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コジキジゲン

枸橘(からたち)=枳殻(きこく)=Orange jasmine・・・辛夷(こぶし)を握る・・・

2019-04-22 22:20:27 | 古事記字源
 娫=女+延・・・オンナがノビる・・・「くノ一」?
         音鳴が延びる?
         女=「<=弓」+「ノ=弦」+「一=矢」?
  =女+廴+丿+止・・・
     廴=𠄎+乀=引く・長く引きのばす
     ↓↑ 及=𠄎+人=およぶ・・・・和(緒)呼ぶ
       乃=𠄎+丿=すなわち・・・砂(沙)和地・素名倭地
     ↓↑  ↓↑   鳥取琴ヶ浜砂丘=鳴り砂、泣き砂
            陸奥猿ヶ森砂丘=青森県東通村
                    尻労(しつかり)~小田野沢
                    沼には「ひめまりも」の生息地
                    砂丘には
                    ヒバ(檜葉)・檜木、椹
                    翌檜(アスナロ)の埋没林地
                    ミサイル発射実験地
          ・・・ゴビ( Govi)砂漠・・・瀚海沙漠・・・
             大漠
             戈壁(カヘキ・英語Gobi)
             古くから
             匈奴、柔然、突厥、回鶻
             モンゴル帝国
             などの活躍の場
         ↓↑・・・シルクロード⇔知留句賂得土?
         ↓↑・・・語尾・語備・・・「呉(宋)の備」?・・海軍
        「乃」は
         弓の弦をはずして
         緩く垂れた形
         弦が外れた状態の意
         ・・・「𠄎」は「弓の形象」で
            「丿」は「弦(つる)の糸」?
            「つる=弦・絃・鉉・蔓・鶴・鸖・靎・靍」
     ↓↑      「つる=吊・釣・攣・痙」
   娫・・・延=のばす・のびる・ひろがる
         ひく・ひきいれる・まねく
         のべ
         延見・延長・延命・蔓延
         時間や期日がのびて遅れる
         延期・延滞・順延
         同一のものの重複を含めて数えること
         重複しているものもしていないものも
         それぞれを一つと数えて合計したもの
 「娫」
 ・・・古女子人名用字・・・文字は老婆の名・・・?
 ・・・(生活・理想・思い出・前途などの抽象的事物が
     人に好ましい印象を与え)
     美しい,麗しい,すばらしい,輝かしい
     見た目が美しく愛らしいと感じること・・・
 中国語
 我想变成振翅飞翔的鸟儿=羽ばたく鳥になりたい
 变成美好 的社会=良い社会になる
 变成一片废墟=一面の廃墟と化した
 看样子会变成最糟糕的情况=最悪そうになります
 为什么变成这样?=どうしてこうなるの?
ーーーーー
 昔の「時代劇映画の女優」の「娫」?
 千原しのぶ
 丘さとみ
 桜町弘子
 花園ひろみ
 佐久間良子
 高千穂ひづる
 北条きく子
 渡辺美佐子・・・霧隠才蔵
 范文雀(はんぶんじゃく)・・・ジュン・サンダース
 ↓↑
 悪役俳優
 伊藤雄之助・・・百地三太夫
 月形龍之介・・・水戸黄門
 進藤英太郎
 山形勲
 安部徹
 平幹二朗・・・原田甲斐
 南原宏治
 佐藤慶・・・財前教授
ーーーーー
 453年・癸巳
 日本
 允恭天皇四十二年
 皇紀1113年
 中国
 宋  元嘉三十年
    太初元年(2~4月の間のみ
           4月に再び元嘉に戻された)?
 北魏  興安二年
 北涼  承平十一年
 朝鮮
 高句麗 長寿王四十一年
 百済  毗有王二十七年
 新羅  訥祇王三十七年
 ↓↑
 「453年没」
 2月8日(允恭天皇42年1月14日)
     允恭天皇、第19代天皇(376年?~)
 3月16日(元嘉30年2月21日)
     文帝・・・文綴?
     南朝-宋の第3代皇帝(407年~)
     文帝の治世は
    「元嘉の治」の時世中に
     范 曄(ハンヨウ)が・・・范=艹+氵+㔾
                (㔾=異体字「卩・己・巳 ・𢎘」)
                   災厄・厄日・厄年
                  曄=日+華(艹+
                       华・蕐・花)
                     華・崋・蓽・畢
    「後漢書」を編纂
     劉劭、文帝の長子、元凶劭(426年~)
 ↓↑
 范 曄(ハンヨウ)
 ↓↑
 范=艹+氵+㔾
 ハン
 いがた(鋳型)
 かた
 のり
 草の名
 虫の名・蜂
 かた・鋳型・鋳造の型
 のり・法則・規範
 ↓↑
 氾=氵+㔾
 ハン
 あふれる
 ひろがる
 ひろがる・あふれる
 水がひろがる
 氾濫・洪水
 広い・広くひろがる・ゆきわたる・あまねく・・・海女音句?
