・・・「コマンチェロ」・・・「テキサスの開拓村、コマンチ族の襲撃が頻発、コマンチに武器を密売して牧場を襲わせる“コマンチェロ”と 呼ばれる白人悪党集団がいた」・・・「南北戦争で使用した中古の銃を売捌いていた日本人がいた・スプリングフィールド銃は、アメリカの南北戦争の後、幕末の日本に大量に輸入・1861年、アメリカ南北戦争で北軍はスプリングフィールド銃、南軍はイギリス製のエンフィールド銃を使用・南北戦争(1861-1865) が終結し、大量の銃や弾薬などの兵器が在庫となり、兵器を製造していた会社は極度の 経営難に陥り、余った兵器は上海の市場に溢れ、ミニエー銃、エンフィールド銃、スペンサー銃は幕末の日本へ」・・・「1867年10月29日
・1867年11月9日・1867年11月15日・1868年1月3日・1868年1月26日~27日」・・・「慶応四年」・・・「鳥羽(トリのハネ)・伏見(フセてミル)=超(チョウ・越)得伏(イ犬)懸」・・・「コマンチェロ・The Comancheros・アメリカ映画の西部劇・1961年制作・ジョン・ウェイン主演・コマンチェロ=コマンチ族に武器を密売する白人・」・・・
ダンダン、混乱してきた・・・調べていたモノがトンで、何処に接続させるべきか忘れてしまった・・・随分と重複も・・・
ーーーーー
「ブンヤ」って?・・・新聞屋・・・新分野・・・眞文?・・・マサかネッ・・・「まさか=今まさに物事が目の前に迫っていること・予期しない緊急の事態にあること」・・・「まさか=よもや~ではアルマイなっ・よもあらじ・今のまさか・やはか・よもや」・・・
↓↑
「文室 浄三(ふんや の きよみ)
持統天皇七年(693年)
~
宝亀元年十月九日(770年10月31日)
奈良時代の皇族(臣籍降下)
初名は
智努王・知努王・珍努王・茅野王(ちぬおう)
天武天皇の孫
一品
長親王の子
ーー↓↑ーー
・・・アレレッ、なんで、ヒロブミちゃん・・・「百姓」の成り上がり「貴族」・・・ヒヨシマルは「ウリウリ・ハリうり」・・・タナカさんは「ドケンヤ」・・・前漢の劉邦は「百姓・宿屋の仕切り人」・・・ナリキンで、オウを仕留めるコトができるか?・・・
↓↑
伊藤 博文
天保12年9月2日
(1841年10月16日)
~
明治42年
(1909年)10月26日
位階勲等爵位
従一位大勲位公爵
諱は博文(ひろぶみ・ハクブン)
幼名は利助(りすけ)
吉田松陰から俊英の
俊を与えられ
俊輔(しゅんすけ)
春輔(しゅんすけ)と改名
号は春畝(しゅんぽ)
春畝公と表記されることも
小田原の別邸・滄浪閣を所持し
滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)
を称して落款とした
↓↑
周防国出身
長州藩の私塾
松下村塾に学び
幕末期の
尊王攘夷・倒幕運動に参加
維新後
薩長の藩閥政権内で力を伸ばし
岩倉使節団の副使
参議兼工部卿
初代兵庫県知事(官選)
大日本帝国憲法の起草の中心者
初代・第五代・第七代・第十代
の内閣総理大臣
初代枢密院議長
初代貴族院議長
初代韓国統監
を歴任
内政で
立憲政友会を結成し
初代総裁
外交で
日清戦争の勝利に伴う
日清講和条約の起草・調印
により
清國から
朝鮮を独立させた(第一条)
元老
↓↑
1909年
ハルビン駅で
朝鮮民族主義活動家の韓国人
安重根に暗殺
↓↑
1885年12月22日
~
1888年4月30日
太政官制度廃止
内閣制度創設
伊藤博文
初代内閣総理大臣就任
(第1次伊藤内閣)
↓↑
666年
