・・・小さい町の川も轟音の濁流である。「台風・颱風」が行ったが、「鮐諷」じゃないョ、なッ・・・「風と共に去りぬ( Gone with the Wind)」じゃぁなくて、「Gone with the the typhoon Damages」で、人間も家畜もペットも日常性は「悲しみよコンニチは(Bonjour Tristesse)」である・・・「子育てに自信を失い我が子を・・・」、「お勉強の強制で我が子を・・・」ですか・・・「子羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」・・・中国では淡水の「河豚(ふぐ)=河+豚」はブタに似た鳴き声をするらしいからの名前らしい・・・そして「鮐・鰒・鯸・魨・鯺」の異字漢字も「フグ」らしい・・・「鮐=フグ(fugu)フグ科の魚類の総称・ふぐ(河豚)・およそ120種の魚がフグ科に分類」・・・「ナゴヤフグ(名古屋フグ)」との呼称もあるらしく、「毒に当たればミノオワリ(美濃尾張)」の洒落らしいが、「毒」は「主(亠+十+一)の「毋(ない・ブ・ム) or 母(はは・ボ) or 毌(つらぬく・カン・ガン・貫)」である・・・
「毌丘倹(カンキュウケン)」
?~255
字は
「仲恭」
并州
河東郡
聞喜県
出身
尚書郎
洛陽の典農
魏の
荊州刺史
幽州刺史
魏の将軍
最後は
司馬師に反乱後、討伐された
↓↑
魏の官僚
毌丘興
の子
毌丘甸
毌丘宗
の父
毌丘秀
の兄
孫は
毌丘重
毌丘奥
孫娘は
毌丘芝
↓↑
毌丘倹は
237年
孫権は
高句麗と通じ、
遼東へ親征を行おうとした
魏は
毌丘倹を派遣しこれと対陣、
毌丘倹が鮮卑の軍を動かして
遼東に駐屯させたので、
孫権は遠征を断念
↓↑
魏は
公孫淵に対し上洛を命じたが、
公孫淵はこれを拒否、挙兵して
遼隧で毌丘倹を撃退する
↓↑
遼東の
公孫淵が
呉と接触
↓↑
毌丘倹は
魏王
曹叡の命により
幽州刺史となり、
烏丸の単于
寇婁敦
と
袁尚
烏丸へと逃げた者
5000余を降伏させた
↓↑
遼隧の戦い(238年)
魏王
曹叡は
司馬懿に4万余の兵を与え、
公孫淵征伐
↓↑
「238年・・・遼隧の戦い」と「卑弥呼」
↓↑
ーーーーー
倭に関係する極東国際情勢
57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、
中遼の二郡とし自らの太守を置
また、山東半島に営州刺史を置き、
「遼東侯・平州牧」と号した「公孫度」の子、
「公孫康」が継ぎ、
「度」の弟、
「恭」が「永寧郷侯」となり、
「康」は西暦196~220年まで
楽浪郡を分けて帯方郡を置いた
220年 後漢滅亡。魏王・「曹丕」、
「献帝」を廃し、
魏の「文帝」となる
221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
「公孫康」の子、
「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
「車騎将軍」の爵号を授
232年 呉の「孫権」、
「淵」に「燕王」の爵位を与える
233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣。
「淵」はこの使者を殺し、
その首を「魏」に差しだし、
「楽浪公」の爵位を得る
235年 高句麗王、「位宮」、
呉から「単于」の爵号を受く
237年 「魏」は
幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし
「淵」軍と戦い敗北
↓↑ ↓↑ ↓↑
238年 六月、「卑弥呼」、
大夫「難升米」を
「魏」におくる
・ ↓
・ 八月、「魏」の「司馬懿」を
将軍とする軍隊に
「淵」軍敗北、戦死
↓↑ ↓↑ ↓↑
239年 帯方郡・太守
「弓遵(辷+尊)」が
「韓」族に攻められ戦死。「韓」滅亡
244年 「魏」は
幽州刺史の
「毋丘倹」を将軍にし、
高句麗軍を壊滅さす
帯方郡太守
「王・(斤+頁)」、
塞曹掾史
「張政」を「倭国」に派遣
↓↑ ↓↑ ↓↑
この「年表」に記されている「人名」と「官名」、「地名」の漢字とその「音」に注意すれば「古事記」が何を示唆しているか明かである。
更に「238年」の「六月」から「八月」・・・ワズカ、「二カ月間」・・・。
「卑弥呼」の「倭」は、少なくても
「六月」までは
「もと『燕=公孫氏』に属」
さざるを得なかったハズである・・・
何故なら
「公孫淵=燕」は「237年」には「呉」と同盟、
あるいは册封関係にあり、
敵対する
「魏」の「幽州刺史」の「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、コレを撃破して勝利。
翌年の「238年の八月」に
「魏」の
「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北し、戦死したのである。
時間的な流れでいえば、
「倭」は「238年六月~八月」までは
「呉」と深い関係にあった「公孫淵=燕」に
「属」していたハズだ・・・もちろん、状況的に、直接的にも「倭」は「呉」と深い関係にあった・・・
すると、
「238年『六月』」、
この『六月』に「卑弥呼」が大夫「難升米」を「魏」におくる 、と云うことはどういうことなのであるか。
記録上の齟齬がナイとしたならば、朝鮮半島・遼東半島は
いまだこの年の
