・・・ダーウィンが来たのインドネシアの「クロざる」の「顔の表情」、大蛇の撃退、仲間との絆・・・すごいなぁ~ッ、撮影スタッフも。敬意を・・・守るモノが「イノチ」しかないヒトは「怖いモノがない?」・・・獲たモノが「タクサン」あるヒトは「怖いモノがタクサンある?」・・・「三輪山(御諸山)の大物主」は「怖いモノがタクサンあった?」・・・大物主は「蛇神(ジャシン→邪神・蛇身→蛇腹→蛇身→寫眞・写真→写心・舎身→舎人)」という伝承がある。拝殿前の「巳さんの杉」に蛇の好物の生卵が供えされるらしい・・・蛇は「水神の化身」とされ、稲作に関わる祭が三輪山を対象にして古来から行われてきた・・・「蛇」は「医学の神」である・・・その象徴が「蛇杖」、同時に「あきんど(商人・秋人)の神」でもある・・・
サルは猿でも秀吉(日吉丸)、「禿げネズミ・針鼠?」・・・「クロダカンベイ」・・・「中津」・・・蘭学者(福沢諭吉など)・・・江戸の戯作者・・・「お栄」・「長政・お菊・お糸」・・・「蜂須賀小六」は何処からやって来たのか?・・・新羅か高句麗、高麗・・・
「major」mode・・・「魔女亜?」→「長音」音階、「minor」mode・・・「三ノ輪・箕輪?」→「短音」音階・・・「major(メジャー)」は「まじょぁ」、「minor(マイナー)」は「みのわ」とヨンでクレ・・・
以下は例のごとく、ウイッキペデアや他のブログ記事の原文を抜粋、参照、参考にした・・・
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1918年(大正7年)2月10日
蜂須賀茂韶が死去
阿波徳島藩主
「蜂須賀茂韶が宮中に参内し応接室で待っていた時、卓上にあったタバコ(葉巻烟草・葉巻煙草・シガレット)を一本失敬した。
明治天皇が
「蜂須賀、先祖は争えんのう」
と言ったと「司馬遼太郎(街道をゆく」に記しているらし・・・祖先とは血筋のコトなら「蜂須賀茂韶」は「蜂須賀正勝(小六・小六郎)」の血統一族ではなく、「徳川の血統」である・・・
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蜂須賀氏
羽柴秀吉に仕えた
蜂須賀正勝(小六・小六郎)の一族
元々、「須賀(すが)」氏と呼ばれていた?・・・「須賀神社」は
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須賀神社
牛頭天王・須佐之男命を祭神とする
祇園信仰の神社
日本全国に存在
「すが」は「須我・清・酒賀・素鵞」
などとも表記
島根県・高知県に特に多い
スサノオが
「八岐大蛇」を退治して
クシナダヒメを妻とした後、
出雲国須賀に至って
「吾此地に来て、我が御心すがすがし」
と言ってそこに宮を作った由来
須賀神社の多くは、
明治の神仏分離まで
「牛頭天王社」などと称していた・・・
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蜂須賀氏の出自に関しての確証はない
「武蔵七党の横山氏」と同じ家紋の
「五割万字(いつつわりまんじ)」
を使用していることから、
横山氏の系統・・・
横山党?
文献から、
「小野篁」の後裔・・・
太田亮の
「姓氏家系辞典」・・・?
武蔵国多摩郡横山
(東京都
八王子市
元横山町)を本拠として横山姓を称した
当時
「横山」とは「多摩」丘陵を指し、
「万葉集」に「多摩の横山」と詠われている?
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十三代藩主の
蜂須賀斉裕の実父が
徳川家斉(紀州徳川家出身)
紀州徳川家
水戸徳川家と並ぶ屈指の富豪華族
北海道で大規模農場経営をおこなったが
失敗
大正から昭和期に
十八代当主となった
蜂須賀正氏は
「鳥類学者」
・・・たびたび犯罪に絡んだために「華族の品位を落とす」とされ、
1945年(昭和20年)7月に侯爵位を返上
戦後は正氏の遺族の間で
財産争いが起こり、
暴力団も絡み破産し、
蜂須賀氏没落・・・?
