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コジキジゲン

悲しみよコンニチは(Bonjour Tristesse)

2016-08-24 00:37:36 | 古事記字源

 ・・・小さい町の川も轟音の濁流である。「台風・颱風」が行ったが、「鮐諷」じゃないョ、なッ・・・「風と共に去りぬ( Gone with the Wind)」じゃぁなくて、「Gone with the the typhoon Damages」で、人間も家畜もペットも日常性は「悲しみよコンニチは(Bonjour Tristesse)」である・・・「子育てに自信を失い我が子を・・・」、「お勉強の強制で我が子を・・・」ですか・・・「子羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」・・・中国では淡水の「河豚(ふぐ)=河+豚」はブタに似た鳴き声をするらしいからの名前らしい・・・そして「鮐・鰒・鯸・魨・鯺」の異字漢字も「フグ」らしい・・・「鮐=フグ(fugu)フグ科の魚類の総称・ふぐ(河豚)・およそ120種の魚がフグ科に分類」・・・「ナゴヤフグ(名古屋フグ)」との呼称もあるらしく、「毒に当たればミノオワリ(美濃尾張)」の洒落らしいが、「毒」は「主(亠+十+一)の「毋(ない・ブ・ム) or 母(はは・ボ) or 毌(つらぬく・カン・ガン・貫)」である・・・
 「毌丘倹(カンキュウケン)」
  ?~255
  字は
 「仲恭」
  并州
  河東郡
  聞喜県
  出身
  尚書郎
  洛陽の典農
  魏の
  荊州刺史
  幽州刺史
  魏の将軍
  最後は
  司馬師に反乱後、討伐された
  ↓↑
  魏の官僚
  毌丘興
  の子
  毌丘甸
  毌丘宗
  の父
  毌丘秀
  の兄
  孫は
  毌丘重
  毌丘奥
  孫娘は
  毌丘芝
  ↓↑
 毌丘倹は
 237年
 孫権は
 高句麗と通じ、
 遼東へ親征を行おうとした
 魏は
 毌丘倹を派遣しこれと対陣、
 毌丘倹が鮮卑の軍を動かして
 遼東に駐屯させたので、
 孫権は遠征を断念
  ↓↑
 魏は
 公孫淵に対し上洛を命じたが、
 公孫淵はこれを拒否、挙兵して
 遼隧で毌丘倹を撃退する
  ↓↑
 遼東の
 公孫淵が
 呉と接触
  ↓↑
 毌丘倹は
 魏王
 曹叡の命により
 幽州刺史となり、
 烏丸の単于
 寇婁敦
 と
 袁尚
 烏丸へと逃げた者
 5000余を降伏させた
  ↓↑
 遼隧の戦い(238年)
 魏王
 曹叡は
 司馬懿に4万余の兵を与え、
 公孫淵征伐
  ↓↑
 「238年・・・遼隧の戦い」と「卑弥呼」
  ↓↑
ーーーーー
 倭に関係する極東国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、
      中遼の二郡とし自らの太守を置
      また、山東半島に営州刺史を置き、
      「遼東侯・平州牧」と号した「公孫度」の子、
      「公孫康」が継ぎ、
      「度」の弟、
      「恭」が「永寧郷侯」となり、
      「康」は西暦196~220年まで
      楽浪郡を分けて帯方郡を置いた
 220年 後漢滅亡。魏王・「曹丕」、
      「献帝」を廃し、
      魏の「文帝」となる
 221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
 229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
      「公孫康」の子、
      「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
      「車騎将軍」の爵号を授
 232年 呉の「孫権」、
     「淵」に「燕王」の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣。
     「淵」はこの使者を殺し、
      その首を「魏」に差しだし、
     「楽浪公」の爵位を得る
 235年 高句麗王、「位宮」、
      呉から「単于」の爵号を受く
 237年 「魏」は
      幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし
     「淵」軍と戦い敗北
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 238年 六月、「卑弥呼」、
         大夫「難升米」を
         「魏」におくる
 ・    ↓
 ・    八月、「魏」の「司馬懿」を
          将軍とする軍隊に
         「淵」軍敗北、戦死
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 239年 帯方郡・太守
     「弓遵(辷+尊)」が
     「韓」族に攻められ戦死。「韓」滅亡
 244年 「魏」は
      幽州刺史の
      「毋丘倹」を将軍にし、
      高句麗軍を壊滅さす
      帯方郡太守
      「王・(斤+頁)」、
      塞曹掾史
      「張政」を「倭国」に派遣
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 この「年表」に記されている「人名」と「官名」、「地名」の漢字とその「音」に注意すれば「古事記」が何を示唆しているか明かである。
 更に「238年」の「六月」から「八月」・・・ワズカ、「二カ月間」・・・。
 「卑弥呼」の「倭」は、少なくても
 「六月」までは
 「もと『燕=公孫氏』に属」
 さざるを得なかったハズである・・・
 何故なら
 「公孫淵=燕」は「237年」には「呉」と同盟、
 あるいは册封関係にあり、
 敵対する
 「魏」の「幽州刺史」の「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、コレを撃破して勝利。
 翌年の「238年の八月」に
 「魏」の
 「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北し、戦死したのである。
 時間的な流れでいえば、