 うかぶ・ただよう・ただよいゆれる
 ↓↑
 犯
 ハン
 おかす・よこしま
 犯罪
 ↓↑
 范文(ハンブン・」生年不詳~ 349年)
 チャンパ王国(林邑国)第2王朝の
 初代国王(在位336年~349年)
 『隋書』では
 範文(ベトナム語: Phạm Văn)と記録
 ↓↑
 曄=日+華(艹+花)・・・中国(支那)系日本人?
 ヨウ
 あきらか
 かがやく
 さかん
 ひかりかがやく
 さかんなさま
 ↓↑
 華=艹+一+十+十+一+十=華
            ・・・「艹」を省いた漢字は「糸車」?
 ↓↑
 垂=異体字「埀」⇔「𠂹+土」・・・丅に从从を吊るす十一
   垂桜=シダリザクラ
   垂簾=スイレン=垂簾の政(まつりごと)
     (宋史・礼志)
     (旧唐書・高宗紀下・則天武后)
 ↓↑
 乗=乘(旧字体)
   乗=「一+十+十+一+禾」
    =「馬車・牛車」の函、輿の中の座台
   乘=「一+北+一+禾」の函、輿の中の座台
      乗車・大乗・小乗
 ↓↑
 華=艹+華輪+茎
  =艹+一+龷+十
  =艹+𠀎+十
     𠀎
  =艹+丨+≡+丨+十
  =艹+丨+≡+丨+十
  =艹+三+11+十
  =艹+卅+二+十
  =艹+丑+十
     丑=うし・チウ・チユ・シウ・シユ
       牛・十二支の第二位
       うしの時・午前二時
       子と寅との閒の方角・艮・北東の閒
       むすぶ(結・紐)
       つかぬ(束・たば・束ねる・握る・拳)
       てがせ(手械)=杻
       戲劇、シバヰの脚色の一
       粉墨を面に塗りて
       出づるもの「生・旦・淨・丑」・・・?
       文稿注釈に加筆修正したもの・・・?
 =𦰗=艹+世(三十・丗・卅・卋)+十
  はな   垚・㸚・龷
       溝・冓=𠀎+冉・塞
           井+再
           井+一+冉
           二+丿+丨+再
  華は
  しろい・・・白い花
 ↓↑   ・・・鈴蘭・アカシヤ・・・
        枸橘(からたち)=枳殻(きこく)=Orange jasmine
        泰山木(たいさんぼく)は
        大きい白い
       「おわん」形の花
        辛夷(こぶし)
        四手辛夷(しでこぶし)は
        握りこぶしに似ている
        別名
       「田打桜(たうちざくら)」
        コブシが咲く頃に
        田植えを始めた
        3月24日の誕生花(辛夷)
 ↓↑     花言葉は「信頼(辛夷)」
  草木の白い花の総称
  はなが咲く・はなさく
  はなやか・美しい・さかえる・立派
  いろ・いろどり
  白い・白髪・おしろい・白い粉・・・?
  中国の自称
  山の名=崋山
 ↓↑
  樺=白樺
  樺太
 ↓↑
 華・・・崋・・・渡辺崋山
 異体字「樺・花・𠌶・𠫫・崋・𧮉
    𡸓・𡼀・𡼙・𡾀・䅿・𦰗
    䔢・蕐・𦾓・譁・𦻏・㯉
    华・桦・檴・𣛛・𣛲・𧪮」
 ↓↑
 垂=壬+二+11・・・水車の輪・環?