丙寅年
天智天皇五年
唐=乾封元年
唐の高宗が泰山で封禅の儀
高句麗の泉蓋蘇文、死没
↓↑
2月2日(天智天皇四年十二月二十三日)
定恵(藤原鎌足の長男・不比等の兄)
学僧(643年~)死亡
↓↑
令狐徳棻(レイコトクフン)
唐の歴史家(583年~)
本貫
宜州華原県
(陝西省
銅川市
耀州区)
唐初
「梁、陳、北斉、北周」
及び
「隋の正史」の修訂を奏請
龍朔二年(662年)
金紫光禄大夫
『周書』の主編者
太宗即位を奏請する書を募り
「宏文殿に四部の書を聚めて
群書は二十余万巻・『唐会要』宏文館」
「創修撰之源、徳棻より始まるなり
(趙翼《二十二史箚記》)」
「二十四史中
徳棻が貢献したものは
『梁書・陳書・北斉書・周書
隋書・晋書・南史・北史』
の八部・・・
ーー↓↑ーーー
以下は
Copyright (C) 2007~2017
「日本伝承大鑑」制作委員会
の原文を参照抜粋したモノ
↓↑
青森県上北郡東北町家ノ下タ
1949年(昭和24年)6月21日
当時
甲地村の
石文集落近くの
赤川上流で
千曳在住の
川村種吉により発見
高さ1.5mほど
自然石に
「日本中央」
と刻まれた碑
↓↑
日本中央の碑
青森県
上北郡
東北町
家ノ下タ
「日本中央の碑」
典拠は
歌学者の
藤原顕昭が出した
『袖中抄』に
「陸奥には
つぼのいしぶみ
という石碑があり
蝦夷征討の際に
田村将軍(坂上田村麻呂)
が矢筈を使って
“日本中央”
という文字を刻んだものである」
との一説・・・
それ以降、
東北の歌枕として
和歌の中に使われ
また幻の遺跡として考えられてきた
↓↑
江戸時代
宮城県の
多賀城の碑が
“つぼのいしぶみ”
と目されていたが
↓↑
明治九年
天皇の東北行幸で
宮内省から青森県に
“つぼのいしぶみ”
発見の要請があった
そこで
田村麻呂が石を埋めたという
伝承の残る
千曳神社で大掛かりな
発掘作業が行われたが
結局発見には至らなかった
↓↑
1852年11月3日(嘉永五年九月二十二日)13時頃
1912年(明治四十五年)7月30日午前0時43分
↓↑
1867年1月30日~1912年7月30日
慶応二年十二月二十五日~明治四十五年七月三十日
ーー↓↑ーー
大炊王(おほけ)
淳仁天皇(ジュンニン-テンコウ)
天平五年(733年)
~
天平神護元年十月二十三日(765年11月10日)
第四十七代天皇
在位=天平宝字二年八月一日(758年9月7日)
~
天平宝字八年十月九日(764年11月6日)
諡号は明治時代に付けられ
古文書では
廃帝、または淡路廃帝
母は
当麻老(たまぎのおゆ)の娘
当麻山背(たまぎのやませ)
↓↑
ーーーーー
稻城(いなぎ・トウキ)・古名「稻壩」
東漢時代
為
白狼羌の地・・・白狼の羌
唐時代
屬
吐蕃(トッパン)・・・凸版(印刷)?
元
屬
吐蕃
等路宣慰司(トウロセンイシ)・・・問う路線の石(医師)?
明時代
屬
朵甘行都司(カンコウグンシ)・・・換項郡市?
清時代
屬
理塘土司(リトウドシ)・・・離島怒偲?
光緒三十三年(1907年)
設
「稻成縣(トウセイケン)」・・・稲の成るに懸ける?
宣統三年(1911年)
正式
核准置(ガイジュンチ)・・・画意(雅意)淳地(ぬまち)
「稻成縣(トウセイケン)」・・・稲の成るに懸ける?
隸
康定府(コウテイフ)=四川省西部の都市・薬種・毛皮を産する
漢族とチベット族の交易の地
もと西康省の省都
旧名は「打箭炉(ダセンロ)」
カンティン
民國二十八年(1939年)
西康省成立
改名
「稻城縣」・・・稲の城に懸ける?
