・・・「釧路=くしろ=釧=久代=句詞賂」・・・「釧=古代の腕輪・貝、石、青銅、鉄などで造り、青銅製のモノのには鈴をつけたものもある・ひじまき(肘巻き・肱巻き)・たまき(玉木・玉置・環)」・・・「環=たまき=珠樹=押木之玉縵=立縵=磐木之玉縵」・・・「縵=糸+曼」・・・
ーーーーー
曼=日+罒+又=ひく・ながい
ひろい・ひっぱる・ひろがる
うつくしい
マン・バン
「曼曼」
「曼姫」
「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」
「衍曼(エンマン)」
「靡曼(ビマン)」
「曼陀羅=マンダラ=曼荼羅」
↓↑ ↓↑
「縵 =かづら=蘰=蔓=鬘=葛=葛山」
「和良=かつら=桂=楿」
「勝等=かつら=勝良=勝占=勝貫=藤(かつら)」
ーーーーー
押木珠縵(オシキのタマカズラ)
一云
立縵(タチカズラ)・・・釧 (くしろ)は
腕輪(bracelet)だが?
又云、 釧路=句詞賂=久代
・・・くじら(久志羅・櫛羅・鯨・鯢)
磐木縵(イワキのカズラ)
↓↑
岩木・違和記・磐城・夷和記・岩城・岩切・伊脇・Iwaki
↓↑
日本人苗字
いわき
磐木・磐城・盤城
伊脇・井脇・猪脇
岩木・岩槻
岩樹・岩気・岩亀
岩己・岩城
岩喜・岩毅・岩結
伊和喜・居和城
嶽城
巌木・巌紀・厳・巌城・巌樹
ーーーーー
たまかずら=玉鬘(髟+曼)=玉縵(糸+曼)
髟=镸+彡=ヒョウ
髪の毛が長く垂れ下がっているさま
古代の装飾品の一
多くの玉を糸に通した髪飾り
「押木の玉鬘を持たしめて(古事記)」
かつら・かもじ(髢・髪文字=加文字)
かもじ=母or妻
「あれを見よ しらが(白髪)女の玉鬘
(誹諧連歌抄・恋)
枕言葉
玉鬘を頭に「かける」ところから
「懸(か)く」また、その
「かけ」の類音
「影」にかかる・・・「玉鬘かけぬ」・・・?
「玉鬘かけぬ時なく恋ふれども
万葉集・二九九四」
「玉鬘影に見えつつ忘らえぬかも
万葉集・一四九」
影=景+彡
景行天皇の「彡(サン・セン)」
彡=刷毛跡(痕・蹟・迹)⇔倭タケル
「彡」ならば、
「押木」=押さえる木⇔版木刷りの?
馬楝(ばれん)
木版・版画を摺る道具
馬連・馬簾などとも表記
竹の皮などで作った
撚紐を渦巻状にした
紙縒りを芯として
大量の紙を重ねて漆を塗った
丸皿状の
当て皮(馬楝あて)に当てて
滑りを良くするために
これを竹の皮で包んで作る
楝(木+柬・あふち・レン)=樗=栴=檀=せんだん
(白檀の別名で半寄生の小高木
黄色の小花が咲?)
初夏
淡紫色の花をつける
襲(かさね)の色目の一つ
表は薄色で、裏は青
一説に、表は紫、裏は薄色。夏に用いた
・・・長押 (なげし) =鴨居の上につけた横木・・・?
ーーーーー
腕輪=bracelet=うでわ=有出話=有出羽
俗語で「手錠」=「手枷・手械・杻・梏」
「手纏(たまき)」
纏⇔纏(まとい)・江戸時代に町火消の各組が
用いた旗印の一種・各組により様々な意匠が凝らし
上部に組を表す頭があり
馬簾(ばれん、上部から垂れ下がった細長い飾り)
と呼ばれる紙や革製の房飾りがついて
手に持って振り上げ たり
回転させると踊るようになっている
纏 ⇔纒
纏(糸+廛・糸+广+田+坴)⇔纒(糸+厂+黒+土)
廛=やしき・みせ・テン・デン
奈良県桜井市の遺跡
纒向(まきむく)遺跡・・・巻向と書くことあり
纒向珠城(たまき)宮
眞記務句-意施記?