   たれる・たらす・スイ
   しだれる・しで・なんなんとする
 ↓↑
 偏(ヘン)・旁(つくり)・冠(かんむり)
 脚(あし)
 垂(たれ)・繞(にょう)・構(かまえ)
ーー↓↑ーー
 406年~453年
 ↓↑
 アッティラ
 アッティラ帝国を築き上げた
 フン族の大王(406年?~453年)
 ↓↑
 アッティラ
 フン族とその諸侯の王
 中世ドイツの
 『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩に
 エツェル(Etzel)の名で登場
 現在のロシア・東欧・ドイツ
 を結ぶ大帝国を築き上げ
 西方世界の「大王」を自称
 ローマ帝政末期
 キリスト教の信者からは
 「神の災い」や「神の鞭」と恐れられた
 ↓↑
 アッティラ(Attila、406年?~453年)
 フン族とその諸侯の王
 アッティラ=アティッラ (ハンガリー語: Attila, Atilla)
 もともとは「フン族」の王の名を由来
 現在は
 ハンガリーを中心に
 ブルガリア
 トルコ
 の男性名
 ↓↑
 アティッラ (衣服)
ーーーーー
  フン族の大王
         (406年?~453年)
  倭国の宋への朝貢 ↓↑   ↓↑
         (413年~502年)
 ↓↑   ↓↑
 ・・・
 倭の五王
 古代中国の歴史書に登場する
 倭国の五人の王
 讃・珍・済・興・武
 5世紀初頭から末葉まで、
 南朝の
 宋
 (420 年~479年)・・・478年
 に朝貢・・・
 年表
 413年~502年
 倭の五王、外交年表
 西暦 中国王朝 中国元号 倭王 用件
413年 東晋 義熙九  讃  高句麗・倭国及び
                 西南夷の銅頭大師が
                 安帝に貢物を献ずる
               (『晋書』安帝紀
                『太平御覧』)
 421年 宋    永初二  讃  宋に朝献
                 武帝から除授の詔
                「安東将軍倭国王」
               (『宋書』夷蛮伝)
 425年 宋    元嘉二  讃  司馬の曹達を遣わし
                 宋の文帝に貢物
               (『宋書』夷蛮伝)
 430年 宋    元嘉七  讃? 1月、宋に使いを遣わし
                 貢物を献
               (『宋書』文帝紀)
 438年 宋    元嘉十五 珍  倭王讃没し、弟珍立つ
                 宋に朝献し、
                 自ら
                「使持節都督
                 倭 ・百済
                 新羅・任那
                 秦韓・慕韓
                 六国諸軍事
                 安東大将軍倭国王」と称し
                 正式の任命を求める
               (『宋書』夷蛮伝)
                 4月
                 宋文帝
                 珍を
                「安東将軍倭国王」とする
               (『宋書』文帝紀)
                 珍はまた
                 倭隋ら13人を
                 平西・征虜・冠軍・輔国将軍
                 に求め、許される
               (『宋書』夷蛮伝)
 443年 宋   元嘉二十  済  宋・文帝に朝献し
                「安東将軍倭国王」とされる
               (『宋書』夷蛮伝)
 451年 宋   元嘉二十八 済  宋・文帝から
                「使持節都督
                 倭・新羅・任那
                 加羅・秦韓・慕韓
                 六国諸軍事」を加号
                 安東将軍はもとのまま
               (『宋書』倭国伝)
                 7月
                「安東大将軍」に進号
               (『宋書』文帝紀)
                 上った23人も
                 宋朝から
                 将軍号・郡太守号
                 を与えられる
               (『宋書』夷蛮伝)
 460年 宋   大明四 済?   12月
                 孝武帝へ遣使して貢物
 462年 宋   大明六 興    3月
                 宋・孝武帝
                 済の世子の
                 興を
                「安東将軍倭国王」とする
               (『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
 477年 宋   昇明一 興(武) 11月、遣使して貢物
               (『宋書』順帝紀)
                 興没して弟の武、立つ
                 武は自ら
                「使持節都督
                 倭・百済・新羅
                 任那・加羅・秦韓・慕韓
                 七国諸軍事安東大将軍
                 倭国王」と称する
               (『宋書』夷蛮伝)
 478年 宋   昇明二 武    上表し、自ら
                「開府儀同三司」と称し
                 叙正を求める
                 順帝、武を
                「使持節都督
                 倭・新羅・任那
                 加羅・秦韓・慕韓
                 六国諸軍事安東大将軍
                 倭王」とする
               (『宋書』順帝紀)
               (「武」の明記は初めて)
 479年 南斉  建元一 武    南斉の
                 高帝、王朝樹立
                 倭王の武を
                「鎮東大将軍(征東将軍)」
                 に進号
               (『南斉書』倭国伝)
 502年 梁   天監一 武    4月
                 梁の武帝、王朝樹立
                 倭王武を
                「征東大将軍」に進号
               (『梁書』武帝紀)
ーー↓↑ーーーーーー↓↑ーーーーーーーーー↓↑ーー
 賛(421・425年)  彌(珍・438年)
 済(443・451年)
 興(462年)     武(478年)・・・479年 南斉 建元一年
                     ・・・建の元の一年?