・・・稲の毛(け・モウ)一族
↓↑
1950年12月至1955年
屬
西康省
藏(チベット)族
自治區
↓↑
1955年10月
西康省
撤銷
屬
四川省
甘孜藏(チベット)族
自治州
至今
ーー↓↑ーー
「つぼのいしぶみ」
↓↑
昭和24年6月
千曳神社近くの
青森県
東北町
石文(いしぶみ)
という所で
「日本中央」
と刻まれた石碑が
発見、出土
発見された場所が
「石文(いしぶみ・いわぶみ・セキブン)」
そのすぐそばには
「都母(つぼ)」・・・都母=つも・とも
都の母
と呼ばれる地域がある
「つぼのいしぶみ」
の名と一致・・・?
刻まれた文字は
「日本中央」
で、
この文字の碑が
日本の最北部に当たる
青森県のコトなのか・・・
「日本」の領土ではなく・・・蝦夷地
「日本」という
国号が使われていなかった
この碑を刻んだとされる
坂上田村麻呂
はこの地まで遠征していない
後任の
征夷大将軍
↓↑
文屋綿麻呂=文室綿麻呂(ふんや の わたまろ)
↓↑延暦十一年(792年)
智努王 (文室浄三) の孫・・・茅渟王?
父(三諸大原)と同時に
「文室真人」
から
「三諸朝臣」
へ改姓
ーーーーー
↓↑
・・・「文屋」⇔「陽侯」氏に告発・・・密貿易?
陽侯麻呂(やこ の まろ)
姓は史
官職は
大隅国守
陽侯氏(陽侯史=陽侯忌寸)
隋の煬帝の子孫
達率
楊候
阿子王
の末裔を称する
渡来系氏族
氏は楊候・楊胡・陽候・陽胡
文武天皇四年(700年)
僧侶の
通徳
が還俗して
陽侯(やこ・ヨウコウ)史の姓と
久爾曾(くじそ・クジカイ?)
の名を与えられ
勤広肆に叙
↓↑↓↑
陽侯麻呂が
国司に任命されたのは
南九州と中国大陸の間に
古くから何らかの関係があった・・・
大隅国守在任中・・・大隅(おほすみ)の国=九州
養老四年(720年)
反乱した
隼人に殺害
その知らせは
同年二月二十九日
に
大宰府から朝廷に届けられ
「隼人の反乱」と呼ばれた
戦闘が勃発
↓↑
田村麻呂
文屋のワタマロ
が
はじめてこの地域一帯まで
足を運んだのが史実・・・
一説によると
田村麻呂は
北海道
千島列島
までを
日本の領土とみなし
ここを中央と確定した・・・無理・・・
「国威発揚的発想」は明治・・・
↓↑
刻まれた
「日本」
という文字は
「ひのもと」と
平安初期には
「東北地方」一帯を指す言葉だった・・・
「日本中央」とは
坂上田村麻呂
以下の
蝦夷征討軍
が敵地の中央部分に当たる場所とした・・・
↓↑
「日本中央」の碑
昭和24年
川村種吉
が発見
祠に雨晒しになっていたが
平成七年に発見地近くに
公園施設を作り
保存館を設けて保存
↓↑
藤原顕昭
1130?~1209?
平安末~鎌倉初期の
歌僧
六条藤家の中心的存在
(本人は藤原氏の出身ではなく
養子として姓を賜う)
当時最高峰の歌合と言われた
「六百番歌合」
にも参加。
『袖中抄』は
文治年間(1185~1190年)
に出されている
↓↑
「つぼのいしぶみ」
歌枕
和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠む
「遠くにあるもの」
「どこにあるか分からないもの」
という意味で使用・・・
↓↑
多賀城碑
江戸時代初期に発見された古碑
発見当初より
「つぼのいしぶみ」
であるとされてきた
松尾芭蕉が
『奥の細道』で
「つぼのいしぶみ」
と記している碑
↓↑
坂上田村麻呂
758~811
平安初期の武官
797年
征夷大将軍
蝦夷征討の最高責任者
801年
遠征で大勝
翌年
胆沢城(岩手県奥州市)建設
さらに次の年に
志波城(岩手県盛岡市)建設
東北地方の多くの社寺の
創建伝説、伝承に
多数登場するが
そのほとんどは
後年の創作・・・
ーー↓↑ーーー
文屋(文室)綿麻呂
765~823
平安初期の武官
↓↑
810年
薬子の乱
薬子の側(平城上皇)に付き捕縛・・・?
