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隋の軍人「乞伏慧(キツプクケイ)」=慧を伏すを乞う?

2019-04-03 17:16:58 | 古事記字源

 「不文律(ふぶんりつ)」・・・不分立・・・聞理通では無い?
 ↓↑
 明文化されていない法・成文法の逆
 不文法に同じ・慣習法
 明言されていない規則や仕来たりのこと
 不文律=「不文法」に同じ。⇔成文律
      互いに事前に了解し合っているきまり
      明文化されていない法律や規則
      お互いに心の中で了解し合っている決まり事
      暗黙のルール ・ 暗黙の掟 ・ 暗黙の決まり ・ 暗黙の約束
      公式に文書化されていないが当然にも厳守すべきルール・・・?
ーーーーー
 ・・・ウメ(梅・宇女)追う桜花(櫻花・おうか・謳歌)・・・
 ↓↑
 令和(レイワ・リョウカ)・・・れいな=例和・零和・例話・・・礪名?
 ↓↑
 万葉集歌序文
 ↓↑
 万葉集巻五、梅花(うめのはな)の歌
 ↓↑
 三十二首の序文(「梅花の歌三十二首并せて序」)

 「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」

 「令月」=「仲春令月、時和し気清らかなり」
      めでたい月・「嘉辰(カシン)令月」
      陰暦二月の異称
      如月・衣更着・来更来・葱更生・気更来
 「於是、仲春令月、時和氣淸、原隰、鬱茂百草滋榮」
  原隰( ゲンシツ・ゲンシュウ)
   隰=阝+日+絲
    さわ・シツ・シュウ
    澤・低くしめった土地
    新墾(にいばり)・新たに開拓した土地
 (後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)

