「不文律(ふぶんりつ)」・・・不分立・・・聞理通では無い?
↓↑
明文化されていない法・成文法の逆
不文法に同じ・慣習法
明言されていない規則や仕来たりのこと
不文律=「不文法」に同じ。⇔成文律
互いに事前に了解し合っているきまり
明文化されていない法律や規則
お互いに心の中で了解し合っている決まり事
暗黙のルール ・ 暗黙の掟 ・ 暗黙の決まり ・ 暗黙の約束
公式に文書化されていないが当然にも厳守すべきルール・・・?
ーーーーー
・・・ウメ(梅・宇女)追う桜花(櫻花・おうか・謳歌)・・・
↓↑
令和(レイワ・リョウカ)・・・れいな=例和・零和・例話・・・礪名?
↓↑
万葉集歌序文
↓↑
万葉集巻五、梅花(うめのはな)の歌
↓↑
三十二首の序文(「梅花の歌三十二首并せて序」)
「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」
「令月」=「仲春令月、時和し気清らかなり」
めでたい月・「嘉辰(カシン)令月」
陰暦二月の異称
如月・衣更着・来更来・葱更生・気更来
「於是、仲春令月、時和氣淸、原隰、鬱茂百草滋榮」
原隰( ゲンシツ・ゲンシュウ)
隰=阝+日+絲
さわ・シツ・シュウ
澤・低くしめった土地
新墾(にいばり)・新たに開拓した土地
(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)
「初春(しょしゅん)の
令月(れいげつ)にして、
気淑(きよ)く
風和(やわら)ぎ、
梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、
蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」
玉佩=珮(字通)=呪能の魂振りとして腰に玉佩を用いた
珮=佩=おびる・佩(は)く・ハイ
↓↑
字名が「令和」の人物
↓↑
南朝宋の官僚
江謐(コウヒツ・431年~482年)
↓↑
北魏の官僚
趙邕(チョウヨウ・?~525年)
邕=巛+邑・・・広西チワン族自治区南寧の別称
中国南部やベトナム北部の原住民族
「撞・僮・獞」=「壮族」
異体字「𡿷=巛+口+口」
↓↑
隋の軍人
乞伏慧・・・乞伏慧=慧を伏すを乞う・・・?乞食=こじき=古事記
(キツプクケイ ↓↑ 乞巧奠(キッコウデン)
生没年不詳) ↓↑
↓↑ 定慧=定慧上人(定恵・貞慧)
定慧(じょうえ)上人
皇極天皇二年
(西暦643年)に生まれ・・・645年=大化の改新
乙巳の変
藤原鎌足の長男・・・・・・不比等の兄?
慧隠法師に弟子入りし出家
大念寺開山上人となった
白雉四年(西暦653)年
11歳で・・・十一・拾壱・拾壹・重位置・重意知?
遣唐使に従って唐へ留学
長安の慧日道場において
神泰法師(三蔵法師玄奘の弟子)について学ぶ
天智天皇四年(西暦665)年・・・663年白村江海戦
唐の劉徳高の船に乗って帰国
白雉四(西暦653)年12月23日
大和国(奈良県)大原で23歳の若さで
百済人・・・・・ナゼ、百済人?敵は新羅人or唐人?
にその才能を妬まれ毒殺された(藤氏家伝)・・・?
↓↑ ↓↑
定慧=定慧上人(定恵・貞慧)は
『元亨釈書』や
大念寺の寺伝・・・大(おほ)の
念(おもう・二十)の
寺(十一寸)
・・・字・時・事・持・児
『大織冠縁起』によれば
和銅一年(西暦708)年に帰国
・・・和銅五(西暦712)年=古事記上奏
↓↑ ↓↑ ↓↑
留学中の夢のお告げに従って
藤原鎌足の遺骸を
摂津国阿威山から
奈良県の
多武峰(とうのみね)に・・・多(おほ)の
武(たける)の
峰(峯)
・・・岑(みね)⇔岺・苓・峇
涔=氵+岑=したす・シン
寺院を建立し墓所を改葬
和銅七年(西暦714年)6月25日
・・・和銅五(西暦712)年=古事記上奏
↓↑ 70歳で死亡・・・
乞 伏 慧
(キツプクケイ・生没年不詳)
東魏~隋にかけての軍人・政治家
字は「令和」
本貫は馬邑郡・・・馬の邑の郡=621年(武徳四年)
山西省北西部・・・露天掘りの石炭の採炭
唐朝は馬邑郡を「朔州(サクシュウ)」と改称
金紫光禄大夫
第一領民酋長の
乞伏纂・・・・・・纂に伏せることを乞う?