「釧(くしろ)」
と呼ばれていた
ブレスレット
無礼素劣 訳
ーーーーー
日本書紀
夏四月甲午朔
天皇欲設吳人、
歷問群臣曰
「其共食者、誰好乎。」
群臣僉曰
「根使主可。」
天皇、卽命
根使主爲共食者、
遂於
石上高拔原、饗吳人。
時、
密遣舍人、
視察裝飾、
舍人復命曰
「根使主
所著玉縵、
大貴最好。
又衆人云、
前迎使時
又亦著之。」
於是、天皇欲自見、
命
臣連
裝
如
饗之時、
引見殿前。
皇后、
仰天歔欷、
啼泣傷哀。
天皇問曰
「何由泣耶。」
皇后
避床而對曰
「此玉縵者、
昔
妾兄
大草香皇子、
奉
穴穗天皇勅、
進妾於陛下時、
爲
妾
所獻之物也。
故、
致疑
於
根使主、
不覺
涕垂哀泣矣。」
↓↑
(即位14年)
夏4月1日。
天皇は呉人に食事を振る舞おうと思い
群臣に次々に問い
「共に食事をする人は誰がよいか?」
群臣たちはことごとく言いました。
「根使主(ネノオミ)がよい」
天皇はすぐに
根使主(ネノオミ)に命じて
共食者(アイタゲヒト)とした
石上(イソノカミ)の
高抜原(タカヌキノハラ)で
呉人と食事をさせました
そのときに
密かに舎人を派遣して、
装飾を視察させ
舎人は報告して言った
「根使主が身につけた
玉縵(タマカズラ)は
太くて高貴で、
とても好ましいもので
衆人(モロビト)も言って
『前に使者を迎えたときにも
また、身につけていた』と」
それで天皇は見たいと思い
臣連に命じて
食事をしたときのような装いで
殿(オオトノ=天皇の宮殿)の前へと
呼び寄せた
すると皇后(草香幡梭姫皇女)が
天を仰ぎ見て嘆き
泣き悲しみました
天皇が訊いた
「どういう理由があって泣いているのだ?」
皇后は床を降りて
(天皇・皇后は一段高い床にいる)
答えた
「この玉縵(タマカズラ)は、
昔、わたしめの
兄の
大草香皇子(オオクサカノミコ)が
穴穂天皇(アナホノスメラミコト=安康天皇)
の勅命を受け
わたしめを陛下(雄略天皇)に送るときに
わたしのために献上した
結納品なのです
それで根使主を疑って
不覚にも涙を流してしまいました」
ーーーーー
天皇聞驚大怒、深責根使主、
根使主
對言
「死罪々々、實臣之愆。」
詔曰
「根使主、自今以後、
子々孫々八十聯綿、
莫預群臣之例。」
乃將欲斬之、
根使主逃匿、
至於
日根造
稻城
而
待戰、
遂爲
官軍見殺。
天皇命有司、
二分子孫、
一分爲
大草香
部民
以封
皇后、
一分
賜
茅渟縣主
爲
負嚢者。
卽求
難波
吉士
日香々
子孫
賜
姓
爲
大草香部吉士
其
日香々等
語在
穴穗天皇紀。
事平之後、
小根使主(小根使主、根使主子也)
夜臥
謂人曰
「天皇城不堅、我父城堅。」
天皇傳聞是語、
使人
見
根使主宅、
實如其言、
故
收殺之。
根使主
之後
爲
坂本臣、
自是始焉。
ーーーーー
天皇はそれを聞いてとても怒り
根使主(ネノオミ)を深く責めた
根使主は答えて
「死罪死罪
(ウベナリ=敬意と謝意を表す慣用句で
深い意味は無い)
まことにわたしめの過ちです」
詔(ミコトノリ)して言いました。
「根使主は今より以後
子々孫々
八十聯綿
(ウミノコノヤソツヅキ=聯は「連」と同義)
に群臣
(マヘツノクミタチ)の
例(ツラ)に預けてはいけない」
それで斬り殺そうとした
根使主は逃げ隠れ
日根(ヒネ=和泉国日根郡)に至って
稲城(イナキ=稲で作った城)を作って
待ち戦った
官軍に殺され
天皇は
有司(ツカサツカサ=官僚・役人)に命じ
(根使主を)
二つの子孫に分け
一部を
大草香部(オオクサカベ
和泉国
大島郡
日下部郷?)の民とし
皇后に与えた
一部を
茅渟県主(チヌノアガタヌシ)に与え
負嚢者(フクロカツギビト)とした
難波吉士日香々(ナニワノキシヒカカ)の
子孫を探し求め
姓を与え
大草香部吉士(オオクサカベノキシ)とした
その日香香(ヒカカ)たちの
語(コト=物語のこと)は
穴穂天皇の紀にある
事が平定した後
小根使主(オネノオミ)は
夜臥(フ)して人に語り
小根使主は根使主の子
「天皇の城は堅くない。
わたしの父の城は硬い」
天皇は人伝てにこの語(コト)を聞いて
使者を送って
根使主の宅(イエ)を見させ
その言葉の通りで
それで捕らえて殺した
根使主が後に
坂本臣(サカモトノオミ)
となったのはこれが始まりです・・・?
