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コジキジゲン

武器商人は戦争、シンブンヤは「諏奇邪務垂」・・・大衆は喜怒哀楽情報・・・渇望・・・?

2018-03-07 18:08:50 | 古事記字源

 ・・・「コマンチェロ」・・・「テキサスの開拓村、コマンチ族の襲撃が頻発、コマンチに武器を密売して牧場を襲わせる“コマンチェロ”と 呼ばれる白人悪党集団がいた」・・・「南北戦争で使用した中古の銃を売捌いていた日本人がいた・スプリングフィールド銃は、アメリカの南北戦争の後、幕末の日本に大量に輸入・1861年、アメリカ南北戦争で北軍はスプリングフィールド銃、南軍はイギリス製のエンフィールド銃を使用・南北戦争(1861-1865) が終結し、大量の銃や弾薬などの兵器が在庫となり、兵器を製造していた会社は極度の 経営難に陥り、余った兵器は上海の市場に溢れ、ミニエー銃、エンフィールド銃、スペンサー銃は幕末の日本へ」・・・「1867年10月29日
・1867年11月9日・1867年11月15日・1868年1月3日・1868年1月26日~27日」・・・「慶応四年」・・・「鳥羽(トリのハネ)・伏見(フセてミル)=超(チョウ・越)得伏(イ犬)懸」・・・「コマンチェロ・The Comancheros・アメリカ映画の西部劇・1961年制作・ジョン・ウェイン主演・コマンチェロ=コマンチ族に武器を密売する白人・」・・・
 ダンダン、混乱してきた・・・調べていたモノがトンで、何処に接続させるべきか忘れてしまった・・・随分と重複も・・・
ーーーーー
 「ブンヤ」って?・・・新聞屋・・・新分野・・・眞文?・・・マサかネッ・・・「まさか=今まさに物事が目の前に迫っていること・予期しない緊急の事態にあること」・・・「まさか=よもや~ではアルマイなっ・よもあらじ・今のまさか・やはか・よもや」・・・
  ↓↑
 「文室 浄三(ふんや の きよみ)
  持統天皇七年(693年)
  ~
  宝亀元年十月九日(770年10月31日)
  奈良時代の皇族(臣籍降下)
  初名は
  智努王・知努王・珍努王・茅野王(ちぬおう)
  天武天皇の孫
  一品
  長親王の子
ーー↓↑ーー
 ・・・アレレッ、なんで、ヒロブミちゃん・・・「百姓」の成り上がり「貴族」・・・ヒヨシマルは「ウリウリ・ハリうり」・・・タナカさんは「ドケンヤ」・・・前漢の劉邦は「百姓・宿屋の仕切り人」・・・ナリキンで、オウを仕留めるコトができるか?・・・
 ↓↑
 伊藤 博文
 天保12年9月2日
 (1841年10月16日)
 ~
 明治42年
 (1909年)10月26日
 位階勲等爵位
 従一位大勲位公爵
 諱は博文(ひろぶみ・ハクブン)
 幼名は利助(りすけ)
 吉田松陰から俊英の
 俊を与えられ
 俊輔(しゅんすけ)
 春輔(しゅんすけ)と改名
 号は春畝(しゅんぽ)
 春畝公と表記されることも
 小田原の別邸・滄浪閣を所持し
 滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)
 を称して落款とした
 ↓↑
 周防国出身
 長州藩の私塾
 松下村塾に学び
 幕末期の
 尊王攘夷・倒幕運動に参加
 維新後
 薩長の藩閥政権内で力を伸ばし
 岩倉使節団の副使
 参議兼工部卿
 初代兵庫県知事(官選)
 大日本帝国憲法の起草の中心者
 初代・第五代・第七代・第十代
 の内閣総理大臣
 初代枢密院議長
 初代貴族院議長
 初代韓国統監
 を歴任
 内政で
 立憲政友会を結成し
 初代総裁
 外交で
 日清戦争の勝利に伴う
 日清講和条約の起草・調印
 により
 清國から
 朝鮮を独立させた(第一条)
 元老
 ↓↑
 1909年
 ハルビン駅で
 朝鮮民族主義活動家の韓国人
 安重根に暗殺
 ↓↑
 1885年12月22日
  ~
 1888年4月30日
 太政官制度廃止
 内閣制度創設
 伊藤博文
 初代内閣総理大臣就任
 (第1次伊藤内閣)
 ↓↑
 666年