『八月』まで「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
この「未だ燕の支配下の『六月』」、
どのような経路でいけたのか?・・・
どのような目論見で「難升米」を「魏」におくったのか?・・・
方法は色々考えられるとしても・・・
戦局が未だ定まらぬ「敵地=燕地」の経路をである。
「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、「呉=燕」の配下にありながらも二股をかけざるを得なかったのだ。あるいは「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に「卑弥呼」は乗せられたのである。あるいは「燕=公孫氏」、「呉=孫氏」そのものと「縁籍」であったのだ。
そして、
『八月』、「公孫淵=燕」は「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
『十二月』、「卑弥呼」は「魏王=明帝」から詔と「親魏倭王」としての「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらった・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
245年(正始6年)「倭王」 が派遣・魏へ使
247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦
卑弥呼の死亡
「邪馬台国で男王」立つが「内乱」
「宗女・壱與」が
「十三才で女王」となる
↓↑ ↓↑ ↓↑
238年から六年後、
244年に「高句麗王=位宮」も敗北した。
朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・当然、「倭」へ、である・・・。そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は「魏」の「張政」に担ぎ上げられた「壱与」に権力交替したのである。「狗奴国との対立」や「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
すなわち、この部分に於いても「陳寿」は「使訳」の報告すべてが正しいわけがあるまい、と言っているのだ。「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。同音異字なら「芝居」で、しかも「芝居(しばい)」は日本語であるから・・・。
・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・「卑弥呼」の排除である。
243年は「宗主国」である「魏の帯方郡太守」が「倭へ使者」を派遣してきたのである。
その後の「壱与」の権力交替は「帯方郡使」としての
「張政=魏」の策謀(告喩)による
「淵=燕=呉」親派の「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」、
あるいは「溺殺」によるものである・・・
漢字の「乙・乚」の秘密である・・・
「張政」と「壱与」の「告喩」としての「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、「長崎」、「諌早」、「熊本・宇土・横島」へとその勢力を浸透させて「卑弥呼」を「殺害(?)」したのだ・・・
その後、「壱与」は「宇佐」に東遷し、権力の基盤を「大分」に置いた。だが、「卑弥呼」の親派勢力は長崎「諌早」、「天草諸島」、「熊本・横島」、そして「沖縄」、「台湾」にその勢力を有していたハズである・・・
結論的に九州(倭)は「魏」の配下に入ったが、「二人の女王」の勢力は「遼東半島」、「山東半島」、「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と、「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」に分裂=磐余(イワレ)=「大分」していたのだ。
もちろん、「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は「博多・伊都=須佐之男」であるハズだ・・・
その後、
ーーーーー
↓↑
公孫淵も
卑衍・・・・・・・・・卑の衍?
衍=あまる・エン・余分にあまる
余計な
衍字・衍文
延び広がる
押し広げる
衍義=敷衍
楊祚
らに数万の軍を与えて
遼隧に派遣・・・・・遼の隧?
司馬懿が
遼東に到着
卑衍が
司馬懿を攻撃したが、
司馬懿は
胡遵らを派遣して・・・胡の遵(辶+尊)
卑衍を破った
↓↑
公孫淵は
遼隧に塹壕を掘り、
司馬懿の軍を迎え撃った
遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だったので
司馬懿は、
東南に退却したとみせかけ、・・・東南=辰巳=巽
国都の
襄平に侵攻
公孫淵は遼隧の軍を撤退
都の守備に当たらせたが、
敗退を繰り返し
司馬懿に襄平を包囲された
↓↑
公孫淵は
呉の
孫権に謝罪し、援軍を求め
孫権は援軍として
羊衜・・・・・・羊の衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
道
鄭冑・・・・・・鄭の冑=かぶと・介冑・甲冑
「胄(あとつぎ)」は別字・・・?