の子として生まれた
若い頃から
弓や馬を得意とし
鷹や犬を好んだ・・・タカやイヌ
東魏の
高登の時
行台左丞、蕩寇将軍の位を加えられ
右衛将軍
太僕卿・・・太(おほの)僕(ぼく)の卿(きょう)
に累進
爵位
永寧県公~宜民郡王
兄の
乞伏貴和・・・貴(とうとい)和(わ)人を伏せるコトを乞う?
が軍功により
王に封ぜられ
一門に「二王」を出し
貴顕と称された
北周が北斉
を平定すると
乞伏慧は北周に降って
使持節・開府儀同大将軍に任ぜられ
佽飛右旅下大夫の位を受け
後に
熊渠中大夫・・・熊(くま・ユウ)の
↓↑ 渠中(水堀の中・キョウチュウ)の大夫
渠=みぞ・キョ
人工の水路・掘り割り・みぞ
渠中=乾ドック(dock)=船渠の中
=船を建造、修理、係留するための溝
=港湾ドック・造修ドック
=乾(カン・dry)ドック
海から陸へ掘り込んだ掘割で
船を入れたあと水門を締めて排水し
船の造船、修理作業をするもの
「暗渠・河渠・函渠(カンキョ)・溝渠・船渠」
かしら・首領
↓↑ 「渠魁(キョカイ)・渠帥(キョスイ)」=頭領・棟梁
に転じた
ーー↓↑ーー
580年
楊堅が丞相となると
乞伏慧は
韋孝寛
の下で
尉遅惇
を
武陟に討ち、位は大将軍
尉遅迥が平定され、位は柱国
西河郡公の爵位を受けた
↓↑
581年
隋が建国
曹州刺史
に任ぜられ
曹州の戸籍帳簿に数万戸を新たに登録
涼州総管に転じた
突厥の侵入に烽火台による合図連絡、斥候を派遣
斉州刺史に転じ、戸籍を調査して数千戸を登録
寿州総管に転じ
寿州刺史に左遷
数年後、徐州総管に転じた
荊州総管・・・「いばらき=茨木・茨城=荊記」総巻
水戸⇔「大日本史」
に転じ
潭桂二州・・・・・譚系似集?
総管三十一州・・・総巻三十一収⇔日本書紀三十一巻?
諸軍事を兼務・・・書訓示、建武・・・?
↓↑
あるとき簺に
魚(まな=真名=漢字)を捕らえた者がいるのを見て
絹を出してこれを買って放してやった
その場所を西河公簺といった
秦州総管に転じた・・・・神州総巻?
↓↑
604年・・・・600年=干支=庚申
日本=推古天皇八年・遣隋使
皇紀1260年
中国=隋=開皇二十年・三階教弾圧
朝鮮=新羅=建福十七年・聖徳太子の討伐
煬帝(広)が即位
乞伏慧は
天水郡太守・・・甘粛省天水市一帯に設置
↓↑ 583年(開皇三年)
隋が郡制を廃し
天水郡は秦州と改められた
607年(大業三年)
州が廃止されて郡が置かれ
秦州は天水郡と改称
619年(武徳二年)
唐が薛挙を平定し
天水郡は秦州となり総管府設置
742年(天宝元年)
秦州は天水郡と改称
758年(乾元元年)
天水郡は秦州と改称
↓↑ 天水郡の呼称は消えた
609年
隋軍が
吐谷渾を攻撃したとき
西方の民衆は労役に苦しんでいた
煬帝が西巡すると
道路は整備されておらず
献上された食事は粗末で
煬帝は怒って、側近に命じて
乞伏慧を斬らせようとしたが
乞伏慧
の髪がないのを見て
一命を許し
官爵を剥奪して民とした
後に
乞伏慧は家で死去・・・
『隋書・巻五十五 列伝第二十』
ーーーーー
↓↑
614年に
遣隋使
犬上御田鍬・・・犬上音伝習⇔乞(𠂉乙)伏(人犬)慧(恵)
鍬(金秋)=くわ=句和・玖倭・九話
渡航
↓↑
600年(開皇二十年)
(推古八年)
第一回遣隋使派遣
『隋書・東夷傳俀國傳俀國伝』
は高祖
文帝・・・・・・・・文綴?
