・・・「宿禰=すくね=足尼」?・・・じゃぁ、「宿=足」で、「禰=尼」なのか?・・・「宿禰=すくね=足尼=諏(言+耳+又)句音」?・・・
ーーーーー
「銷=とかす・とける・つくす・つきる・けす・そこなう・ちる
ショウ
銷鑠(ショウシャク)
つ(尽)くす・つきる
銷沈
けす・きえる
銷夏
へる・おとろえる・そこなう
銷刻
ち(散)る・ちらす」
↓↑
手書きの「高=・・・高」
高橋(たかはし・たかばし・コウキョウ)
河川に架かる橋に由来する名称(人名・地名など)
神道における天に届く柱、「階(たかはしら)」に由来
八色の姓の一つ
高橋真人
高橋氏
日本において、佐藤,鈴木に次いで多い姓
東北地方に特に多い苗字
↓↑
郄=ゲキ・キャク・ケキ・すきま・くぼみ
「郄=メ+厷+阝」・・・「郤」の異体字・・・「隙」「希+刀」
すき・すきま・ひま・あいだ・仲たがい(?)=隙
春秋時代、晋の地名。現在の山西省にあった
↓↑
「八色の姓(やくさのかばね)」
684年(天武十三)
天武天皇が新たに制定した
「真人(まひと)
朝臣(あそみ・あそん)
宿禰(すくね)
忌寸(いみき)
道師(みちのし)
臣(おみ)
連(むらじ)
稲置(いなぎ)」
の八つの姓の制度
『日本書紀』
天武天皇十三年
「詔して曰はく、
更諸氏の族姓を改めて、
八色の姓を作りて、
天下の万姓を混(まろか)す。
一つに曰く、真(眞)人。
二つに曰く、朝臣。
三つに曰く、宿禰。
四つに曰く、忌寸。
五つに曰く、道師。
六つに曰く、臣。
七つに曰く、連。
八つに曰く、稲置」
↓↑
「真(眞)人」
主として
継体天皇以降の天皇の近親
従来、
「公(君・きみ)」
の「姓」を称していたものに与えた
↓↑
「宿禰」
宿禰(スクネ・シュクネ)=「足尼(ソクニ)?」
もっとも古い用例
埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘に
「多加利-足尼」とみえる
多加利足尼・・・一字一音とすれば
タカリソニ=鷹の利は足の餌(珥)?
千足(ちだる)国?
「蘇良美都=tsoramitu=そらみつ
古事記に三首、日本書紀に一首
多くを加え、利の足の尼?
利=きく(効く)・利目(効き目)
するどい(鋭い)・鋭利
とし(俊・敏)・敏捷・俊敏
よい(良い)
さとい(聡い)
かしこい(賢い)
たかりタリに=多加利(太化理→大化の改新)多理似?
「宿禰(足尼)」=「少兄(すくなえ)」
↓↑ 大兄(おおえ)=天智天皇
↓↑ 中大兄皇子?→中の意味は?
↓↑小兄弟=呼びかけにも用い
↓↑多く悪事を働く団体組織、
↓↑共通の利益のために結ばれた
↓↑グループの中で密接な関係を
↓↑持った年齢の若い者
の約(訳・役)?で
「高句麗の官名」の
「小兄(ショウケイ)」に由来?
↓↑
大対盧(ダイタイロ)
太大兄(タイダイケイ)・・・・大兄
烏拙(ウセツ)
太大使者(タイダイシシャ)
位頭大兄(イトウダイケイ)・・大兄
大使者(ダイシシャ)
大兄(ダイケイ)・・・・・・・大兄
褥奢(ジョクシャ)
意侯奢(イコウシャ)
小使者(ショウシシャ)
小兄(ショウケイ)・・・・・・小兄
翳属(エイゾク)
仙人(センニン)
↓↑ ↓↑ ↓↑
中-大兄皇子?・・・・・・・・・大兄
→「中」の意味は?
↓↑
「中臣」→鎌足?
京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた
天児屋命(アメノコヤネ)を祖
姓(かばね)は連(むらじ)
「八色の姓」以後は朝臣(あそみ・あそん)
↓↑
「中臣金」は
↓↑
「中臣鎌足」の従兄弟・・・中臣鎌子=藤原鎌足
↓↑ 中臣鎌足の父=中臣御食子
母=大伴智仙娘
妻=鏡王女
車持与志古娘
子=定恵、藤原不比等
氷上娘、五百重娘
↓↑ 耳面刀自、斗売娘
天武天皇元年(672年)六月
壬申の乱
大友皇子不利
七月二十二日
「瀬田決戦」で
「中臣金」は
大友皇子に従って出陣、敗戦し
「中臣金」は逃亡
大友皇子は
七月二十三日
自刃
「中臣金(右大臣)」は束縛
七月二十四日の条文(日本書紀)
「左右大臣諸々の罪人を探り捕らえた」
八月二十五日
近江国浅井郡田根(滋賀県東浅井郡北部)
で斬殺処刑
子孫は流罪、子の中臣英勝は
大友皇子の妃
「耳面刀自媛」・・・耳面刀自(みみもとじ・みみものとじ)
ジメントウジ
字面 当 時?