 丙寅年
 天智天皇五年
 唐=乾封元年
 唐の高宗が泰山で封禅の儀
 高句麗の泉蓋蘇文、死没
 ↓↑
 2月2日(天智天皇四年十二月二十三日)
 定恵(藤原鎌足の長男・不比等の兄)
 学僧(643年~)死亡
 ↓↑
 令狐徳棻(レイコトクフン)
 唐の歴史家(583年~)
 本貫
 宜州華原県
(陝西省
 銅川市
 耀州区)
 唐初
 「梁、陳、北斉、北周」
 及び
 「隋の正史」の修訂を奏請
 龍朔二年(662年)
 金紫光禄大夫
 『周書』の主編者
 太宗即位を奏請する書を募り
 「宏文殿に四部の書を聚めて
  群書は二十余万巻・『唐会要』宏文館」
 「創修撰之源、徳棻より始まるなり
  (趙翼《二十二史箚記》)」
 「二十四史中
  徳棻が貢献したものは
  『梁書・陳書・北斉書・周書
   隋書・晋書・南史・北史』
 の八部・・・
ーー↓↑ーーー
 以下は
 Copyright (C) 2007~2017
 「日本伝承大鑑」制作委員会
 の原文を参照抜粋したモノ
 ↓↑
 青森県上北郡東北町家ノ下タ
 1949年(昭和24年)6月21日
 当時
 甲地村の
 石文集落近くの
 赤川上流で
 千曳在住の
 川村種吉により発見
 高さ1.5mほど
 自然石に
 「日本中央」
 と刻まれた碑
 ↓↑
 日本中央の碑
 青森県
 上北郡
 東北町
 家ノ下タ
 「日本中央の碑」
 典拠は
 歌学者の
 藤原顕昭が出した
 『袖中抄』に
 「陸奥には
  つぼのいしぶみ
  という石碑があり
  蝦夷征討の際に
  田村将軍(坂上田村麻呂)
  が矢筈を使って
  “日本中央”
  という文字を刻んだものである」
 との一説・・・
 それ以降、
 東北の歌枕として
 和歌の中に使われ
 また幻の遺跡として考えられてきた
 ↓↑ 
 江戸時代
 宮城県の
 多賀城の碑が
 “つぼのいしぶみ”
 と目されていたが
 ↓↑
 明治九年
 天皇の東北行幸で
 宮内省から青森県に
 “つぼのいしぶみ”
 発見の要請があった
 そこで
 田村麻呂が石を埋めたという
 伝承の残る
 千曳神社で大掛かりな
 発掘作業が行われたが
 結局発見には至らなかった
 ↓↑
 1852年11月3日(嘉永五年九月二十二日)13時頃
 1912年(明治四十五年)7月30日午前0時43分
 ↓↑
  1867年1月30日~1912年7月30日
 慶応二年十二月二十五日~明治四十五年七月三十日
ーー↓↑ーー
 大炊王(おほけ)
 淳仁天皇(ジュンニン-テンコウ)
 天平五年(733年)
 ~
 天平神護元年十月二十三日(765年11月10日)
 第四十七代天皇
 在位=天平宝字二年八月一日(758年9月7日)
    ~
    天平宝字八年十月九日(764年11月6日)
 諡号は明治時代に付けられ
 古文書では
 廃帝、または淡路廃帝
 母は
 当麻老(たまぎのおゆ)の娘
 当麻山背(たまぎのやませ)
 ↓↑
ーーーーー
 稻城(いなぎ・トウキ)・古名「稻壩」
 東漢時代
 為
 白狼羌の地・・・白狼の羌
 唐時代
 屬
 吐蕃(トッパン)・・・凸版(印刷)?
 元
 屬
 吐蕃
 等路宣慰司(トウロセンイシ)・・・問う路線の石(医師)?
 明時代
 屬
 朵甘行都司(カンコウグンシ)・・・換項郡市?
 清時代
 屬
 理塘土司(リトウドシ)・・・離島怒偲?
 光緒三十三年(1907年)
 設
 「稻成縣(トウセイケン)」・・・稲の成るに懸ける?
 宣統三年(1911年)
 正式
 核准置(ガイジュンチ)・・・画意(雅意)淳地(ぬまち)
 「稻成縣(トウセイケン)」・・・稲の成るに懸ける?
 隸
 康定府(コウテイフ)=四川省西部の都市・薬種・毛皮を産する
            漢族とチベット族の交易の地
            もと西康省の省都
            旧名は「打箭炉(ダセンロ)」
                カンティン
 民國二十八年(1939年)
 西康省成立
 改名
 「稻城縣」・・・稲の城に懸ける?
