私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「オリシモ」河に箸が流れていた

2017-06-20 17:59:58 | 日記

 それを目ざとく見たスサノヲは
 「箸が・・・この河上には、きっと、人が住んでいるに違いない」
 と思われます。それを古事記には、ご丁寧にも 、次のように書いてあります。

              “尋覓上往者”

 とです。これを<マギノボリ イデマシ シカバ>と読ましております。

 さて、この「覓」の字は何だろうかと、又また、話がそれますが、辞書で調べてみました。すると、この字は「ベキ」と読んで、「求める」「流し目をする」という意味があるのだそうです。そして、その用例として「覓挙」という言葉も出ています。<ベキキョ>と呼んで、「つてをたよって、なにかをさいようしてもらおうとすること」と解説してあります。「何かを誰かに頼んで、ウインクでもして、よろしくね」と言っているような、今を、丁度、言い当てるかのような漫画が突然頭を横切ります。今朝の新聞の漫画に山田紳さんの風刺画が出ていますが、「私ならこの字をもじった絵を描くのになあ」と、一人でニヤニヤしております

 それにしても、今朝の新聞の一面には『萩生田氏「発言概要」の文章』と、でかでかと書かれた文章が出ております。加計さんが行ったのは、まさに、この<ベキキョ>そのものではないでしょうか。萩生田氏の「何も知らん」という言動にも、なにやらその「覓」的な感情が見え隠れているように思われるのですが。

 それこそ、「どう思いますか」です


おりしも、箸が河上から

2017-06-20 07:59:16 | 日記

 スサノヲは、高天原を追放されて、ようやく葦原中国に至ります。そこが出雲の国の「肥河上<ヒノカワカミ>です。その場所が古事記には

                         “鳥髪<トリカミ>”

 だと書いてあります。
 この地は、島根と鳥取の県境にある「船通山」と呼ばれている所です。現在、この山には、たくさんの「カタクリ」が自生しており、その名所として頻りに宣伝しております。
 この「肥河上<ヒノカワカミ>」が、今の「日野川」です。この川のほとりに「スサノヲ」は降り立ったのです。「これからいかにして生きていこうか」などと思いながら何気なくこの河を眺めていたのです。それが次なる「スサノヲ」の、この地における運命を待ち受けることになるのです。
 おなじみの

                        “此時箸其河流下<コノオリシモ ハシ ソノカワヨリ マガレクダリキ>”

 です。“此時”を<コノオリシモ>と読ませております。「時」を「トキ」ではなく、「おりしも」と読むと、なんだかその昔そのままの雰囲気に引きずり込まれる様な気持ちになるのですが、どう思われますか??????。
 この部分を、福永武彦は

  「人けのない河のほとりにあって、水の流れるのを眺めていると たまたま箸の流れてくるのが目にとまった」

 と訳しております。
 この「おりしも」という言葉、今は、殆ど死語になってしまっているようですが、本当に意味深な日本独特な感性の籠っている言葉だなあと、今更のように思えます。だからこそ宣長も、敢て、これを

               「(字のままに訓むもあしからねど)“許能袁理志母<コノオリシモ>”とよむべし」

と強く言いきっております。「たまたま」では、余りにもその場の雰囲気が描ききれてないように思うのですが?????


いよいよスサノヲは出雲に

2017-06-19 07:42:56 | 日記

  スサノヲは神々から高天原を

                 ”神夜良比夜良比<カムヤラヒヤラヒ>”

 追放されますが、その道中で、更に、大宜津比売神の事件も引き起こしております。そこでも、荒神の心が立ち起ります。そして、再度、神産巣日神からも、その場から立ち退かされます。それを

                 “所避追而<ヤラハエテ>”

 と書いてあります。
 この同じ<ヤラ>でも、その内容から考えてみると、大きな違いがあるように私には思えるのです。「避追」は「早くこの地から離れなさい」と、優しく諭されてからの事だと思われます。それは、それまでの人々の生活手段を激変させる要因「稲種」を作る原因になったのがスサノヲだからです。ある程度の同情的な思いがこの神の心にあったための処置ではなかったのでしょうか。それが、「神夜良比」という、スサノヲの種々な悪行にたいする強制的な追放ではなく、この「避追」という文字に現れています。「早くこの場から立ち去りなさい。どうぞ道中に気をつけられてね。」というくらいの軽い気持ちの現れた「納得させる。言い聞かせる」というくらいの言葉がふさわしいような処罰ではなかったかと思われますが、どうでしょうかね?????だから、この後の道往きでは何も事が起きてはいません。無事に肥ノ国に到着出来ているのです。