ーーーーー
縵=糸+日+罒(網)+又(右手)
又=フ+乀=一+ノ+乀
=一+乄(示)=一+乂(刈)
↓↑
手足指縵網相=(シュソクマンモウソウ)
首 足 蔓 妄 想
守 則 萬 孟 宗
手足の指の間に
水鳥の水掻(かき)のような
金色の膜があり
全ての人々を掬(すく)い
取って
漏れなく救うという意・・・?
↓↑
縵=マン・バン
無地の絹
ゆるやか・ゆったりとした
連れ弾き
↓↑
縵面(なめ)・・・ナメ=臀-呫(と-なめ)
トンボ・蜻蛉・蜻蜓
とんぼ・あきづ
dragonfly ・damselfly
ドラゴンフライ・ダムセルフライ
騙 せる附等意?
縵=マン・バン
無地の絹・むじぎぬ
ゆるい・ゆるやか
つれびき・合奏する
縵楽
縵面(マンメン・バンメン・なめ⇔名目)
↓↑
縵=糸+曼
縵=謂、雜聲之和樂者也
又、如、縵布(粗樸的布帛)
縵帛(沒有文采的布帛)
縵胡(武士所系的素色
無紋的纓帶)
↓↑
趙客縵胡纓・・・纓=冠の紐
↓↑ 背後の中央に
垂らす紐
纓=糸+嬰=エイ・ヨウ・ひも
冠の両わきから
顔をとりまき顎の下で結ぶ
許嫁(許婚)のいる標
娘がつける紐
冠の紐を結ぶ・冠をかぶる
冠の後につける
↓↑ 尻尾のような飾り
呉鉤霜雪明
銀鞍照白馬
颯沓如流星
十歩殺一人
千里不留行
事了拂衣去
深蔵身與名
↓↑
李白 俠客行=侠遊二十五曲の一
任侠の士を詠う
客は趙の地の出
縵の衣服
胡の紐で帯び
呉の曲った刃先の剣は
霜雪のように輝き
銀の鞍は白馬を照らす
颯沓(サットウ)
颯爽(サッソウ)
速きこと流星の如し
十歩で一人を殺し
千里にあり、その行も留めず
事が終われば
衣を払い
身も名も深く蔵(かくす)・・・?
李太白集158(太白巻02-30・俠客行)
(唐代の詩仙、李白が詠んだ
『侠客行』の冒頭部分)
李白
(701年
長安元年
~
762年10月22日
宝応元年九月三十日)
字は太白
号は青蓮居士
杜甫と同年代・・・安倍仲麻呂も
↓↑
赤=激情と嫉妬
藍=浪漫
白=真実
緑=回想
黒=神秘
秦の心像、形象、印象の色彩
死の色・・・
(査 良鏞=金庸)
↓↑
縵閣(用布帛搭成的樓閣)
帷幔・幃幕(curtain)
如布縵(布制帷幕)
縵=màn・慢と同義?
他を見縊(みくび)って奢る
慢心・我慢・驕慢・高慢・傲慢
自慢・侮慢・暴慢・増上慢
↓↑
寬緩
惰慢(slow)
緩縵
縵者=窖者・密者(莊子·齊物論)
寬心也・禮緩緩兮
↓↑
花鬘・花縵
はなかづら
花を糸で貫いたり
花の枝を輪にして
作った髪飾り
↓↑
「ここに
多遅摩毛理(タジマモリ)
縵四縵(カゲヨカゲ)
矛四矛(ホコヨホコ)
を分けて
大后 に献り
縵四縵・矛四矛を
天皇の御陵の戸に献り置きて
その木の実を擎げて叫び哭びて白さく
「常世国(トコヨノクニ)の
トキジクの
カクのキのミを
持ちて参上りて侍ふ」
とまをし て
遂に叫び哭びて死にき
↓↑
縵八縵(かげやかげ)
「八つの縵」
縵=木の実を紐でつなげたもの
↓↑
植物を輪状にした髪飾り
安康天皇元年二月条
樹枝形の玉飾りがついた冠
「押木珠縵」
687(持統天皇元)年三月条
仏前の荘厳用の
華鬘に相当する
殯宮の「華縵」
五月五日
菖蒲の葉を輪にして
「蘰」に用いる
↓↑ ↓↑
大阪府
羽曳野市
軽里
↓↑
軽部(かるべ)
日本の姓、地名
允恭天皇の皇子
木梨-軽皇子(きなし の かるのみこ)
の御名代部の軽部
各地の軽部の居住地に
軽部の地名が付き、苗字となった
奈良県
橿原(かしはら)市
大軽(おおかる)
付近の古地名
↓↑
津軽