        ・・・稲の毛(け・モウ)一族
 ↓↑
 1950年12月至1955年
 屬
 西康省
 藏(チベット)族
 自治區
 ↓↑
 1955年10月
 西康省
 撤銷
 屬
 四川省
 甘孜藏(チベット)族
 自治州
 至今
ーー↓↑ーー
 「つぼのいしぶみ」
 ↓↑
 昭和24年6月
 千曳神社近くの
 青森県
 東北町
 石文(いしぶみ)
 という所で
 「日本中央」
 と刻まれた石碑が
 発見、出土
 発見された場所が
 「石文(いしぶみ・いわぶみ・セキブン)」
 そのすぐそばには
 「都母(つぼ)」・・・都母=つも・とも
               都の母
 と呼ばれる地域がある
 「つぼのいしぶみ」
 の名と一致・・・?
 刻まれた文字は
 「日本中央」
 で、
 この文字の碑が
 日本の最北部に当たる
 青森県のコトなのか・・・
 「日本」の領土ではなく・・・蝦夷地
 「日本」という
 国号が使われていなかった
 この碑を刻んだとされる
 坂上田村麻呂
 はこの地まで遠征していない
 後任の
 征夷大将軍
 ↓↑
 文屋綿麻呂=文室綿麻呂(ふんや の わたまろ)
 ↓↑延暦十一年(792年)
   智努王 (文室浄三) の孫・・・茅渟王?
   父(三諸大原)と同時に
   「文室真人」
   から
   「三諸朝臣」
   へ改姓
ーーーーー
 ↓↑
 ・・・「文屋」⇔「陽侯」氏に告発・・・密貿易?
   陽侯麻呂(やこ の まろ)
   姓は史
   官職は
   大隅国守
   陽侯氏(陽侯史=陽侯忌寸)
   隋の煬帝の子孫
   達率
   楊候
   阿子王
   の末裔を称する
   渡来系氏族
   氏は楊候・楊胡・陽候・陽胡
   文武天皇四年(700年)
   僧侶の
   通徳
   が還俗して
   陽侯(やこ・ヨウコウ)史の姓と
   久爾曾(くじそ・クジカイ?)
   の名を与えられ
   勤広肆に叙
 ↓↑↓↑   
   陽侯麻呂が
   国司に任命されたのは
   南九州と中国大陸の間に
   古くから何らかの関係があった・・・
   大隅国守在任中・・・大隅(おほすみ)の国=九州
   養老四年(720年)
   反乱した
   隼人に殺害
   その知らせは
   同年二月二十九日
   に
   大宰府から朝廷に届けられ
   「隼人の反乱」と呼ばれた
   戦闘が勃発
 ↓↑
 田村麻呂
 文屋のワタマロ
 が
 はじめてこの地域一帯まで
 足を運んだのが史実・・・
 一説によると
 田村麻呂は
 北海道
 千島列島
 までを
 日本の領土とみなし
 ここを中央と確定した・・・無理・・・
 「国威発揚的発想」は明治・・・
 ↓↑
 刻まれた
 「日本」
 という文字は
 「ひのもと」と
 平安初期には
 「東北地方」一帯を指す言葉だった・・・
 「日本中央」とは
 坂上田村麻呂
 以下の
 蝦夷征討軍
 が敵地の中央部分に当たる場所とした・・・
 ↓↑
 「日本中央」の碑
 昭和24年
 川村種吉
 が発見
 祠に雨晒しになっていたが
 平成七年に発見地近くに
 公園施設を作り
 保存館を設けて保存
 ↓↑ 
 藤原顕昭
 1130?~1209?
 平安末~鎌倉初期の
 歌僧
 六条藤家の中心的存在
 (本人は藤原氏の出身ではなく
  養子として姓を賜う)
 当時最高峰の歌合と言われた
 「六百番歌合」
 にも参加。
 『袖中抄』は
 文治年間(1185~1190年)
 に出されている
 ↓↑
 「つぼのいしぶみ」
 歌枕
 和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠む
 「遠くにあるもの」
 「どこにあるか分からないもの」
 という意味で使用・・・
 ↓↑
 多賀城碑
 江戸時代初期に発見された古碑
 発見当初より
 「つぼのいしぶみ」
 であるとされてきた
 松尾芭蕉が
 『奥の細道』で
 「つぼのいしぶみ」
 と記している碑
 ↓↑
 坂上田村麻呂
 758~811
 平安初期の武官
 797年
 征夷大将軍
 蝦夷征討の最高責任者
 801年
 遠征で大勝
 翌年
 胆沢城(岩手県奥州市)建設
 さらに次の年に
 志波城(岩手県盛岡市)建設
 東北地方の多くの社寺の
 創建伝説、伝承に
 多数登場するが
 そのほとんどは
 後年の創作・・・
ーー↓↑ーーー
 文屋(文室)綿麻呂
 765~823
 平安初期の武官
 ↓↑
 810年
 薬子の乱
 薬子の側(平城上皇)に付き捕縛・・・?