 


“稲種”とは

2017-06-18 07:20:05 | 日記

 「二目から稲種」と有りますが、栗・小豆・麦・大豆は、そのままの物が大宜津比売神<オホゲツヒメノカミ>の死体の耳などからから生え出ますが、稲だけは「種」として生まれます。 「種」とは何でしょうかね。?????稲の種ですから、まだ、直ぐには食糧とは成りえません。田植えをして、半年の間、人の手によって、「育てなくては」食料となる「米」はできません。それが自然に出来た物、生えていた物を取っていた狩猟漁労の縄文時代とは異なります。それまでに経験したことがない「農耕」という生産活動が始まるのです。弥生時代の夜明けなのです。それを始めるきっかけを作ったのが「スサノヲ」なのです。その違いを強調するための手段として「種」という言葉をわざわざこの場合に使ったのです。それも耳や鼻などからではなく、物を見るための一番大切な両眼から生まれたのです。その辺りの文章構成も異常なほどまでにも工夫が凝らされているように思えるのですが。誠に「お上手だ」だと思わず感嘆の声を上げたくなります。古事記を読んでいくとこんな場面にたびたび遭遇します。誠に名著の名にふさわしい本です。

 この「稲種」が、以後の日本における人々の基本的生活様色を激変させる要因になるのです。「身分」「貧富」「ムラ・クニ」「戦争」等という、それまでにはなかった新しい社会組織やそれを起因とした問題構造が生まれます。「縄文」から「弥生」への変革です。その時代を「2500年位前だ」と、歴史家は想定しております。

 なお、このスサノウによって殺された「大宜津比売神」の目から生まれた「稲種」を貰い受けて、最初に、日本で田植えをした神様が、ということは、我が国の農耕生活を始めた最初の神が、」古事記では「神産巣日神<カミヌスビノカミ>」だとしております。御存じこの神様は高天原に於いて初めて生まれた三柱の神様の内の一人です。


殺された神様から何が見えましょうか???弥生の社会が!!!

2017-06-17 08:21:56 | 日記

 大宜津比売神が、自分の尻から取り出した食物<オシモノ>を膳に並べて出すと、即座に、悪神「スサノヲ」は、「汚き物を」と、一刀の元に、問答無用とばかりに、切り殺してしまわれます。このあたりが、書紀にはない古事記の面白さです。それくらいな事で、どうして殺されなければならないのでしょうか。ただ、尻から取り出した食べ物を膳に据えただけですのに????しかし、これが、また、日本歴史上の大きな変革期に繋がっていく過程の一つになるのです。
 所謂、この物語は縄文時代から弥生時代への転換期に起った出来事です。2500年くらい前の事ではないでしょうか。その辺りの事情は推察されている人も沢山いるのではないかと思われますが。この大宜津比売神の死体の

                     頭からは「蚕」が、

                     両眼から「稲種」、

                     両耳から「栗」、

                     鼻から「小豆」。

                     陰<ホト>から「麦」、

                     あの尻から「大豆」

 が生まれます。なお、頭からだけは食べ物には関係のない「蚕」が、後は、「稲種」、「麦」にしても、総て人の体の目など窪んでいる場所から生まれております。しかし、この中、「口」からは何も生まれておりませんが、その理由は、口から生まれた物が、再び、口に入るのは少々おかしいから、わざと「口」からは何も生まれなかったように記述しているのではないでしょうか。

 さて、この部分について、栗などの食べ物は、縄文時代には、人々の生活で食していたのは確かですが、「米」だけは弥生時代になって、大陸方面から日本に入ってきました。すると、「スサノヲ」は大陸から来た「弥生人」ということになりますか???????では、かの「大宜津比売神」は「縄文人」と云う事になります。すると、此処に「殺」とあるのは、歴史的必然で、新しく大陸方面から移住してきた者たちは、従来からその場所に住んでいた人達を、否応なしに殺してしまわないと生活権が得られなかったのです。よく言われることですが、縄文人と弥生人とはその人相など全く異なった人種であると言われています。新しく入ってきた弥生人が従前より住み着いていた縄文人を淘汰してしまったのです。その弥生人の迫害や殺人を回避するために、縄文人は北へ北へ追いやられてしまったのです。