 「倭」は「238年六月~八月」までは
 「呉」と深い関係にあった「公孫淵=燕」に
 「属」していたハズだ・・・もちろん、状況的に、直接的にも「倭」は「呉」と深い関係にあった・・・
 すると、
 「238年『六月』」、
 この『六月』に「卑弥呼」が大夫「難升米」を「魏」におくる 、と云うことはどういうことなのであるか。
 記録上の齟齬がナイとしたならば、朝鮮半島・遼東半島は
 いまだこの年の
 『八月』まで「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
 この「未だ燕の支配下の『六月』」、
 どのような経路でいけたのか?・・・
 どのような目論見で「難升米」を「魏」におくったのか?・・・
 方法は色々考えられるとしても・・・
 戦局が未だ定まらぬ「敵地=燕地」の経路をである。
 「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、「呉=燕」の配下にありながらも二股をかけざるを得なかったのだ。あるいは「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に「卑弥呼」は乗せられたのである。あるいは「燕=公孫氏」、「呉=孫氏」そのものと「縁籍」であったのだ。
 そして、
 『八月』、「公孫淵=燕」は「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
 『十二月』、「卑弥呼」は「魏王=明帝」から詔と「親魏倭王」としての「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらった・・・
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦
            卑弥呼の死亡
            「邪馬台国で男王」立つが「内乱」
            「宗女・壱與」が
           「十三才で女王」となる
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 238年から六年後、
 244年に「高句麗王=位宮」も敗北した。
 朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・当然、「倭」へ、である・・・。そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は「魏」の「張政」に担ぎ上げられた「壱与」に権力交替したのである。「狗奴国との対立」や「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
 すなわち、この部分に於いても「陳寿」は「使訳」の報告すべてが正しいわけがあるまい、と言っているのだ。「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。同音異字なら「芝居」で、しかも「芝居(しばい)」は日本語であるから・・・。
 ・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・「卑弥呼」の排除である。
 243年は「宗主国」である「魏の帯方郡太守」が「倭へ使者」を派遣してきたのである。
 その後の「壱与」の権力交替は「帯方郡使」としての
 「張政=魏」の策謀(告喩)による
 「淵=燕=呉」親派の「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」、
 あるいは「溺殺」によるものである・・・
 漢字の「乙・乚」の秘密である・・・
 「張政」と「壱与」の「告喩」としての「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、「長崎」、「諌早」、「熊本・宇土・横島」へとその勢力を浸透させて「卑弥呼」を「殺害(?)」したのだ・・・
 その後、「壱与」は「宇佐」に東遷し、権力の基盤を「大分」に置いた。だが、「卑弥呼」の親派勢力は長崎「諌早」、「天草諸島」、「熊本・横島」、そして「沖縄」、「台湾」にその勢力を有していたハズである・・・
 結論的に九州(倭)は「魏」の配下に入ったが、「二人の女王」の勢力は「遼東半島」、「山東半島」、「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と、「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」に分裂=磐余(イワレ)=「大分」していたのだ。
 もちろん、「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は「博多・伊都=須佐之男」であるハズだ・・・
 その後、
ーーーーー
  ↓↑
 公孫淵も
 卑衍・・・・・・・・・卑の衍?
            衍=あまる・エン・余分にあまる
              余計な
              衍字・衍文
              延び広がる
              押し広げる
              衍義=敷衍
 楊祚
 らに数万の軍を与えて
 遼隧に派遣・・・・・遼の隧?
 司馬懿が
 遼東に到着
 卑衍が
 司馬懿を攻撃したが、
 司馬懿は
 胡遵らを派遣して・・・胡の遵(辶+尊)
 卑衍を破った
  ↓↑
 公孫淵は
 遼隧に塹壕を掘り、
 司馬懿の軍を迎え撃った
 遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だったので
 司馬懿は、
 東南に退却したとみせかけ、・・・東南=辰巳=巽
 国都の
 襄平に侵攻
 公孫淵は遼隧の軍を撤退
 都の守備に当たらせたが、
 敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲された
  ↓↑
 公孫淵は
 呉の
 孫権に謝罪し、援軍を求め
 孫権は援軍として
 羊衜・・・・・・羊の衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
                  道
 鄭冑・・・・・・鄭の冑=かぶと・介冑・甲冑
            「胄(あとつぎ)」は別字・・・?