 坂上田村麻呂の
 助命嘆願により救われ
 田村麻呂の軍に加わって功を上げる
 811年
 征夷将軍(大将軍ではない)
 蝦夷の
 爾薩体
 と
 弊伊(青森南東部から岩手県北部)
 を平定
 ↓↑
 延暦十四年(795年)
 従五位下
 右大
 舎人助
 に叙任
 ↓↑
 桓武朝後半
 延暦十五年(796年)
 近衛将監
 延暦二十二年(803年)
 近衛少将
 近江大掾
 出羽権守
 播磨守
 と地方官兼任
 この間の
 延暦二十年(801年)
 坂上田村麻呂
 らと共に
 蝦夷征討に
 東北地方へ派遣
 田村麻呂
 らと共に昇叙され
 正五位上に昇進
 ↓↑
 大同元年(806年)
 平城天皇の即位に伴って
 従四位下に叙
 侍従に
 中務大輔を兼ね
 天皇の身近に仕える
 平城期
 右兵衛督
 右京大夫
 大舎人頭
 を歴任
 大同四年(809年)
 三山朝臣姓
 次いで
 文室朝臣姓
 を賜与
 同年四月
 平城天皇
 から譲位された弟の
 嵯峨天皇
 が即位
 左兵衛督に転じ
 大膳大夫
 兵部大輔
 播磨守
 を務める
 ↓↑
 大同五年(810年)九月
 薬子の変
 ↓↑
 平城上皇と共に
 平城宮にいたが
 平安京に召還され
 左衛士府に拘禁
 ↓↑
 大納言となっていた
 田村麻呂が
 「東国へ向かった
  平城上皇」
 を迎え撃つために
 美濃道に向かう際に
 武術に優れ
 辺境での戦闘の経験が
 豊富であることを理由に
 綿麻呂
 を同行させたい旨を上奏
 上奏は認められ
 文屋綿麻呂は
 正四位上
 参議に叙任され
 同行
 綿麻呂は
 歓喜勇躍し
 乗馬で出撃・・・・「ブンヤ」って新聞記者?
 ↓↑
 「薬子の変」後
 大蔵卿
 陸奥
 出羽
 按察使を兼ね
 東北地方に駐在し
 蝦夷征討
 弘仁二年(811年)
 十二月
 蝦夷を制圧
 辺境の防衛体制を解除させ
 従三位
 勲五等の叙勲
 ↓↑
 二月五日
 陸奥国・出羽国
 の兵士26,000人を動員し
 「爾薩体」・・・爾薩体村(にさったいむら)
 (岩手県二戸郡~青森県南部の一帯)
 「弊伊(へい)」
 (岩手県上閉伊郡・下閉伊郡)
 の蝦夷二村征討の準備完了
 六月上旬に出撃する旨を上奏
 三月九日
 兵士1万人の減員を上奏
 三月二十日
 蝦夷征討の出撃許可
 兵士1万人の減員は不要との勅
 四月十七日
 征夷将軍
 五月十日
 城柵の周辺に居住している
 俘囚が増加し
 出兵中に野心を起こして
 騒擾が発生することを防ぐため
 「綏撫」を加えることを上奏
 五月十九日
 蝦夷征討の準備の上奏から
 二月の上奏と矛盾があるとし
 朝廷から準備不足と判断され
 翌年六月に出撃すべき旨の勅
 七月四日
 俘囚の兵1000人を
 「吉-弥侯-部-於-夜志閇」・・・人名
    弥侯=陽侯
 に委ねて
 「弊伊村」を襲伐すべきと上奏
 七月十四日
 朝廷から
 「弊伊村の夷俘」は仲間が多いため
 陸奥・出羽両国の
 「俘囚の兵1000人」ずつを動員し
 八~九月の間に
 左右に軍を展開して攻撃すべきこと
 副将軍・陸奥出羽両国司と
 詳細な征討計画を
 上奏すべき旨の勅を受ける
 九月二十二日
 兵員不足および兵糧の輸送の遅滞を理由に
 陸奥国の兵士1000人の追加を上奏
 十月四日
 兵士の追加が朝廷より許可
 十月五日
 蝦夷に対する攻撃
 蝦夷を多数殺害・捕獲し
 降伏させたこと
 蝦夷を朝廷に
 進上したい旨を上奏
 十月十三日
 朝廷より
 降伏した蝦夷は
 希望により内国に移住させ
 既に帰順していた俘囚は
 陸奥・出羽国に配置させ
 新たに捕獲した蝦夷のみ
 朝廷へ進上させるべき旨の勅を受ける
 閏十二月十一日
 蝦夷を全滅させたことにより
 兵士配備の縮小
 百姓に対する徴兵の廃止
 四年間の課税免除を上奏
 許される
 ↓↑
 後に衛門督・右近衛大将を経
 弘仁九年(818年)
 中納言に昇進
 弘仁十四年(823年)四月二十六日薨去
