私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

重ねて、再び

2016-10-27 08:58:17 | 日記

 昨日、筆敬さんのご注告を載せたのですが、彼の事を物知りだと褒めすぎたのかもしれませんが、再び、彼から、

 「・・・・・・おめえは これも しりゃあへんじゃろうと おもうて、けえてえたら・・・・」

 と、「なあがなあが」はなく、簡潔に書いてきてくれました。これも又横道ですが、書いてみます。 

 曰:「殊号事略」と云う新井白石の本に
     
  『異朝の書に、「倭国王上表して、天子詔書を之に賜ふ」などとありますが、この「表」とは、臣下が天子に奉る書を云い、また、「詔」というのは、天子から臣下に賜る書を云う』

 と。

 この昨日今日2つのお教えから考えると、それまで、倭の五王からの書は、すべて、「表」の字があり、臣から奉ったもので、礼儀を尽したものであったのですが、聖徳太子が遣わした国書には、宋国、倭国いずれも同等に「天子」と書かれてあり、上表文ではなく、随王煬帝は倭国王を、当然、自分の臣下と思っていたから、これは、はなはだ、けしからぬ許すべきことではない「このような礼を失した書は、以後、決して私の眼には触れさすべからず」と、怒ったのだ、と分かりました。「日出處」「日沒處」の言葉に対してではなかったのだと。


「天子」と云う言葉に怒った煬帝だと・・・・・・

2016-10-26 07:08:31 | 日記

 今日は、久しぶりにあの筆敬さんからお便りをいただきました。

 「おめえはなあ、ようも しりもせんくせになあ、どこから しいれてくるんかしらんけえどなあ そげえなものを よう かくんじゃなあ。あきれて このごらあなあ よむきもせんのんじゃがなあ。・・・・たまたま きのうのをみてなあ てえげえおめえは しりゃあへんじゃろうなあと おもうてなあ おせえてやるけえなあ ようおぼえとけえようなあ」

 と、「なあなあ」と、ようそげえに「なあがなあが」とつづくもんかいなあと思いながら、ご丁寧なる御忠告書を読ませていただきました。それは、昨日書いた「小野妹子」が持って行った国書についてです。

 “『随書』「東夷傳俀國傳」に、倭王から「日出處天子致書日沒處天子無恙」と書かれた国書が来て、『こんな無礼な「蕃夷の書」は以後私には見せるな』と、煬帝が家来に云ったと伝えられているが、この時、煬帝が立腹したのは、それまでの俀王からの上表文には、いつも、昨日書いた宋書の「臣雖下愚」のような大変へりくだったものだったのですが、この時の聖徳太子からは、「臣」ではない、随と同等の「天子」を名乗ったことに対して怒ったと言うのであって、通説になっている「日出處」「日沒處」という記述に対してではない”

 と。
 
 「なるほど、そうか」と、改めて、筆敬さんの物知りに感服している次第です。少々、又、倭の五王から離れていますが・・・・


「武」からの宋王への上表文

2016-10-25 08:36:21 | 日記

 「武」から宋王に遣わされたとされる上表文だろうと思われますが、宋書に書かれております。

       “臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極”
      (臣、下愚<カグ>なりといえども、忝<カタジケ>なくも先緒<センショ>を胤<ツ>ぎ、統<ス>ぶる所を驅率<クソツ>し、天極<テンキョク>に帰崇<キスウ>す)

 「私は はなはだ愚か者ですが、先の王の後を継承して自分が統治する所を懸命に守り、天子に仕えようとしております」と云う意味です。あの雄略の上表文です。「臣雖下愚(愚か者ですが)」と書かれ、あまりにもへりくだったものになっておりますが、当時の国際関係から見ると、それくらいの力しか倭の国にはなかったのでしょうか???

 それから100年後の聖徳太子が小野妹子を隋に派遣した時の上表文と比べてみてください。

                       “日出處天子致書日沒處天子無恙”

 両国とも、同じ「天子」です。愚か者どころではありません。その書きぶりに大きな違いがあるのが分かります。


久しぶりに棒振りに

2016-10-24 19:59:40 | 日記

 朝から空に雲ひとつない絶好の秋のゴルフ日和です。真っ青な大きな秋空に、ちっぽけなボールが右に行き左に飛んで、前衛の下手くそな絵が浮かび立つ、毎度ながらのボール運びですが、こんな歌も添えられそうな秋の真っ只中です。

               雲一つ なき秋空に 球は跳ね 白杭を越え 風のほほえみ

こんな秋風の中の今日の一日でした。


雄略の倭国平定の図

2016-10-23 07:16:06 | 日記

 大王「武」は宋王に云います。

  「昔から我が父祖は自ら鎧を身に纏い戦いをして、

                     “東征毛人五十五国”               (東に行って上野・下野など五十五国を征し)

 や、

                     “西服衆夷六十六国”               (西に行って九州の熊襲・隼人など六十六国を服し)

 更に、

                     “渡平海北九十五国”               (海を渡って北方の国九十五国を平らげた)

 

  その結果、王道は、誠に、順調に国の隅々まで行き渡り、我が国から宋に

                     “不愆于歳<トシニアヤマラズ>”       (毎年、必ず、入朝して挨拶をしております) 

 こう書いております。倭の王「武」の時代は、内外ともに、安泰その物のようですが・・・・・・雄略帝の時代です。

、あの昭和53年(1978)、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた115字の文字から、この宋書の“毛人五十五国”が明らかになったのです。

 その鉄剣に刻まれている「獲加多支鹵大王」と云う字は(雄略天皇です)、また、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀の銘文にある「□□□□歯大王」も、<ワカタケル>と読まれ、雄略天皇を表すものと理解されるようになったのです。これらは、総て、宋書に書かれている「五十五国」や「六十六国」を証明する重大な手掛かりとなったのです。