の問いに遣使が答えた
「開皇二十年
俀王
姓 阿毎・・・・・・阿倍
字 多利思北孤・・・多くの利を思う北の孤立
・・・狐=稲荷
號 阿輩雞彌・・・阿波のケイミ
遣使詣闕
上令所司訪
其風俗
使者言
俀王
以天爲兄・・・天文観察
以日爲弟・・・天候観察
天未明時出聽政 跏趺坐
日出便停理務 云委我弟
高祖曰
此太無義理
於是訓令改之」
↓↑
第二回遣隋使
607年(推古十五年)~608年(推古十六年)
『隋書(煬帝紀)』
小野妹子(蘇因高)が
大唐国(隋)に国書を持って派遣
倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書
『隋書・東夷傳俀國傳』
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
煬帝は立腹
外交担当の鴻臚卿に
「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」
と命じた
裴世清が持参した返書は「国書」
小野妹子が持たされた返書は「訓令書」
↓↑
第三回遣隋使
608年(推古十六年)~609年(推古十七年)
小野妹子(蘇因高)
吉士雄成
学生
倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)
奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)
高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)
新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)
学問僧
僧旻
南淵請安
ら8人留学
隋使
裴世清
帰国
(『日本書紀』、『隋書・俀國伝』)
↓↑
第四回遣隋使
610年(推古十八年)~?
(『隋書・煬帝紀』)
↓↑
第五回遣隋使
614年(推古二十二年)~615年(推古二十三年)
犬上御田鍬
矢田部造
百済使、犬上御田鍬に従って来る
(『日本書紀』)
↓↑
618年(推古二十六年)
隋滅亡
↓↑
第一次遣唐使
舒明天皇二年(630年)~舒明四年(632年)
犬上御田鍬・・・建條音伝集・・・?
・・・乾(いぬい・北西⇔北斉)ドッグ=溝渠・船渠?
ドライドック(dry dock)
乾=𠦝+乞・・・𠦝(旗竿)を乞う
壱與・黄幡・𠂉(かみさし)の乙(きのと)
=十+日+十+𠂉+乙
かわく・かわかす・ほす
カン・ケン
異体字「乹・干」
「乾燥・乾田・乾杯
旱(カン)
うわべだけの・義理の
「乾笑」
易の八卦(ハッケ)の一
天、天子を表す
「乾元・乾像・乾徳」
坤(コン)
いぬい(戌亥・犬猪・狗猪)
北西の方角
「乾位」
の派遣
薬師 恵日(くすし えにち)
医師
難波薬師奈良の先祖
↓↑
帰国の際
唐の送使
高表仁
来日
僧旻
帰国
新羅の送使も帰国に同行
八月に対馬に帰着
高表仁
は十月初に難波津に着き、翌年一月末に帰国
↓↑
小野 岑守(おの の みねもり)・・・岑(山今)を守る
公卿・文人
征夷副将軍
小野永見の三男
官位は従四位上・参議
↓↑
小野 篁(おの の たかむら)
小野岑守の長男
弘仁六年(815年)
陸奥守に任ぜられた
父
岑守に従って
陸奥国へ赴任
弘仁十三年(822年)
文章生試に及第
天長元年(824年)
巡察弾正
後、弾正少忠・大内記・蔵人
天長九年(832年)
従五位下・大宰少弐に叙任
天長七年(830年)
父
岑守が死没
天長十年(833年)
仁明天皇即位
皇太子・恒貞親王の東宮学士、弾正少弼を兼ねる