             何処が別の字なんだか?
             同字にしか見えないのは、
             ドウジだから・・・
            兎に角、「胄」は「世継ぎ」
 孫怡・・・・・・孫の怡=忄(心)+台(臺)
 を派遣
 が、すでに公孫淵は敗北、
 遼東で
 魏の
 張持・・・・・・張の持
 らを破って、
 男女の
 捕虜を得たにとどまった・・・
  ↓↑
 長雨の時期で兵糧が欠乏
 公孫淵は人質を出して
 和睦・・・・・・・和の「睦」とはダレ?
 しようと画策するが、
 司馬懿はこれを拒否
 公孫淵を捕え、処刑
 遼東
 公孫氏は滅亡
  ↓↑
 司馬懿はこの地に
 魏への反抗勢力が出ぬよう
 15歳以上の男子を皆殺(genocide)
 ↓↑
 244年(甲子年)
 毌丘倹は
 呉との同盟していた
 高句麗討伐
 高句麗王
 位宮・・・・・・・・位の宮
 を攻め
 都を破壊
 位宮
 は逃亡
 高句麗を滅ぼせなかった
 高句麗の
 東川王(憂位居)=位宮
 は
 公孫淵討伐には
 協力的であったが、
 242年以降
 再び魏と険悪な関係になった
 毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、
 244年
 更に東へと進んで
 高句麗の軍勢を大破し、
 都の
 丸都・・・・・・・・・丸い都
 を蹂躙
 東川王(憂位居)に逃られ
 高句麗を
 滅ぼすことはできなかった
 ↓↑ 
 司馬懿・・・・・「懿」が付く天皇?
 が反乱し
 魏を支配し
 司馬懿の長男
 司馬師・・・・・・馬師の司は「左右の馬の守」?
 が実権者となる
 ↓↑
 毌丘倹は
 胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰
 らと共に
 都督
 左将軍
 鎮南将軍
 豫州刺史・・・・・・豫の州とは「伊豫」?
 となる
 ↓↑
 252年
 呉の
 孫権、死亡
 ↓↑
 討伐軍として
 呉に攻め込んだ
 魏の
 諸葛誕・・・・・・諸の葛の誕
 が
 呉の
 驢馬の息子・・・・驢=馬+盧
 諸葛恪・・・・・・諸の葛の恪=忄+各=つつしむ
                   きまじめ
                   カク・キャク
 に大敗
 ↓↑
 毌丘倹は
 諸葛誕に代わって、
 揚州刺史の文欽と共に
 呉への備えとして
 鎮東将軍に転じ
 揚州に駐屯し
 驢馬の息子の
 諸葛恪が攻めてきた時
 文欽・司馬孚・張特
 と共にこれを防ぎ、
 撤退の
 諸葛恪を追撃
 ↓↑
 254年
 夏侯玄・・・・・・・・夏の侯の玄
 が
 司馬師に反乱し失敗
 司馬師は
 曹芳を帝位から降ろし
 曹髦を帝位につける
 ↓↑
 夏侯玄と親しかった
 毌丘倹の立場もあやうくなり、
 息子の
 毌丘甸と
 かって、
 司馬師に処刑された
 曹爽の寵臣だった
 文欽と共に・・・・・・・・文は「欽」・・・欽明天皇?
 彗星が
 西北の空を・・・・・・・・北西=乾=戌亥・・・狗意
 覆ったのは瑞祥・・・瑞・・瑞皐(ズイコウ)=高野長英?
              玄瑞(ゲンズイ)=久坂玄瑞?
 だとし
 司馬師を弾劾する
 皇太后の詔勅を偽造し、反乱
 毌丘倹は、
 寿春を老人や子供に守らせて
 項城に入り、
 毌丘倹は城内
 文欽は城外に駐屯
 ↓↑
 先鋒の
 王基が
 攻撃を避け
 毌丘倹は
 諸葛誕や胡遵が
 寿春を攻撃される状況で
 退却も出来ずに兵は逃亡・・・
 ↓↑
 城外の
 文欽は
 訒艾・・・・・・・・訒の艾=よもぎ
 に夜襲を仕掛けたが
 敗れて
 呉へと逃亡
 毌丘倹は逃亡しようとしたが
 張属・・・・・・・・張の属
 に射殺され、
 首は
 魏都にて晒された
 ↓↑
 毌丘甸は、
 父の反乱に際に
 魏都に残ってい
 山に篭ったが討伐軍に敗れて捕らえられ、
 一族もろとも処刑された
 荀一族の女であった
 毌丘倹の妻は
 荀邈らの嘆願によって許され、
 孫の
 毌丘重
 毌丘奥
 は、
 晋の時代に出仕
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・?・・・「キクの名前」の「背負う説」資料です・・・

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