坂上田村麻呂の
助命嘆願により救われ
田村麻呂の軍に加わって功を上げる
811年
征夷将軍(大将軍ではない)
蝦夷の
爾薩体
と
弊伊(青森南東部から岩手県北部)
を平定
↓↑
延暦十四年(795年)
従五位下
右大
舎人助
に叙任
↓↑
桓武朝後半
延暦十五年(796年)
近衛将監
延暦二十二年(803年)
近衛少将
近江大掾
出羽権守
播磨守
と地方官兼任
この間の
延暦二十年(801年)
坂上田村麻呂
らと共に
蝦夷征討に
東北地方へ派遣
田村麻呂
らと共に昇叙され
正五位上に昇進
↓↑
大同元年(806年)
平城天皇の即位に伴って
従四位下に叙
侍従に
中務大輔を兼ね
天皇の身近に仕える
平城期
右兵衛督
右京大夫
大舎人頭
を歴任
大同四年(809年)
三山朝臣姓
次いで
文室朝臣姓
を賜与
同年四月
平城天皇
から譲位された弟の
嵯峨天皇
が即位
左兵衛督に転じ
大膳大夫
兵部大輔
播磨守
を務める
↓↑
大同五年(810年)九月
薬子の変
↓↑
平城上皇と共に
平城宮にいたが
平安京に召還され
左衛士府に拘禁
↓↑
大納言となっていた
田村麻呂が
「東国へ向かった
平城上皇」
を迎え撃つために
美濃道に向かう際に
武術に優れ
辺境での戦闘の経験が
豊富であることを理由に
綿麻呂
を同行させたい旨を上奏
上奏は認められ
文屋綿麻呂は
正四位上
参議に叙任され
同行
綿麻呂は
歓喜勇躍し
乗馬で出撃・・・・「ブンヤ」って新聞記者?
↓↑
「薬子の変」後
大蔵卿
陸奥
出羽
按察使を兼ね
東北地方に駐在し
蝦夷征討
弘仁二年(811年)
十二月
蝦夷を制圧
辺境の防衛体制を解除させ
従三位
勲五等の叙勲
↓↑
二月五日
陸奥国・出羽国
の兵士26,000人を動員し
「爾薩体」・・・爾薩体村(にさったいむら)
(岩手県二戸郡~青森県南部の一帯)
「弊伊(へい)」
(岩手県上閉伊郡・下閉伊郡)
の蝦夷二村征討の準備完了
六月上旬に出撃する旨を上奏
三月九日
兵士1万人の減員を上奏
三月二十日
蝦夷征討の出撃許可
兵士1万人の減員は不要との勅
四月十七日
征夷将軍
五月十日
城柵の周辺に居住している
俘囚が増加し
出兵中に野心を起こして
騒擾が発生することを防ぐため
「綏撫」を加えることを上奏
五月十九日
蝦夷征討の準備の上奏から
二月の上奏と矛盾があるとし
朝廷から準備不足と判断され
翌年六月に出撃すべき旨の勅
七月四日
俘囚の兵1000人を
「吉-弥侯-部-於-夜志閇」・・・人名
弥侯=陽侯
に委ねて
「弊伊村」を襲伐すべきと上奏
七月十四日
朝廷から
「弊伊村の夷俘」は仲間が多いため
陸奥・出羽両国の
「俘囚の兵1000人」ずつを動員し
八~九月の間に
左右に軍を展開して攻撃すべきこと
副将軍・陸奥出羽両国司と
詳細な征討計画を
上奏すべき旨の勅を受ける
九月二十二日
兵員不足および兵糧の輸送の遅滞を理由に
陸奥国の兵士1000人の追加を上奏
十月四日
兵士の追加が朝廷より許可
十月五日
蝦夷に対する攻撃
蝦夷を多数殺害・捕獲し
降伏させたこと
蝦夷を朝廷に
進上したい旨を上奏
十月十三日
朝廷より
降伏した蝦夷は
希望により内国に移住させ
既に帰順していた俘囚は
陸奥・出羽国に配置させ
新たに捕獲した蝦夷のみ
朝廷へ進上させるべき旨の勅を受ける
閏十二月十一日
蝦夷を全滅させたことにより
兵士配備の縮小
百姓に対する徴兵の廃止
四年間の課税免除を上奏
