・・・TVの映像画面そのものが「葛飾 応為(かつしか おうい」の光と影だった・・・「江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎の 三女・名は栄(えい・お栄・阿栄・應栄・栄女とも記された」・・・「北斎はアゴと娘を呼んでいた」・・・?「顎=あご=阿児・頷(含頁)・顋(思頁)・頤(臣頁)」・・・
「頤=おとがい・下あご・あご・減らず口・減らず口をたたくこと」・・・
「頤が落ちる=寒くて震え上がるさま・食べ物が非常にうまいことのたとえ・あごが落ちる・口数が多いこと・多弁である」・・・
「あごで人を使うこと・頤使に甘んずる・人を頤使する」・・・
「頤=おとがい・あご・下あご」・・・
「頤を解く=おとがいをとく=あごがはずれるほど大笑いする・解頤(カイイ)」・・・
「期頤(キイ)=百歳の人・期=百年、頤=養う意」・・・
「朶頤(ダイ)=あごを垂らして、食べようとすること
欲しがること
強国が弱国を併呑しようとすること
𦣞=匚+口+¦=叵+¦=イ=乳房の象形
頁=ケツ=祭事の帽子、呪飾・人の首から上
=ページ(page)・大貝
授乳の儀礼・やしなう意
乳を飲むとき、乳飲み子は
顎を動かすので、顎の意
姫の「臣」は、見張る・大きな瞳
姫=女性に対する美称
姬=歌舞をなりわいとした女性
妾或寵婢(情婦)的別稱
「姬=女+𦣞」の「𦣞」と「臣」は
別の意味の字
「姫=ひめ・シン=女臣・見詰める
湖畔・滸・邊・阿」
「姬=ひめ・キ=女+𦣝(𦣞)=乳房」の
旧字体は「姫→姬」だが
「女の形象に
乳房(𦣞)を有する成人女性」で
「女の形象に
臣(シン・見張る)」の意味はない
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葛飾北斎・・・葛飾派の祖・・・「葛(かづら)」→蔓
誕生
1760年 庚辰(乙・癸・戊)
0010月 丙戌(辛・丁・戊)
0031生 甲子(壬・ ・癸)戌亥=空亡
没年
1849年 己酉(庚・ ・辛)
0005月 己巳(戊・庚・丙)
0010日 丙辰(乙・癸・戊)
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別人がいるらしい・・・
「葛飾北斎 (別人)」「牛馬図の作者」
と
「二代目 葛飾北斎(を名乗る後継者)」は「二人」もいたらしい・・・「鈴木」と「橋本」の姓で二人いた・・・
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本ものは
「シーボルト事件」では摘発されそうになったが
「川原慶賀」が身代わりとなり、難を逃れた・・・?
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「シーボルトと川原 慶賀」
川原 慶賀(かわはら けいが)
天明六年(1786年)
~
万延元年(1860年)
長崎の画家
出島出入絵師として
風俗画、肖像画、生物の写生図を描いた
諱(字)は
種美
通称は
登与助(とよすけ)・・・登の与の助
訳を與え助(援)ける
号は慶賀
別号
聴月楼主人
後に
田口姓を名乗る
息子は
川原盧谷で洋風画を描いた
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長崎の
今下町(いましたまち・長崎市築町)に生まれ
父は
川原香山(町絵師)
文化八年(1811年)頃
石崎融思に師事
出島オランダ商館への出入りを許され
文化十四年(1817年)
来日した
ブロムホフの
家族肖像画などを描き
長崎の風俗画や風景画
出島での商館員達の生活等を描いた
異国の風俗と
日本の浮世絵を
融合させた独自の画面を創った
文政六年(1823年)
シーボルトが商館付医師として来日
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慶賀は
日本の動植物等を蒐集し始めた
シーボルトの注文に応じ
『日本』という本の挿絵のため
精細な動植物の写生図を描いた
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文政八年(1825年)
ジャワ島バタヴィアから
オランダ人の画家
デ・フィレーネフェ
を招聘、
彼から洋風画の画法を習得
文政九年(1826年)
オランダ商館長の江戸参府に
シーボルトに同行し
道中の風景画、風俗画、人物画等も描いた
絵図のほとんどはオランダへ発送された
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文政十一年(1828年)
シーボルト事件
多数の絵図を提供した
慶賀も
長崎奉行所で取り調べられ、叱責
シーボルト追放後
シーボルトを慕う人々によって
嗅ぎ煙草入れが
シーボルトの元へ送られ
この嗅ぎ煙草入れの蓋には
慶賀が下絵を描いた
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楠本滝
楠本イネ
の肖像画が表裏に
螺鈿細工で表されている
(シーボルト妻子像 螺鈿合子)
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その後もシーボルトの後任となった
ハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け
同様の動植物画、写生図を描いた
天保七年(1836年)
『慶賀写真草』(植物図譜)を著
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天保十三年(1842年)
オランダ商館員の依頼で描いた
長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた
鍋島氏(佐賀藩)・・・花杏葉=杏葉(ギョウヨウ・ギョヨウ)
茗荷紋と似ているが
杏葉は馬具などの装飾品
西アジア地方から
中国に流入した文様の一種
細川氏(熊本藩)・・・引両紋=(ヒキリョウモン)
丸の内に二つ引
の家紋を描き入れ
これが国家機密漏洩と見做され
再び捕えられ
江戸及び長崎所払いの処分を受けた
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弘化三年(1846年)
長崎に戻った・・・
長崎を追放されていた慶賀は
長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである
脇岬(長崎市脇岬町)に向かった
脇岬観音寺に残る
天井絵150枚のうち
5枚に慶賀の落款があり
50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる
この頃から
別姓「田口」を使用
嘉永六年(1853年)
プチャーチン
の肖像画が残っている
出島の日常風景を描いた
唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)
は開国後に描かれていること、
慶賀の落款がある
万延元年(1860年)作と
推定される絵が残っていることなどから
75歳までは生きた・・・一説には80歳まで生きた
慶賀は
伝統的な
日本画法に
西洋画法を取り入れていた
精細な動植物図については
シーボルトの指導もあった
日本に現存する作品は約100点
オランダに送られ
ヨーロッパ各地に分散した
慶賀作の
絵図は6000-7000点・・・
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慶賀が描いた動植物図のほとんどはオランダに送られ
シーボルトらの著作である
『日本動物誌』等の図として利用
標本がなく、慶賀の写生図をもとに記載された
ウミヒゴイ
Parupeneus chrysopleuron(Temminck et Schlegel, 1844)
などもある
これらは
ライデン国立自然史博物館に所蔵
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クララ
「葛飾応為」
「眩=くらむ・くらます・まぶしい・まばゆい
ゲン・グヱン
目がくらむ・目をくらます
眩暈 (ゲンウン) ・眩人・眩惑
眩暈 (めまい) ・目眩 (めまい)
瞑眩 (めんげん・めんけん) 」
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・・・クラクラ、目眩の毎日・・・