楊貴妃の魂魄の行方を尋ねるよう依頼します。
 その方士は、たちまちに、探す人を求めて天空に飛びます。それが

     排雲馭氣奔如電
       雲を排き 気を馭り 電の如くに奔り  
     
     升天入地求之偏
       天に升、ノボ>り 地に入リて 之を求めること偏し   「偏」とは「広く残らず」という意味です

    
     上窮碧落下黃泉
       上は窮碧を窮め 下は黃泉に落つ     「磐落」とは「大空の果て」です。大空の果てから地獄の下までありとあらゆる処を探します

     兩處茫茫皆不見
       兩つの處は 茫茫として皆 不見

 このように何処を探しても、ただ広く掴みどころがなく、訪ね人は「不見」、発見することができなかったのです。

 どうなりましょうか。それでは道士としての役目を果たすことができません。さて、その解決方法として白居易は<忽ち>という言葉を使ってその続きを書き続けます。


人日

2016-01-08 10:03:56 | 日記

   昨日は「七日正月」でした。この日は「七草がゆ」を食べて、1年間、「今年も病なし」というお祈りも済まし、今年もいよいよ総てのものが始まります。学校の始業式もこの故事から始まったのだそうです。此の「七日正月」には、本を調べてみますと、ちょっと面白いというか変わったというか、今では、そんな風習が、昔の正月にあったことすら新聞からもテレビからも忘れられてしまっている行事があったそうです。
 この7日を「人を帳に貼ず」といって、門に人を画いた紙を張っていたのだそうです。何時ごろ、何処でなされていたお話かは何も説明はなかったのですが。ちなみに、1日には鶏、2日は狗、3日は猪、4日は未、5日は牛、6日は馬、7日は人を、それから7日を、昔は「人日<ジンジツ>」「子日<ネノヒ>」といったのだそうです。また、ある本には「霊辰」とも

 ちょっと又、七草採りの為ではないのですが、道草をしました。

 

 

   “排雲馭氣奔如電  升天入地求之偏    上窮碧落下黃泉    兩處茫茫皆不見”は明日にでも???  




 


七草粥食べます。

2016-01-07 12:55:30 | 日記

 君がため春の野に出でて・・ではないのですが孫たちの為に、七草のうち、家の周りにある「セリ」「ハコベラ」「ホトケノザ」「スズナ」「スズシロ」の5種類を採ってきました、「ナズナ」「オギョウ」は、ちょっと、お宮さんの近くに行かなくては見つからないので、昼からでも取って来たいと思います。

 なお、私の作る「七草がゆ」は、かゆにお餅を入れ、その上に、お醤油を加えて、おぞうすい風に仕立てていただいております。この辺りでは「なのかべぞうすいそこうれしい」と昔から言い伝えられております。此の私風の七草粥は我が家では好評です。

今朝早く採ってきた七草です。


長恨歌の佳境

2016-01-07 11:20:26 | 日記

 「魂魄不曾来入夢」。楊貴妃のその「魂」、人の精神に宿るたましい、「魄」、人の肉体にやどるたましいは玄宗の夢の中にさえ今まで一度も入ってはきません。

 あの権勢を誇った玄宗の姿を見たお付きの人、誰とも書いてはありませんが、多分「高力士」という人ではないかと思いますが、毎日、悲嘆に暮れている玄宗の姿を見てどうにかしようと考えます。

 此処から、また、今までのそれよりも違った、全く新たな展開が始まります。その詩の転成の面白さにも、白居易の詩人としての非凡さ、その構成の鋭さに驚かされます。何回も言いますが、1300年前の人です。その展開に、何と奇想天外な「道士」を引っ張り出して、この問題を解決させるのですます。

          臨卭道士鴻客 
   蜀の臨卭の道士で宮殿内に住んでいる者、「古文前集」には、その人の名前「揚通玄」と説明してあります。
          能以精誠致魂魄 <能く精誠<セイセイ>を以って魂魄を致す> 
   その人はその気力で以って、よく死者の魂を呼び戻すことが出来るのです。
  普通、多くの本には「精誠」という言葉が使われておるのですが、「古文前集」にはそれに変って
       
 写真のように「精神」と成っております。「精誠」は誠心誠意の意味ですが「精神 」には気力生気の意味があり、「精神」という字をあてた方がよりよりこの場に合っているのではと私は思います。      

         爲感君王輾轉思 
  臣下の者(彼が高力士ではないかと私は思うのですが)は玄宗が楊貴妃を慕って安眠できないことを知っていたので、「輾転の思い」とは寝がえりを打ってなかなか寝付かれない様子を云います
         遂方士殷勤覓 
 「教」は「、・・・しむ」で、使役の意味を表す助辞です。ついにその道士をしてねんごろに楊貴妃の魂を捜すよう覓めた。
 また、前集には「覓」は「覔」としており、ルビに「モト」と打っております。