 「初春(しょしゅん)の
  令月(れいげつ)にして、
  気淑(きよ)く
  風和(やわら)ぎ、
  梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、
  蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」
    玉佩=珮(字通)=呪能の魂振りとして腰に玉佩を用いた
     珮=佩=おびる・佩(は)く・ハイ
 ↓↑
 字名が「令和」の人物
 ↓↑
 南朝宋の官僚
 江謐(コウヒツ・431年~482年)
 ↓↑
 北魏の官僚
 趙邕(チョウヨウ・?~525年)
  邕=巛+邑・・・広西チワン族自治区南寧の別称
          中国南部やベトナム北部の原住民族
         「撞・僮・獞」=「壮族」
    異体字「𡿷=巛+口+口」
 ↓↑
 隋の軍人
 乞伏慧・・・乞伏慧=慧を伏すを乞う・・・?乞食=こじき=古事記
 (キツプクケイ   ↓↑          乞巧奠(キッコウデン)
  生没年不詳)   ↓↑
 ↓↑        定慧=定慧上人(定恵・貞慧)
          定慧(じょうえ)上人
          皇極天皇二年
         (西暦643年)に生まれ・・・645年=大化の改新
                           乙巳の変
          藤原鎌足の長男・・・・・・不比等の兄?
          慧隠法師に弟子入りし出家
          大念寺開山上人となった
          白雉四年(西暦653)年
          11歳で・・・十一・拾壱・拾壹・重位置・重意知?
          遣唐使に従って唐へ留学
          長安の慧日道場において
          神泰法師(三蔵法師玄奘の弟子)について学ぶ
          天智天皇四年(西暦665)年・・・663年白村江海戦
          唐の劉徳高の船に乗って帰国
          白雉四(西暦653)年12月23日
          大和国(奈良県)大原で23歳の若さで
          百済人・・・・・ナゼ、百済人?敵は新羅人or唐人?
          にその才能を妬まれ毒殺された(藤氏家伝)・・・?
 ↓↑         ↓↑
          定慧=定慧上人(定恵・貞慧)は
          『元亨釈書』や
          大念寺の寺伝・・・大(おほ)の
                   念(おもう・二十)の
                   寺(十一寸)
                ・・・字・時・事・持・児
          『大織冠縁起』によれば
          和銅一年(西暦708)年に帰国
              ・・・和銅五(西暦712)年=古事記上奏
 ↓↑         ↓↑        ↓↑
          留学中の夢のお告げに従って
          藤原鎌足の遺骸を
          摂津国阿威山から
          奈良県の
          多武峰(とうのみね)に・・・多(おほ)の
                        武(たける)の
                        峰(峯)
                       ・・・岑(みね)⇔岺・苓・峇
                          涔=氵+岑=したす・シン
          寺院を建立し墓所を改葬
          和銅七年(西暦714年)6月25日
              ・・・和銅五(西暦712)年=古事記上奏
  ↓↑       70歳で死亡・・・
  乞 伏 慧
 (キツプクケイ・生没年不詳)
 東魏~隋にかけての軍人・政治家
 字は「令和」
 本貫は馬邑郡・・・馬の邑の郡=621年(武徳四年)
          山西省北西部・・・露天掘りの石炭の採炭
          唐朝は馬邑郡を「朔州(サクシュウ)」と改称
 金紫光禄大夫
 第一領民酋長の
 乞伏纂・・・・・・纂に伏せることを乞う?
 の子として生まれた
 若い頃から
 弓や馬を得意とし
 鷹や犬を好んだ・・・タカやイヌ
 東魏の
 高登の時
 行台左丞、蕩寇将軍の位を加えられ
 右衛将軍
 太僕卿・・・太(おほの)僕(ぼく)の卿(きょう)
 に累進
 爵位
 永寧県公~宜民郡王
 兄の
 乞伏貴和・・・貴(とうとい)和(わ)人を伏せるコトを乞う?
 が軍功により
 王に封ぜられ
 一門に「二王」を出し
 貴顕と称された
 北周が北斉
 を平定すると
 乞伏慧は北周に降って
 使持節・開府儀同大将軍に任ぜられ
 佽飛右旅下大夫の位を受け
 後に
 熊渠中大夫・・・熊(くま・ユウ)の
  ↓↑      渠中(水堀の中・キョウチュウ)の大夫
          渠=みぞ・キョ
           人工の水路・掘り割り・みぞ
           渠中=乾ドック(dock)=船渠の中
             =船を建造、修理、係留するための溝
             =港湾ドック・造修ドック
             =乾(カン・dry)ドック
        海から陸へ掘り込んだ掘割で
              船を入れたあと水門を締めて排水し
              船の造船、修理作業をするもの
        「暗渠・河渠・函渠(カンキョ)・溝渠・船渠」
          かしら・首領