同年完成の『令義解』の編纂にも参画し、序文を執筆
↓↑
承和元年(834年)
遣唐副使に任ぜられる
承和二年(835年)
従五位上
承和三年(836年)
正五位下と俄に昇叙
承和三年と翌承和四年(837年)
2回に亘り出帆するが
いずれも渡唐に失敗
承和五年(838年)
三度目の航海にあたって
遣唐大使
藤原常嗣の乗船する第一船が損傷漏水
常嗣の上奏により
篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船
篁は、己の利得のために
他人に損害を押し付けるような
道理に逆らった方法が罷り通るなら
面目なくて
部下を率いることなど到底できないと抗議
さらに自身の病気や老母の世話が必要と
乗船を拒否
遣唐使は篁を残して六月に渡海
篁の恨みの漢詩に
嵯峨上皇は激怒
同年十二月に官位剥奪
隠岐国への流罪
承和七年(840年)
罪を赦されて平安京に帰り
翌
承和八年(841年)
本位(正五位下)に復され
刑部少輔に任ぜられた
承和九年(842年)
承和の変
道康親王(文徳天皇)が
皇太子に立てられ
東宮学士、式部少輔も兼ねた
承和十二年(845年)
従四位下・蔵人頭
承和十三年(846年)
権左中弁
左中弁と要職を歴任
権左中弁の官職にあった
承和十三年(846年)
当時審議中であった
善愷訴訟事件において
告発された弁官らは
私曲を犯していなくても
本来は弁官の権限外の裁判を行った以上
公務ではなく私罪である、と
右少弁・伴善男の主張に同意
告発された弁官らを弾劾
後年
篁はこの時の判断は誤りであったと悔いた・・・
承和十四年(847年)
参議に任ぜられて公卿
後
議政官として
弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯
嘉祥二年(849年)
従四位上に叙せられ
五月に病気により官職を辞す
嘉祥三年(850年)
文徳天皇の即位に伴い正四位下
仁寿二年(852年)
左大弁に復帰
再び病を得て参朝が困難
同年十二月には在宅のまま従三位
間もなく薨去
享年51
最終官位は参議左大弁従三位
ーーーーー
?・・・岺(レイ)=みね=岑(ジン・シン)・・・?
小野 岑守(おの の みねもり)・・・岑(山今)を守る
ーーーーー
580年
楊堅が丞相となると
乞伏慧は
韋孝寛の下で
尉遅惇を
武陟に討ち、位は大将軍
尉遅迥が平定され、位は柱国
西河郡公の爵位を受けた
581年
隋が建国
曹州刺史
に任ぜられ
曹州の戸籍帳簿に数万戸を新たに登録
涼州総管に転じた
突厥の侵入を烽火による合図連絡をし、斥候を派遣
斉州刺史に転じ、戸籍を調査して数千戸を登録
寿州総管に転じ
寿州刺史に左遷
数年後、徐州総管に転じた
荊州総管に転じ
潭桂二州総管三十一州諸軍事を兼務
↓↑
あるとき簺に魚を捕らえた者がいるのを見て
絹を出してこれを買って放してやった
その場所を西河公簺といった
秦州総管に転じた
↓↑
604年
煬帝が即位
乞伏慧は
天水郡太守
609年
隋軍が
吐谷渾を攻撃したとき
西方の民衆は労役に苦しんでいた
煬帝が西巡すると
道路は整備されておらず
献上された食事は粗末で
煬帝は怒って、側近に命じて
乞伏慧を斬らせようとしたが
乞伏慧の髪がないのを見て
一命を許し
官爵を剥奪して民とした
後に
乞伏慧は家で死去・・・
『隋書・巻五十五 列伝第二十』
by https://ja.wikipedia.org/wiki/令和
ーーーーー
・・・???・・・
隋の軍人「乞伏慧(キツプクケイ)」=慧を伏すを乞う・・・?