の従者として
藤原鎌足の故地
鹿島を目指し
九十九里浜に上陸したが
媛は病に倒れ死亡
↓↑
三世紀
「高句麗・夫余」の二国と
「沃沮・東濊」の二部族は
前漢代の「濊貊(ワイハク・カイハク)」の後裔
「高麗=コマ=貊(狛)」
↓↑
宿禰=5世紀半ば以前に
主として畿内地方の豪族が用いた
姓となったのは
684年(天武十三)
八色(やくさ)の姓の一つ
尼=尸+匕=あま・ニ・ジ
さだ・ただ・ちか
「尼港・摩尼・牟尼」
「比丘尼」の略
「尼(ジ)=仲尼=孔子=尼父(ジホ)」
「㞾(山+尼)は、尼丘の意味の異体字」
尿・屁・屎
昵懇(ジッコン)→昵=日+尼(尸+匕)
昵近(ジッキン)
昵=なじむ・慣れ親しむ
屎尿・屎・屁・屍・屏・屑・屓・屠
屢=しばしば・たびたび・しきりに・ル
婁=ル・ロウ・つなぐ・ひく・ひっぱる
ひき寄せる
宿曜占星術二十八宿の一
牡羊(おひつじ)座の頭部三星
たたら(蹈鞴・踏鞴)
たたみ(畳)
婁絡=まとわりつき自由を奪う
襤褸(ぼろ)
螻蛄(おけら)
樓閣(ロウカク)
↓↑
貴族の「姓(かばね)」
朝臣・宿禰・忌寸
これが
「甲子の宣」の
大氏・小氏・伴造氏の発展形で
その間にさらに氏族の再編が進められ
朝臣52氏,宿禰50氏,忌寸11氏
におさめられた・・・
・・・発展形って・・・?
・・・大氏→朝臣・・・先住支配層?
・・・小氏→宿禰・・・先住支配層?・・・「足尼」?
・・・伴造氏→忌寸・・・文人渡来人=訳等意訊?
文字記録の知識を有する渡来人
忌寸=己の心を寸(はか)る
伴+造=とも の みやつこ
伴造・・・・・・・造(つくり)=物造りの技術者
(とものみやつこ) こしらえる・為す
宮 の子(工・匠)?
「みやつこ=造(ゾウ)=三八通故」?
三十八→十一(壱拾壱)
三×八→二十四(弐拾四)
伴造=伴(同僚・同伴)の
農民集団の
統率・管理者
軍事に携わる大伴・物部
祭祀に携わる中臣・忌部
食膳に携わる膳
「伴である渡来技術者集団」の統率者が
「伴造」として部(べ)を率いる体制が作られ
旧来の「伴」が
その「支配下の農民集団」とともに
「部」に組織されるようになり
「伴造」は部の管理者となった・・・?
要は「伴造」=大陸、半島の渡来人
↓↑
天武天皇の国風諡号(和風諡号)
天渟中原瀛「真人」天皇
(あまのぬなはらおきの「まひと」のすめらみこと)
「真人」が使われ八色の姓の筆頭
与えるべき「八色の姓」の「真人」があるのは「?」
↓↑
八色の姓
物部弓削(もののべゆげ)
阿倍布勢(あべのふせ)・・・布勢=ふせ=布施・伏せ・臥せ
蘇我石川(そがのいしかわ)
などの複姓はこれ以後原則として消滅
↓↑
684年(天武天皇十三)十月
真人(まひと)
朝臣(あそん)
宿禰(すくね)
忌寸 (いみき)
道師(みちのし)
臣(おみ)
連(むらじ)
稲置(いなぎ)
の8種の姓(かばね)
道師と稲置の姓を与えた例は見当たらない
「連」は八色の姓制定直前に
↓↑
「冠位十二階」
604年に制定
605年~648年まで行なわれた冠位
この制定により人材登用の道が開かれ
朝廷に仕える臣下を12の等級に分け
地位を表す冠を授けた
推古十一(603) 年
聖徳太子が制定
六徳目
徳・仁・礼・信・義・智
をそれぞれ
大小の2つに分け
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼
大信・小信・大義・小義・大智・小智
十二階とし
これに
紫、青、赤、黄、白、黒
をあて、濃淡によって大小を区別
絁(あしぎぬ)製の袋状の被り物の
6種の色で冠位を区別し
ついで冠飾に
金その他の素材による差等表示の制が導入
「徳・仁・礼・信・義・智」
が
「『隋書(ずいしょ)』俀国伝」では
「徳・仁・義・礼・智・信」
の順・・・?
大化三(647)年
十三階の冠位が制定
ーーーーー
・・・???・・・