斉明天皇元年(655年)
「津刈-蝦夷」
古くは
「津借」と記録
蝦夷が松前から渡って
津を借りて住んだ
15~16世紀
南部氏が青森県全域を支配し
16世紀末に
大浦為信が津軽地方を統一した
↓↑
津軽郡(つがるぐん)
津軽郡 (北海道)
北海道(渡島国)にあった郡
津軽郡 (陸奥国)
青森県(陸奥国)にあった郡
↓↑
岩木山(ガンボクサン)
↓↑
岩木山(いわきさん)
青森県弘前市
西津軽郡
鰺ヶ沢町に位置する
火山
1,625 mの青森県の最高峰
山容から
津軽富士とも
「お」をつけて
「お岩木(いわき山)」
「お岩木(いわき様)」
↓↑
岩木山神社
丹後国の郎党
大江時廉の陰謀によって滅ぼされた
岩城正氏の子
「安寿と厨子王丸」の伝説が残され
「安寿」が岩木山に祀られている
「岩木山の神は
丹後国の人を忌み嫌う」という言い伝え
↓↑
五所
川原市
十三(旧市浦村)
↓↑
十三湊(とさみなと)
中世から近世に
青森県
五所川原市の
十三湖の辺りにあった
湊(みなと)・・・「氵+秦?⇔奏」・・・溙
演奏=カナでる
合奏
近世以降
「じゅうさんみなと」と呼ばれる
「十三湊遺跡」
十三湊は
十三湖西側の日本海と湖に
挟まれた
やり状の
「砂嘴(サシ)」にあった
「十三(とさ)」の地名
「トー・サム(湖・のほとり)」
というアイヌ語・・・
「十三の意味」は無いのか?
↓↑
砂嘴(サシ・sand spit)
沿岸流により
運ばれた
漂砂が
静水域で
堆積して形成
嘴(くちばし)形の地形
砂嘴が発達し
対岸、またはその付近までに至ると
砂州と呼ばれる
砂嘴が枝分かれしているような地形は
「分岐砂嘴」と呼ばれる
清水港が分岐砂嘴の好例
島と繋がった場合
「陸繋(リクケイ)砂州」と呼び
つながった島を
「陸繋島」と言う
↓↑
「地震と津波で壊滅」
などと記す偽書の跳梁・・・?・・・
破壊されたかどうか別にして
「地震と津波」はあった・・・
「岩木山」は
「過去に何度も噴火を繰り返してきた
活火山」である・・・
1571(元亀2)年~
1600(慶長5)年水蒸気噴火、泥流発生
2月22日
噴火場所は「鳥の海火口爆発」
地震、降灰
7月23日
火砕物降下、泥流・地震、降灰
1672(寛文12)年6月27日、7月28日
地震による山崩れ
~
1782~83(天明2~3)年
1845(弘化2)年
1863(文久3)年~~~1986(昭和61)年地震
↓↑
安藤氏
鎌倉幕府執権
北条義時によって
蝦夷沙汰代官(えぞさただいかん)
に任命され
エミシ出身の在地豪族・・・
前九年の役で戦った
北方の勇者
安倍貞任(あべさだとう)
の末裔を名乗り
室町時代には
「日之本将軍」
の称号を与えられ
津軽海峡を挟んだ
北方世界を支配・・・
14世紀前半
一族内部の跡目相続
蝦夷沙汰代官職を巡る争い
(「津軽の大乱」)
に勝利した
安藤季久(あんどうすえひさ)
宗季(むねすえ)
が津軽西浜に拠点を移した
↓↑
15世紀半ば
南部氏との戦いに
安藤氏が敗北
安藤氏は
柴崎城(しばさきじょう・中泊町)
に逃れ
蝦夷ヶ島へと落ち伸び
後、
津軽奪回を試みるが叶わず
安藤氏は
秋田檜山(ひやま)方面へと
拠点を移した
↓↑
『廻船式目』に
「三津七湊」の一つ
「奥州津軽十三湊」が記録
15世紀前半
火事場整理の跡と考えられる
多量の被熱した
礫を廃棄した遺構が多数存在
火災により多くの施設が
焼失した後
いったん復興作業が行われた
火災は
永享四年(1432年)
南部氏との抗争で敗れた際の火災・・・
ーーーーー
・・・