          雄略天皇二十三年・・・弐拾参⇔念纂・似を拾う纂
              八月七日⇔捌解通漆比
          「娜毘騰耶皤麼珥」⇔「なひとやはまに」?

ーー↓↑ーーーーーー↓↑ーー
        神功皇后
     在位 神功皇后元年10月 2日=201年11月14日
        仲哀天皇 9年 2月 6日=200年 3月 8日
        神功皇后69年 4月17日=269年 6月 3日
         丨
       15 応神
         (誉田別)
仲哀天皇9年12月14日~応神天皇41年2月15日
         201年 1月 5日~310年3月31日
         丨
       16 仁徳
        (大鷦鷯)
     (在位 仁徳天皇元年1月 3日=313年2月14日
            ~
           同87年1月16日=399年2月 7日
    丨       丨       丨
17 履中      18 反正    19 允恭
(去来穂別)     (瑞歯別)     (雄朝津間稚子宿禰)
400年3月12日            丨      丨
405年4月29日             丨      丨
                 20 安康     21 雄略
                   (穴穂)     (大泊瀬幼武)
                          456年12月25日
                          479年 9月 8日
ーー↓↑ーー
 雄略
 8年2月
 日本府軍が高句麗を破り
 9年5月
 新羅に攻め込む
 将軍の
 紀小弓が戦死し敗走
 20年
 高句麗が倭国と友好関係にあった
 百済を攻め滅ぼした
 21年
 雄略は
 任那から
 久麻那利の地を百済に与えて復興させた
 23年4月
 百済の
 三斤王が死亡
 入質していた
 昆支王の次子
 未多王に
 筑紫の兵500人をつけて帰国させ
 東城王として即位させ
 安致臣・馬飼臣
 らは
 水軍を率いて高句麗を討った
 この他
 呉国(宋)から
 才伎(てひと、手工業者)の
 漢織(あやはとり)
 呉織(くれはとり)
 らを招来
 分散していた
 秦民(秦氏の後裔)の統率を強化し
 養蚕業を奨励
 『書紀』
 雄略が信頼して寵愛したのは
 史部(書記官)である渡来系の
 身狭村主青(むさのすぐりあお)
 檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)
 であった
 この二人は
 8年
 12年
 に大陸への使者として派遣
 ↓↑
 雄略
 22年1月1日
 白髪皇子(22代清寧天皇)を皇太子とし
 23年8月
 病いのため崩御
 雄略23年=479年
 『古事記』
 己巳年(489年)=享年124歳で崩御
 『梁書』
 武帝は
 502年に
 雄略に比定される
 倭王武を
 征東将軍に進号
 没年は記紀による年代よりも
 後であったとする見解
 「雄略天皇=倭王武」の
 比定が誤っている・・・見解説・・・
 ↓↑
 有徳天皇
 (おむおむしくましますすめらみこと)
 という異名
 『書紀』
 4年2月条
 葛城山で
 一言主神と邂逅し
 雄略が神と共に猟を楽しみ
 帰りは
 来米水(高取川)まで送られた
 その豪胆さに感嘆した百姓達は
 「有徳天皇」と讃えた
 ↓↑
 雄略元年は西暦456年or西暦458年・・・
 ↓↑
 『古事記』
 一言主の威を畏れた雄略が
 弓と矢を捨て衣服まで脱いで伏し拝んだ
 雄略天皇と葛城の関係
 『古事記』
 葛城の猪(猪は神様)の話
 雄略天皇が葛城山を登っていくと
 大猪・・・伊吹山の「白い猪」は「日本建」に遭遇・・・
 が現れ
 天皇は鏑矢で猪を射ようとしたが
 猪が怒り突進してき
 天皇が
 榛(シン・はしばみ・はり・はんのき・はり
   榛名神社=群馬県高崎市
   榛名山の中腹にある榛名神社
   第31代用明天皇(585~587)の時代に創建
   赤城山・妙義山と共に
   上毛三山の一つ
   榛名山の神を祀る神社
   主祭神は火の神・火産霊神
       土の神・埴山姫神
   水分神・高靇神・闇靇神
   大山祇神・大物主神
   木花開耶姫神
   を合わせ祀る)
 の木に逃げ登った・・・
 ↓↑
 葛城の
 一言主大神の話
 雄略天皇が正装し臣下と
 葛城山を登っている時に
 同じ装いをした一行と出会い
 天皇が名を告げるように言うと
 相手は
 葛城の一言主大神と名乗り
 天皇は謝罪し
 弓矢や臣下の衣を神に奉納
 一言主大神・・・「一の言の主」⇔「初めにコトバありき」
         「新約聖書・ヨハネによる福音書・第1章」
          創世は神の言葉(ロゴス)
          すなわち神のコトバで始った」
         「言葉は神と共にあり、言葉は神であった」
         「ヨハネによる福音書・1章 2-3節
          初めに神と共にあった
          万物は
          カミの
          言によって成った・・・「万葉集」?