  ↓↑     「渠魁(キョカイ)・渠帥(キョスイ)」=頭領・棟梁
 に転じた
ーー↓↑ーー
 580年
 楊堅が丞相となると
 乞伏慧は
 韋孝寛
 の下で
 尉遅惇
 を
 武陟に討ち、位は大将軍
 尉遅迥が平定され、位は柱国
 西河郡公の爵位を受けた
 ↓↑
 581年
 隋が建国
 曹州刺史
 に任ぜられ
 曹州の戸籍帳簿に数万戸を新たに登録
 涼州総管に転じた
 突厥の侵入に烽火台による合図連絡、斥候を派遣
 斉州刺史に転じ、戸籍を調査して数千戸を登録
 寿州総管に転じ
 寿州刺史に左遷
 数年後、徐州総管に転じた
 荊州総管・・・「いばらき=茨木・茨城=荊記」総巻
              水戸⇔「大日本史」
 に転じ
 潭桂二州・・・・・譚系似集?
 総管三十一州・・・総巻三十一収⇔日本書紀三十一巻?
 諸軍事を兼務・・・書訓示、建武・・・?
 ↓↑
 あるとき簺に
 魚(まな=真名=漢字)を捕らえた者がいるのを見て
 絹を出してこれを買って放してやった
 その場所を西河公簺といった
 秦州総管に転じた・・・・神州総巻?
 ↓↑
 604年・・・・600年=干支=庚申
            日本=推古天皇八年・遣隋使
              皇紀1260年
           中国=隋=開皇二十年・三階教弾圧
           朝鮮=新羅=建福十七年・聖徳太子の討伐
 煬帝(広)が即位
 乞伏慧は
 天水郡太守・・・甘粛省天水市一帯に設置
 ↓↑       583年(開皇三年)
         隋が郡制を廃し
         天水郡は秦州と改められた
         607年(大業三年)
         州が廃止されて郡が置かれ
         秦州は天水郡と改称
         619年(武徳二年)
         唐が薛挙を平定し
         天水郡は秦州となり総管府設置
         742年(天宝元年)
         秦州は天水郡と改称
         758年(乾元元年)
         天水郡は秦州と改称
 ↓↑       天水郡の呼称は消えた
 609年
 隋軍が
 吐谷渾を攻撃したとき
 西方の民衆は労役に苦しんでいた
 煬帝が西巡すると
 道路は整備されておらず
 献上された食事は粗末で
 煬帝は怒って、側近に命じて
 乞伏慧を斬らせようとしたが
 乞伏慧
 の髪がないのを見て
 一命を許し
 官爵を剥奪して民とした
 後に
 乞伏慧は家で死去・・・
 『隋書・巻五十五 列伝第二十』
ーーーーー
 ↓↑
 614年に
 遣隋使
 犬上御田鍬・・・犬上音伝習⇔乞(𠂉乙)伏(人犬)慧(恵)
         鍬(金秋)=くわ=句和・玖倭・九話
 渡航
 ↓↑
 600年(開皇二十年)
    (推古八年)
 第一回遣隋使派遣
 『隋書・東夷傳俀國傳俀國伝』
 は高祖
 文帝・・・・・・・・文綴?
 の問いに遣使が答えた
 「開皇二十年
  俀王
  姓 阿毎・・・・・・阿倍
  字 多利思北孤・・・多くの利を思う北の孤立
                  ・・・狐=稲荷
  號 阿輩雞彌・・・阿波のケイミ
  遣使詣闕
  上令所司訪
  其風俗
  使者言
  俀王
  以天爲兄・・・天文観察
  以日爲弟・・・天候観察
  天未明時出聽政 跏趺坐
  日出便停理務 云委我弟
  高祖曰
  此太無義理
  於是訓令改之」
 ↓↑
 第二回遣隋使
 607年(推古十五年)~608年(推古十六年)
           『隋書(煬帝紀)』
 小野妹子(蘇因高)が
 大唐国(隋)に国書を持って派遣
 倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書
 『隋書・東夷傳俀國傳』
 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
 煬帝は立腹
 外交担当の鴻臚卿に
 「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」
 と命じた
 裴世清が持参した返書は「国書」
 小野妹子が持たされた返書は「訓令書」
 ↓↑
 第三回遣隋使
 608年(推古十六年)~609年(推古十七年)
 小野妹子(蘇因高)
 吉士雄成
 学生
 倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)
 奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)
 高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)
 新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)
 学問僧
 僧旻
 南淵請安
 ら8人留学
 隋使
 裴世清
 帰国
 (『日本書紀』、『隋書・俀國伝』)
 ↓↑
 第四回遣隋使
 610年(推古十八年)~?
 (『隋書・煬帝紀』)
 ↓↑
 第五回遣隋使
 614年(推古二十二年)~615年(推古二十三年)
 犬上御田鍬
 矢田部造
 百済使、犬上御田鍬に従って来る
 (『日本書紀』)
 ↓↑
 618年(推古二十六年)
 隋滅亡
 ↓↑
 第一次遣唐使
 舒明天皇二年(630年)~舒明四年(632年)
 犬上御田鍬・・・建條音伝集・・・?
  ・・・乾(いぬい・北西⇔北斉)ドッグ=溝渠・船渠?
     ドライドック(dry dock)