 享年五十九
 最終官位
 中納言
 兼
 右近衛大将従三位
 勲等は勲四等
ーーーーー
 ・・・
 薬子の変(平城太上天皇の変)
 中納言
 藤原縄主の妻
 三男二女の母
 幼少の長女が
 桓武天皇の皇太子
 安殿親王(平城天皇)
 室になりこれに伴って宮仕え
 東宮宣旨
 安殿親王との関係で
 桓武天皇により宮中から追放
 安殿親王が平城天皇に即位して
 薬子は宮廷に復帰
 典侍から
 尚侍=内侍司の女官は天皇に近侍し
    奏請と伝宣(内侍宣)
    宮中の礼式等を司った
    天皇に近侍し奏請・伝宣などを
    つかさどったが、のちには
    女御・更衣に準じて後宮に列した
 藤原薬子=父は
      長岡京造設中に暗殺された
      藤原種継
      事件の結果は
      平城太上天皇は自ら出家
      藤原薬子は服毒自殺
      薬子の兄
      藤原仲成は射殺された
 大同五年(810年)
 平城上皇(安殿=あて)親王
 と
 嵯峨天皇(神野=かみの)親王
 とが対立
 嵯峨天皇側が迅速に兵を動かし
 平城上皇が出家して決着
 ↓↑
 平城上皇の
 愛妾の尚侍
 藤原薬子
 その兄である
 参議
 藤原仲成らが処罰
 ↓↑
 嵯峨天皇は、
 平城上皇が
 作り上げた
 平城京の
 政務機能をすべて廃止
 嵯峨天皇自身は譲位後
 嵯峨院へに隠居し
 上皇とはならず
 権力はスベテ天皇にあるとした
 嵯峨院は京都市嵐山にある
 「大覚寺」・・・「不覚寺」・・・?
 「僧・空海は嵯峨天皇側の勝利を祈念し
  日本仏教界の実力者になった」
 ↓↑
 嵯峨天皇は
 坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じ
 田村麻呂は出発に当たって
 蝦夷征討の戦友
 文屋綿麻呂
 ↓↑長皇子の子の
   智努王(文室浄三)が父
   大市王(文室大市)は
   舎人親王薨去後
   天平勝宝四年(752年)
   文室真人姓を下賜され
   臣籍降下した
   (栗栖王の系統は
    曾孫の助雄がはじめて
    同姓の下賜を受けた)
   その後
   浄三・大市は
   他の天武系皇族が相次いで
   政争により粛清された中
   生き延び
   神護景雲四年(770年)
   称徳天皇崩御時に
   吉備真備によって
 ↓↑皇嗣候補に推された
 の禁錮・・・・・・・平城上皇派と見られ拘束
 を解くことを願い
 文屋綿麻呂は許され
 参議に任じられ
 平城上皇の討伐を指揮・・・
 捕えられた藤原仲成は、
 紀清成、住吉豊継等の手で
 右兵衛府において
 この日(十一日)の夜に射殺
 ↓↑
 平安時代の政権が
 律令に基づいて
 死刑として処罰した数少ない事例
 これ以降
 保元元年(1156年)
 「保元の乱」で
 源為義が死刑執行されるまで
 「約346年間」一件も無かった・・・
ーーーーー

ーー↓↑ーー
 「文室宮田麻呂
  承和七年(840)
  筑前守
  新羅の商人
  「張宝高」
  と交易
  筑前守を解任され十年に
  反乱をくわだてたとして
  伊豆に流された
  貞観五年の御霊会で
  御霊祭神としてまつられた
 ↓↑
 「承和六(839)年
  従五位上
  翌七年
  筑前守
  同九年に前筑前守
  この間任を離れているが
  そのまま現地にとどまり
  来日中の新羅の
  廻易使
 「李忠」
  らと折衝
  翌十年
  従者の
  陽侯氏雄
  から謀反を企てていると
  密告され
  新羅使との接触がかかわっているのか
  京および難波宅の捜索を受け
  兵具を押収され
  伊豆に配流
  子の
  忠基(佐渡)
  安恒(土佐)
  らもそれぞれ流刑」
ーーーーー
 ・・・・???・・・レレレレッ・・・

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