          カミの
          言によらずに
          成らなかったモノは何一つなかった
          言の内に命があった
          命は人間を照らす光であった」
     ・・・「はじめにモノが存りキ
         モノを知る
         言葉は
         人間(ヒト)とともにあり
         言葉は
         人間(ヒト)の
         モノ、ヒトとのあり方を
         認識思惟する道具なり
         感知した
         万物(よろずのもの)に
         コトバを与え
         コレによりて認識記憶とし
         技能、技術によって
         万物にニセたるモノ
         新たな構造物を造形する」・・・
 はそれを受け取り
 葛城山を下りて
 天皇の宮近くまで見送った
 ↓↑
 雄略天皇と「伊勢の国の三重の采女」
 宴会で天皇に捧げる盃に
 「木の葉」が入っているのに気付かず
 酒を注ぎ、天皇の怒りをかって殺されそうになった
 「采女」は
 天皇を讃え、繁栄を祈った歌を即興で詠み
 その歌に天皇は感心し、命拾いをした
 ↓↑
 纏向(まきむく)の
     日代(ひしろ)の宮は
 朝日の 日照(ひでる)宮
 夕日の 日翔(ひがける)宮
 竹の根の根足(ねだる)宮
 木(こ)の根の
     根這(ねばふ)宮
 八百土(やほに)よし
     い杵築(きづき)の宮
 真木(まき)さく
     檜(ひ)の御門(みかど)
 新嘗屋(にひなへや)に
     生(お)ひ立(だて)る
 百足(ももだる)
     槻(つき)が枝(え)は
 上(ほつ)枝(え)は
   天(あめ)を覆(おへ)り
 中つ枝(え)は
   東(あづま)を覆(おへ)り
 下枝(しづえ)は
   鄙(ひな)を覆(おへ)り
 上(ほつ)枝(え)の
      枝(え)の末葉(うらば)は
 中つ枝(え)に
      落ち触(ふら)ばへ
 中つ枝(え)の
      枝(え)の末葉(うらば)は
 下(しもつ)枝(え)に
      落ち触(ふら)ばへ
 下枝(しづえ)の
      枝(え)の末葉(うらば)は
 鮮衣(ありきぬ)の
      三重(みへ)の子が
 捧(ささが)せる
      瑞玉盃(みづたまうき)に
 浮きし脂 落ちなづさひ
 水(みな)こをろ こをろに
 是こしも あやに畏(かしこ)し
 高光る 日の御子(みこ)
 事の語り言もこをば
 ↓↑
 纏向の日代の宮
 景行天皇の宮
 纏向は奈良県桜井市穴師(旧纏向村)
 古事記では宴会が行なわれたのは
 泊瀬(長谷)とあり、説話と歌とで齟齬あり
 ↓↑
 夕日の日がける宮
 「日がける」「日翔る」「日陰る」
 「鄙」=西北方向の地方
 「皇都をさかりたる地をなべていふ名にはあらずして
  方土につきていひし名なり
  その方土に就ていひしとは
  畿内近國をさかりたる
  西方北方の國を
  比那といひ
  東方の國をば
  阿豆麻といひしことにぞありける」
  (『万葉集古義』)
 ↓↑
 鮮衣(ありきぬ)の
 三重の子
 「ありきぬの」は「三重」の枕詞
 「三重の子」は「三重の采女」
 「水こをろこをろ」に
 古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国生み神話に
 「鹽をこをろこをろに」・・・
 盃に浮いた葉を
 国土草創期の浮き脂に見立て
 宮を誉め讃える寿詞に転じた
 雄略天皇が
 三重采女の不始末を許したのは
 彼女のこのような機転を好しとしたから・・・
 ↓↑
 雄略天皇は
 泊瀬の大きなケヤキの木の下で宴会を催した
 伊勢の国の
 三重の采女が
 盃を捧げようとした時
 ケヤキの葉が落ちて
 盃に浮かんだが
 采女は知らずに
 御酒(みき)を献った。
 天皇はその葉を見て怒り
 采女を打ち据えて
 刀を抜き
 切っ先を
 采女の首に当て
 まさに斬ろうとした時
 三重の采女は
 「どうか命をお救いください
  申すべきことがございます」
 と言って歌を詠んだ
 天皇はこれを聞き
 采女の罪を赦した・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
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