許される
↓↑
後に衛門督・右近衛大将を経
弘仁九年(818年)
中納言に昇進
弘仁十四年(823年)四月二十六日薨去
享年五十九
最終官位
中納言
兼
右近衛大将従三位
勲等は勲四等
ーーーーー
・・・
薬子の変(平城太上天皇の変)
中納言
藤原縄主の妻
三男二女の母
幼少の長女が
桓武天皇の皇太子
安殿親王(平城天皇)
室になりこれに伴って宮仕え
東宮宣旨
安殿親王との関係で
桓武天皇により宮中から追放
安殿親王が平城天皇に即位して
薬子は宮廷に復帰
典侍から
尚侍=内侍司の女官は天皇に近侍し
奏請と伝宣(内侍宣)
宮中の礼式等を司った
天皇に近侍し奏請・伝宣などを
つかさどったが、のちには
女御・更衣に準じて後宮に列した
藤原薬子=父は
長岡京造設中に暗殺された
藤原種継
事件の結果は
平城太上天皇は自ら出家
藤原薬子は服毒自殺
薬子の兄
藤原仲成は射殺された
大同五年(810年)
平城上皇(安殿=あて)親王
と
嵯峨天皇(神野=かみの)親王
とが対立
嵯峨天皇側が迅速に兵を動かし
平城上皇が出家して決着
↓↑
平城上皇の
愛妾の尚侍
藤原薬子
その兄である
参議
藤原仲成らが処罰
↓↑
嵯峨天皇は、
平城上皇が
作り上げた
平城京の
政務機能をすべて廃止
嵯峨天皇自身は譲位後
嵯峨院へに隠居し
上皇とはならず
権力はスベテ天皇にあるとした
嵯峨院は京都市嵐山にある
「大覚寺」・・・「不覚寺」・・・?
「僧・空海は嵯峨天皇側の勝利を祈念し
日本仏教界の実力者になった」
↓↑
嵯峨天皇は
坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じ
田村麻呂は出発に当たって
蝦夷征討の戦友
文屋綿麻呂
↓↑長皇子の子の
智努王(文室浄三)が父
大市王(文室大市)は
舎人親王薨去後
天平勝宝四年(752年)
文室真人姓を下賜され
臣籍降下した
(栗栖王の系統は
曾孫の助雄がはじめて
同姓の下賜を受けた)
その後
浄三・大市は
他の天武系皇族が相次いで
政争により粛清された中
生き延び
神護景雲四年(770年)
称徳天皇崩御時に
吉備真備によって
↓↑皇嗣候補に推された
の禁錮・・・・・・・平城上皇派と見られ拘束
を解くことを願い
文屋綿麻呂は許され
参議に任じられ
平城上皇の討伐を指揮・・・
捕えられた藤原仲成は、
紀清成、住吉豊継等の手で
右兵衛府において
この日(十一日)の夜に射殺
↓↑
平安時代の政権が
律令に基づいて
死刑として処罰した数少ない事例
これ以降
保元元年(1156年)
「保元の乱」で
源為義が死刑執行されるまで
「約346年間」一件も無かった・・・
ーーーーー
ーー↓↑ーー
「文室宮田麻呂
承和七年(840)
筑前守
新羅の商人
「張宝高」
と交易
筑前守を解任され十年に
反乱をくわだてたとして
伊豆に流された
貞観五年の御霊会で
御霊祭神としてまつられた
↓↑
「承和六(839)年
従五位上
翌七年
筑前守
同九年に前筑前守
この間任を離れているが
そのまま現地にとどまり
来日中の新羅の
廻易使
「李忠」
らと折衝
翌十年
従者の
陽侯氏雄
から謀反を企てていると
密告され
新羅使との接触がかかわっているのか
京および難波宅の捜索を受け
兵具を押収され
伊豆に配流
子の
忠基(佐渡)
安恒(土佐)
らもそれぞれ流刑」
ーーーーー
・・・・???・・・レレレレッ・・・