私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

“興死弟武立”ー朝鮮半島経営に苦労する倭の王

2016-10-22 10:50:05 | 日記

 「倭の五王」の最期の王である「武」についての宋書です(480年代)。

 あの大悪天皇と称された雄略天皇です。吉備の王「田狭」を任那の国司に任じて、その美人妻を我がものとしたあの天皇です。その「武」について宋書に大変詳しくその苦悩の歴史を書きとどめております。まず、

      “使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王・・・・・”

 『百濟新羅任那など朝鮮南部七國を支配した「安東大將軍」に任命してほしい言ってきた』と、書かれております。 しかし、この雄略天皇について、日本書紀では、当時、朝鮮半島の統治に大変苦労していた様子が書かれております。高句麗との戦いだけではなく、新羅との対立も生まれます。ある時、天皇は田狭臣の子「弟君」と吉備海部直赤尾に詔して

     “汝、宜往罰新羅”(お前たちは新羅を討て)”

 と云われたと有りますが、「宋書」には見えません。また、書紀には「この時、百済が新羅に滅ぼされた」とありますが、「宋書」にはありません。そのことについて、宋書には、初め倭王は七国の使持節の任命を要求したが、認められたのは「百済」を除いた六国です。この「七」が「六」に変更されたのも、恐らくは、そこら辺りの事情があったのではと推定出来ますが?????此の「七」と「六」と云う数字の中に、朝鮮半島での倭の国の経営の苦労の歴史がほのかに顔をのぞかせております。

 


臥牛山松山城のすごさを

2016-10-21 09:09:08 | 日記

 昨日、遠来の友を案内して、今、岡山での観光スポットの一つになっている、あの真田丸のタイトルの中に使われている備中松山城に登ってきました。改めて、その山城の有様のすごさに感激してきました。その石垣の雄大さと云いましょうか、そこに存在する空も木々も、空気までさえも、総てを圧倒するか如きの佇まい雄姿にです。その総てを捕えることは、私のカメラ技術では、不可能ですが、スナップ的な拙い写真しかお見せできませんが、写してまいりましたのでみてください。

               

             

               

 なお、駐車場に止めてある車のナンバープレート―を見ると、岡山以外の車の多いことにも驚きつつ城を後にしました。


「辛卯年海渡破百残・・・・」についての日韓両国の意見の違い

2016-10-20 08:37:28 | 日記

 宋書の倭王の「讃」の項に

    “使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王”

 と、あります。倭王が百済や新羅など六国を軍事的に支配しています。それを証明するかのように、391年の高句麗の「好太王碑文」にも

            

 と、はっきりと刻まれています。 この 

             「倭以辛卯年海渡破百残〇〇〇羅以為臣民」

 と云う碑文の言葉について、日本と韓国の学者の間に意見の、少々どころではない、大いなる食い違いがあるのです。それをご紹介します。

 此の碑文について、1970年頃より、韓国の学者から、この文は日本の軍人が、元々、その碑にあった字を消して、日本の都合のいい様に書き直したものだ。だから、日本が、391年頃、現在の韓国を支配したということは歴史的事実ではなく、日本軍により意図的にでっちあげられた造り話だと言うのです。本当は

       「後以辛卯年不貢因破百残倭冠新羅・・・」

 であったのをだと言うのです。これだと、高句麗が百済倭新羅を臣民にしたという話になり、5世紀初めの東アジァの歴史に大きな変革をきたすような事件になるのですが。・・・・・・・

 さて、この結論はと云うと、その間の経緯はいろいろと有りますが、今のところ、韓国の学者が言うような、日本軍がそれを自分の都合のいいように改竄したと言うのは誤りだとなってはおりますが???、


“済死世子興遣使貢献”

2016-10-19 08:29:27 | 日記

 「興」です。書紀によると「安康天皇」の時代です。460年頃のお話です

  「興は、それまでの国王と同じように、中国への忠誠を引き続いて、外敵を取り除く垣根となって、辺境の地を安らかにしてくれている。だから、興に対しても爵位を授け、今までどうりに「安東将軍倭国王」とせよ」

 と。朝鮮半島を含めて「安東」ですから、東アジヤ一帯を軍事的に統括する役目(使持節)を、当時の大国「宋王」から認められたのです。大変な権力を倭王にあたえられたのです。この宋書にある「讃」の宋王に[貢物を持って伺かがう」のは、例の高句麗「広開土王碑」の刻文にある倭軍を追い払う事件のわずか20年後の出来事なのです。素直に倭王の命を聞く高句麗の王ではなかったのではと思われますがどうでしょうか。

 そこら辺りの事情は吉田東伍の「日韓古史断」をひもとけばと思っておりますが、余り専門的になりますので私の力ではどうにかなりそうにもありません??
 なお、ご存じとは思いますが、この「広開土王碑」に刻まれた文字の一部ですが見てください。こんな字なのです

                  

  


宋書より

2016-10-18 09:43:50 | 日記

 「讃」「珍」に次いで、倭王「済」の時代です。

 おっと、この「済」は書紀によりますと允恭天皇です。あの衣通郎姫と木梨軽皇子との悲恋物語のあった時代です。

 「済」も、又、先王と同じように使いを遣わし奉献します。443年です。なお、讃が使いを遣わしたのは421年ですが、「珍」の時にはこのようなはっきりとした年号は、どうしてかは分からないのですが、その記述は有りません。それも又変でしょう????
 この「済」も前の「珍]同様に、<安東将軍・倭国王>に任命されます。が、

    “二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事”

 と書かれております。ここで注目していただきたいのは、此の記述の中に「珍」の時にはあった「百済」が有りません。まさか「済」が百も沢山あったわけではないでしょうに、と云うのは冗談ですが、兎に角。ありません。後は全く同じなのですが、此の事について、古来、多くの学者が夫々の考えを云い張って論争を展開しているのだそうですが、大方の意見は次のような理由からではないかと云われております。

 「当時、宋の国は、朝鮮半島を自国の属国にしたくて、その計略の第一歩を、この「百済」に置き、既に、外交関係結んでいたから、それで、倭国の王が百済を都督する使持節にはしなかったのでは・・・」

と。これが、[済]の時代の中国と日本の外交関係です。「日本や「天皇」と云う言葉が使われていなかった五世紀中ごろのお話です。朝鮮半島を倭の国は支配していたと言うことは分かるのですが。此の事については、あまり、現在では論争にはなっていません。