何処が別の字なんだか?
同字にしか見えないのは、
ドウジだから・・・
兎に角、「胄」は「世継ぎ」
孫怡・・・・・・孫の怡=忄(心)+台(臺)
を派遣
が、すでに公孫淵は敗北、
遼東で
魏の
張持・・・・・・張の持
らを破って、
男女の
捕虜を得たにとどまった・・・
↓↑
長雨の時期で兵糧が欠乏
公孫淵は人質を出して
和睦・・・・・・・和の「睦」とはダレ?
しようと画策するが、
司馬懿はこれを拒否
公孫淵を捕え、処刑
遼東
公孫氏は滅亡
↓↑
司馬懿はこの地に
魏への反抗勢力が出ぬよう
15歳以上の男子を皆殺(genocide)
↓↑
244年(甲子年)
毌丘倹は
呉との同盟していた
高句麗討伐
高句麗王
位宮・・・・・・・・位の宮
を攻め
都を破壊
位宮
は逃亡
高句麗を滅ぼせなかった
高句麗の
東川王(憂位居)=位宮
は
公孫淵討伐には
協力的であったが、
242年以降
再び魏と険悪な関係になった
毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、
244年
更に東へと進んで
高句麗の軍勢を大破し、
都の
丸都・・・・・・・・・丸い都
を蹂躙
東川王(憂位居)に逃られ
高句麗を
滅ぼすことはできなかった
↓↑
司馬懿・・・・・「懿」が付く天皇?
が反乱し
魏を支配し
司馬懿の長男
司馬師・・・・・・馬師の司は「左右の馬の守」?
が実権者となる
↓↑
毌丘倹は
胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰
らと共に
都督
左将軍
鎮南将軍
豫州刺史・・・・・・豫の州とは「伊豫」?
となる
↓↑
252年
呉の
孫権、死亡
↓↑
討伐軍として
呉に攻め込んだ
魏の
諸葛誕・・・・・・諸の葛の誕
が
呉の
驢馬の息子・・・・驢=馬+盧
諸葛恪・・・・・・諸の葛の恪=忄+各=つつしむ
きまじめ
カク・キャク
に大敗
↓↑
毌丘倹は
諸葛誕に代わって、
揚州刺史の文欽と共に
呉への備えとして
鎮東将軍に転じ
揚州に駐屯し
驢馬の息子の
諸葛恪が攻めてきた時
文欽・司馬孚・張特
と共にこれを防ぎ、
撤退の
諸葛恪を追撃
↓↑
254年
夏侯玄・・・・・・・・夏の侯の玄
が
司馬師に反乱し失敗
司馬師は
曹芳を帝位から降ろし
曹髦を帝位につける
↓↑
夏侯玄と親しかった
毌丘倹の立場もあやうくなり、
息子の
毌丘甸と
かって、
司馬師に処刑された
曹爽の寵臣だった
文欽と共に・・・・・・・・文は「欽」・・・欽明天皇?
彗星が
西北の空を・・・・・・・・北西=乾=戌亥・・・狗意
覆ったのは瑞祥・・・瑞・・瑞皐(ズイコウ)=高野長英?
玄瑞(ゲンズイ)=久坂玄瑞?
だとし
司馬師を弾劾する
皇太后の詔勅を偽造し、反乱
毌丘倹は、
寿春を老人や子供に守らせて
項城に入り、
毌丘倹は城内
文欽は城外に駐屯
↓↑
先鋒の
王基が
攻撃を避け
毌丘倹は
諸葛誕や胡遵が
寿春を攻撃される状況で
退却も出来ずに兵は逃亡・・・
↓↑
城外の
文欽は
訒艾・・・・・・・・訒の艾=よもぎ
に夜襲を仕掛けたが
敗れて
呉へと逃亡
毌丘倹は逃亡しようとしたが
張属・・・・・・・・張の属
に射殺され、
首は
魏都にて晒された
↓↑
毌丘甸は、
父の反乱に際に
魏都に残ってい
山に篭ったが討伐軍に敗れて捕らえられ、
一族もろとも処刑された
荀一族の女であった
毌丘倹の妻は
荀邈らの嘆願によって許され、
孫の
毌丘重
毌丘奥
は、
晋の時代に出仕
↓↑
ーーーーー
・・・?・・・「キクの名前」の「背負う説」資料です・・・