私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

ちょっと枕草子の209段を

2017-09-20 07:04:09 | 日記

色々な方面に飛び火しながら、なにやらかにやら書きなぐっておりますが、今日は、また折角ですら、枕草子にある「おれ」を書き写してみます。ご興味ある人はご覧ください。

 “賀茂へまゐる道に、「田植う」とて、女の、新しき折敷(おりしき)のようなるものを笠に着て、いと多う立ちて、歌を唄う。折れ伏すやうに、また何ごとするとも見えで、うしろざまにゆく。「いかなるにかあるらむ。をかし」と見ゆるほどに、郭公をいとなめう唄ふきくにぞ、心憂き。
                  「郭公、 おれ  かやつよ
                             おのれ鳴くきてこそ  我は田植うれ」
 と唄ふをきくも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とは、いひけむ。
 仲忠ガ童生ひ、いひおとす人と、「郭公、鶯に劣る」といふ人こそ、いとつらう、情けれ。”

 とあります。さすが清少納言と、今更のように思いを致しております。

 さて、どうして平安の当時には「郭公」がそんなに憎々しげに見られたのでしょうか。それはまた明日にでも。乞!!ご期待でもないのですが??????


“意禮<オレ>”考

2017-09-19 08:07:56 | 日記

 昨日書いた

                         “意禮”

 ですが、此の言葉について古事記伝では、宣長は、

 “人を賤(いやし)め詈(のる)称なり・・・・・枕草子に、田植る女の謡へる歌に、「郭公よ、意禮’おれ)よ加夜都よ、意禮鳴てぞ、我は田に立つ」・・・”

 と書いております。
 早速、枕草子をめくって見ますと、その二百九段に有りました。新潮日本古典集成「枕草子」(萩谷 朴校注)によると「おれ」を「おのれ」と訳して「憎けれ」という意味があると説明してありました。なお「加夜都<カヤツ>」は「あやつ」「あいつ」で、「め」がついて激しく相手を罵る琴を意味しております。
 古事記には

                      “

         


「詈」って文字みたことありますか???漢字は世界最高の高級言語です。

2017-09-18 09:42:13 | 日記

 宣長の「古事記伝」読んで行きますと、「こんな字があった???」と訝るような文字によく出会います。

                         “詈”

 もそうです。何と読みますが??<ノノシル>」と読むのだそうです。此の言葉は、比良坂から、顕国にいるオホクニに向かってスサノヲが言った言葉の激しさを説明するために宣長が使った言葉なのです。                          

 
 「私はそちらまで行って、悔しくてなりませんが、あなたを拉ぎ、その刀や弓を取り戻すことはできません。だから、その刀と弓はあなたに差し上げます。」

 と、さも悔しそうに、呼謂<ヨバイテ ノリタマハク>のです。其のスサノヲが発した一声の言葉が

                      ”意禮<オレ>”

 です。穏やかな言葉では決してありません。憎々しげに人をののしるような激しい言葉っだたのです。「もしもし亀よ、亀さんよ」の「もしもし」や禅寺の門口で禅僧がよく発する「ドーレ」などと同じ言葉の種類ではあるのですが。
 


スサノヲは大声でオホクニに呼びかけます。

2017-09-17 07:06:11 | 日記

黄泉比良坂から顕国に入ったオホクニに対してスサノヲは、

                       “呼謂<ヨバイテ ノリタマハク>”

 大声を出して呼びかけます。
 昨日の“遥望“もそうですが、この“呼謂”を見ても分かるように、何時もながら、本当に、古事記の作者は、たった漢字数字をものすごく上手に使って、その場の状況を読む者をして、あたかもその場にいるかのような臨場感を高めるための書き表し方を工夫しているのに驚かされますす。

            “其汝持之生太刀生弓矢以而。汝庶兄弟者。追伏坂之御尾・・・・・・・・”

 と。<ソノ イマシガモツ イクタチ イクユミヤ モチテ イマシガ アニオトドモヲバ サカノミヲニ オイフセ>です。

 山の坂道、「尾」ですから長く伸びた坂道です。特定な場所を指すのではありません。何処でもいいから、その辺りの山にかかっている峠のような所に待ち伏せして、私の大室から持ち出した刀と弓で攻撃しろというのです。「先制攻撃をしろ」と

                      ”呼謂<ヨバイテ ノリタマワク>”

 するのです。

 


“遥望”

2017-09-16 08:36:05 | 日記

 スサノヲは、いつの間にかそうなったのか分からないのですが、タルキに結ばれていたご自分の髪の毛を、怒り心頭に達していたのでしょうが、一本一本解きます。時間は相当かかったはずです。その間に、オホクニとスセリヒメとは、手に手を取ったのじゃありません、オホクニが背負って黄泉比良坂を越え顕国<ウツシクニ>に来ております。その時、ようやくスサノヲは比良坂まで二人を追いかけて到着します。でも、スサノヲは黄泉の国の人です。二度と再びこの坂を越えることはできません。悔しくてなりませんがどうすることもできません。まして、娘「須世理毘売」もオホクニと一緒です。

 ここで又、一つ分からないことが????此の時、どうして、黄泉の国の住民であるはずのスセリヒメがこの坂を越えられることができたのでしょうか、オホクニは顕国の人ですから、当然、あの「イザナギ」と同じように黄泉の国から立ち返れるのですが。そこで、私のその理由を???

 黄泉の国に居て、再び、黄泉比良坂を越えられるのは、かって、「イザナギ」が「イザナミ」から逃げ帰ったよう時のようにその例は無きにしも非ずなのですが、それ以後、再び、「ヨミガエル」ことが出来たのは、このオホクニとスセリヒメの二人だけです。このように黄泉の国から比良坂を越えて顕国に戻ることは至難の業なのです。だとすれば、当然に黄泉の国で生まれ育った「スセリヒメ」は、決して、此の比良坂は越えることはできません。そこで、オホクニは考えたのでしょうか、自分と一身同体になっておれば、スセリヒメだって、案外簡単に越えられるのではないかと。それで、手に手をではなく、やむなく「セスリヒメ」を背中に背負って駆け抜けたのです。すると、易々と難なくこの坂を越えることが出来たのです。???。案ずるより生むが易しです。顕国に来ることができます。そこでやれやれとオホクニはセスりヒメを脊中から降ろします。『肩の荷が下りる』という言葉は此の時から使われ始めます。

 その毘売を顕国の土地に降ろしたその時にスサノヲは比良坂の向こう側に到着します。それを

                          ”遥望”

 と、たったの2文字を使って書き表し、<ハロバロニ ミサケテ>と読ましております。坂の上まで上がって、向こう側に逃げ込んだ二人の楽しそうな様子を見られたのでしょうか。でも、スサノヲはその坂は越えることはできません。あきらめざるを得ません。すると、オホクニに対する怒りが不思議ですが何処かえ消え去り、「どうか娘をそちらの国で安らかに暮らしてくれ」という父親としての娘に対する思いに駆られたのでしょうか高らかに叫びかけます。