     乾=𠦝+乞・・・𠦝(旗竿)を乞う
         壱與・黄幡・𠂉(かみさし)の乙(きのと)
      =十+日+十+𠂉+乙
       かわく・かわかす・ほす
       カン・ケン
       異体字「乹・干」
      「乾燥・乾田・乾杯
       旱(カン)
       うわべだけの・義理の
      「乾笑」
       易の八卦(ハッケ)の一
       天、天子を表す
      「乾元・乾像・乾徳」
       坤(コン)
       いぬい(戌亥・犬猪・狗猪)
       北西の方角
      「乾位」
 の派遣
 薬師 恵日(くすし えにち)
 医師
 難波薬師奈良の先祖
 ↓↑
 帰国の際
 唐の送使
 高表仁
 来日
 僧旻
 帰国
 新羅の送使も帰国に同行
 八月に対馬に帰着
 高表仁
 は十月初に難波津に着き、翌年一月末に帰国
 ↓↑
 小野 岑守(おの の みねもり)・・・岑(山今)を守る
 公卿・文人
 征夷副将軍
 小野永見の三男
 官位は従四位上・参議
 ↓↑
 小野 篁(おの の たかむら)
 小野岑守の長男
 弘仁六年(815年)
 陸奥守に任ぜられた
 父
 岑守に従って
 陸奥国へ赴任
 弘仁十三年(822年)
 文章生試に及第
 天長元年(824年)
 巡察弾正
 後、弾正少忠・大内記・蔵人
 天長九年(832年)
 従五位下・大宰少弐に叙任
 天長七年(830年)
 父
 岑守が死没
 天長十年(833年)
 仁明天皇即位
 皇太子・恒貞親王の東宮学士、弾正少弼を兼ねる
 同年完成の『令義解』の編纂にも参画し、序文を執筆
 ↓↑
 承和元年(834年)
 遣唐副使に任ぜられる
 承和二年(835年)
 従五位上
 承和三年(836年)
 正五位下と俄に昇叙
 承和三年と翌承和四年(837年)
 2回に亘り出帆するが
 いずれも渡唐に失敗
 承和五年(838年)
 三度目の航海にあたって
 遣唐大使
 藤原常嗣の乗船する第一船が損傷漏水
 常嗣の上奏により
 篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船
 篁は、己の利得のために
 他人に損害を押し付けるような
 道理に逆らった方法が罷り通るなら
 面目なくて
 部下を率いることなど到底できないと抗議
 さらに自身の病気や老母の世話が必要と
 乗船を拒否
 遣唐使は篁を残して六月に渡海
 篁の恨みの漢詩に
 嵯峨上皇は激怒
 同年十二月に官位剥奪
 隠岐国への流罪
 承和七年(840年)
 罪を赦されて平安京に帰り
 翌
 承和八年(841年)
 本位(正五位下)に復され
 刑部少輔に任ぜられた
 承和九年(842年)
 承和の変
 道康親王(文徳天皇)が
 皇太子に立てられ
 東宮学士、式部少輔も兼ねた
 承和十二年(845年)
 従四位下・蔵人頭
 承和十三年(846年)
 権左中弁
 左中弁と要職を歴任
 権左中弁の官職にあった
 承和十三年(846年)
 当時審議中であった
 善愷訴訟事件において
 告発された弁官らは
 私曲を犯していなくても
 本来は弁官の権限外の裁判を行った以上
 公務ではなく私罪である、と
 右少弁・伴善男の主張に同意
 告発された弁官らを弾劾
 後年
 篁はこの時の判断は誤りであったと悔いた・・・
 承和十四年(847年)
 参議に任ぜられて公卿
 後
 議政官として
 弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯
 嘉祥二年(849年)
 従四位上に叙せられ
 五月に病気により官職を辞す
 嘉祥三年(850年)
 文徳天皇の即位に伴い正四位下
 仁寿二年(852年)
 左大弁に復帰
 再び病を得て参朝が困難
 同年十二月には在宅のまま従三位
 間もなく薨去
 享年51
 最終官位は参議左大弁従三位
ーーーーー
 ?・・・岺(レイ)=みね=岑(ジン・シン)・・・?
 小野 岑守(おの の みねもり)・・・岑(山今)を守る
ーーーーー
 580年
 楊堅が丞相となると
 乞伏慧は
 韋孝寛の下で
 尉遅惇を
 武陟に討ち、位は大将軍
 尉遅迥が平定され、位は柱国
 西河郡公の爵位を受けた
 581年
 隋が建国
 曹州刺史
 に任ぜられ
 曹州の戸籍帳簿に数万戸を新たに登録
 涼州総管に転じた
 突厥の侵入を烽火による合図連絡をし、斥候を派遣
 斉州刺史に転じ、戸籍を調査して数千戸を登録
 寿州総管に転じ
 寿州刺史に左遷
 数年後、徐州総管に転じた
 荊州総管に転じ
 潭桂二州総管三十一州諸軍事を兼務
 ↓↑
 あるとき簺に魚を捕らえた者がいるのを見て
 絹を出してこれを買って放してやった
 その場所を西河公簺といった
 秦州総管に転じた
 ↓↑
 604年
 煬帝が即位
 乞伏慧は
 天水郡太守
 609年
 隋軍が
 吐谷渾を攻撃したとき
 西方の民衆は労役に苦しんでいた
 煬帝が西巡すると
 道路は整備されておらず
 献上された食事は粗末で
 煬帝は怒って、側近に命じて
 乞伏慧を斬らせようとしたが
 乞伏慧の髪がないのを見て
 一命を許し
 官爵を剥奪して民とした
 後に
 乞伏慧は家で死去・・・
 『隋書・巻五十五 列伝第二十』
 by https://ja.wikipedia.org/wiki/令和
ーーーーー
 ・・・???・・・

 隋の軍人「乞伏慧(キツプクケイ)」=慧を伏すを乞う・・・?

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