蜂須賀藩主は、
代々
釣り好きで専用の釣り場を維持
磯釣りの
「うきフカセ釣り」は
「阿波釣法」の発祥
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中津
明治二年1869年
版籍奉還によって
府藩県三治制下における
中津藩の藩庁が置かれる
明治三年(1870年)
中津藩士
福沢諭吉の進言により
御殿を残し、その他建造物を破却
明治四年(1871年)
廃藩置県により
中津県の県庁が置かれ、
小倉県に併合され中津支庁が置かれる
明治十年(1877年)
西南戦争
西郷隆盛挙兵に呼応した
増田宋太郎率いる
中津隊の襲撃により
中津支庁舎であった御殿が焼失
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中津城
豊前国中津(大分県中津市二ノ丁)にあった城
黒田孝高(如水)が築城
細川忠興が完成
江戸時代の大半は、
奥平氏の居城
周防灘(豊前海)に臨む
中津川(山国川の派川)河口の地に築城
梯郭式の平城
水城ともされ、
今治城
高松城と並ぶ
日本三大水城の一つ
直角三角形をなし、扇形に例えて
「扇城(せんじょう)」とも
櫓の棟数は22基、
門は8棟
総構には、
6箇所の
「虎口」が開けられた
中津城は、
冬至の日には、
朝日は
宇佐神宮の方角から上り、
夕日は
英彦山の方角に落ちる
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大物主
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「出雲国造神賀詞」では
「大物主櫛甕玉」
「大穴持(大国主神)」の
和魂(にきみたま)である・・・
別名
「三輪明神」
「倭大物主櫛甕魂命
(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)
大国主の分霊であるため
「大黒天」として祀られる・・・
明治の神仏分離に際して
金毘羅三輪一体との言葉が残る
大物主を正式な祭神とされた
「古事記」によれば、
大国主神とともに国造りを行っていた
少彦名神が常世の国へ去り、
国造に悩んでいた時に、
海の向こうから光り輝く神様が現れて、
大和国の
三輪山に自分を祭るよう希望
大国主神が「どなたですか?」と聞くと
「我は汝の
幸魂(さきみたま)
奇魂(くしみたま)なり」と答えた
「日本書紀・一書」では
大国主神の別名
大神神社の由緒では、
大国主神が自らの
和魂を
大物主神として祀ったと・・・
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勢夜陀多良比売
(セヤダタラヒメ)
が美人であるという噂を耳にした大物主は、
「赤い矢」に姿を変え、
勢夜陀多良比売がトイレ(便所)で用を足しているとき川の上流から流れて行き、彼女の下を流れ、
ほと(陰所)を突いた。
その矢は大物主の姿に戻り、二人は結ばれ
生れた子が
「比売多多良伊須気余理比売
(ヒメタタライスケヨリヒメ)」で、
後に
神武天皇の后となった・・・
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倭迹迹日百襲姫
(ヤマトトトヒモモソヒメ)は、
夜ごと訪ねてくる男に「顔をみたい」と頼む。
男は最初拒否するが、
「絶対に驚いてはいけない」という条件で、
朝小物入れをのぞくよう話した。
朝になって
百襲姫が小物入れをのぞくと、
小さな黒蛇の姿があった。
驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、
置いてあった箸が陰部に刺さり、死んだ
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活玉依比売
(イクタマヨリビメ)の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかし活玉依比売はそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、活玉依比売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。
父母はその男の正体を知りたいと思い、
糸巻きに巻いた
麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、
糸をたどると三輪山の社まで続いていた。
糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、
「三輪」と呼ぶようになった
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意富多多泥古
崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、
夢に
大物主が現れ、
「こは我が心ぞ。
意富多多泥古(太田田根子)
をもちて、
我が御魂を祭らしむれば、
神の気起こらず、
国安らかに平らぎなむ」と告げた
天皇は、活玉依比売の末裔とされる
「意富多多泥古」を捜し出し、
三輪山で祭祀を行わせ、
天変地異も疫病も収まった
これが現在の
大神神社である
「古事記」では、
三輪大神は
「意富美和之大神」とされている・・・
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