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コジキジゲン

あまぞねす=「海女・尼・天女」+「曾根州・曾禰州」

2019-04-09 02:45:20 | 古事記字源

 曽根崎心中 


 元禄十六年四月七日(1703年5月22日)早朝 
 大坂 
 堂島新地 
 天満屋の女郎 
 「はつ(本名妙、21歳)」 
 と 
 内本町 
 醤油商 
 平野屋の手代 
 「徳兵衛(25歳)」 
 が 
 西成郡 
 曾根崎村の 
 露天神の森で情死・・・ 
 心中した事件・・ 
 ・・・西国三十三所巡礼を終えた 
 お初は 
 醤油屋の手代 
 徳兵衛と最後の 
 観音巡礼の地 
 「生玉の社」で偶然の再会・・・ 
 ・・・ 
 「此の世のなごり。夜もなごり。 
  死に行く身をたとふれば、 
  あだしが原の道の霜」 
 道行の最後の段 
 「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」 
 ・・・事件以降 
 露天神社は 
 「お初天神」とも呼ばれる・・・ 


 ↓↑ 
 ・・・「海女・尼・天女」+「曾根州・曾禰州」 
 ↓↑ 
 アマゾーン(Ἀμαζών、Amazōn、複数形 Ἀμαζόνες、Amazones) 
 ギリシア神話に登場する女性だけの部族 
 ピンダロスなどにアマゾニス(Ἀμαζονίς、Amazonis)の別形がある 
 日本では長音記号を省略し 
 「アマゾン(亜馬森)」と呼ばれる 
 地名などに使われ 
 アマゾネスと呼び分けられる・・・ 
 アマゾン(南アメリカ)河・流域・・・ 
 フランス 語=アマゾーヌ(Amazones) 
 ポルトガル語=アマゾナス(Amazonas) 
 スペイン 語=アマソナス(Amazonas) 
 日本   語=あまぞねす・・・亜馬森 
            ・・・「海女・尼・天女」+「曾根州・曾禰州」 
ーーーーー 
 遣唐使「随員の女」・・・「Α+子」・・・女の権威・権力組織・・・? 
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 「α+子」が女性の呼称だったなら・・・おんな・オンナ・・・ 
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 稲目(いなめ=稲女・十七女・稲見・否め・辞め) 
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 韓子(蘇我) 
 馬子(蘇我) 
 妹子=大禮-蘇因高 
 天子=推古天皇 
    諱  額田部(蘇我) 
    別称 豊御食炊屋姫尊 
       豊御食炊屋比売命 
       炊屋姫尊 
    称号 額田部皇女 
 太子=聖徳太子=厩戸皇子(蘇我) 
 鎌子(中臣)=鎌足(藤原) 
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 『万葉集』には 
 「縵子(かずらこ)」・・・ 
 万葉集3789番歌 
 「あしひきの 
  山縵の児 
  今日行くと 
  我に告げせば 
  帰り来ましを」 
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  古今和歌集の真名序 
  原万葉集の歌集は 
  この 
  巻十六の 
 「乞食者二首」 
  大和心を謳う大和歌が 
  仏教の説話や 
  東大寺建立の労働唄になって 
  万葉集の歌の終焉とした 
  万葉集 
  巻十六は 
  奈良時代の人々の生活の歌の巻 
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 「古本」万葉集の最後の巻 
 ↓↑ 
 古今和歌集 真名序より抜粋 
 原文 
 至有好色之家・・・・色を好む家 
 以此為花鳥之使・・・これを以ちて花鳥の使ひとなし 
 乞食之客・・・・・・食を乞ふ客 
 以此為活計之謀。・・これを以ちて活計の謀りと為すに至る 
 故、半為婦人之右・・故に、半ば婦人の右と為し 
 雖進大夫之前。・・・ただ大夫の前に進むのみ 
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 万葉集巻十六を鑑賞 
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 有由縁并雜謌・・・由縁ある并せて雜(くさぐさの)謌 
 櫻兒と縵兒 
 櫻兒(さくらこ)と縵兒(かづらこ)とは 
 旧暦で三月の花と四月の花をそれぞれに代表する 
 ↓↑ 
 昔者有娘子・・・昔者(むかし)娘子(をとめ)ありき 
 字曰櫻兒也・・・字(あざな)を櫻兒(さくらこ)と曰ふ 
 于時有二壮子・・時に二(ふたり)の壮子(をとこ)あり 
 共誂此娘・・・・共にこの娘を誂(あとら)ひて 
 而捐生挌・・・・生(いのち)を捐(すて)てて挌(たたか)ひ 
 竟貪死相敵。・・竟(つひ)に死を貪(むさぼ)りて相敵(あた)る 
 於是娘子戯欷曰・ここに娘子戯欷(なげ)きて曰はく 
 従古来于今・・・古より今に来(いた)るに 
 未聞未見・・・・未だ聞ず未だ見ず 
 一女之見・・・・一(ひとり)の女の見(あとら)ひの 
 徃適二門矣。・・二(ふたり)の門(かど)に 
         徃適(ゆ)くといふことを 
 方今壮子・・・・方今(いま)、壮子の 
 之意有難和平。・意(こころ)和平(にぎ)難きものあり 
 不如妾死・・・・妾(わ)が死にて 
 相害永息。・・・相(あひ)害(そこな)ふこと 
         永く息(や)まむには如(し)かず 
 尓乃尋入林中・・すなわち林の中に尋ね入りて 
 懸樹經死。・・・樹に懸りて經(わなな)き死にき 
 其兩壮子・・・・その兩(ふたり)の壮子 
 不敢哀慟・・・・哀慟(かなしび)に敢(あ)へずして 
 血泣漣襟・・・・血の泣(なみだ)襟に漣(なが)れ 
 各陳心緒作謌・・各(おのおの)心緒(おもひ)を 
         陳べて作れる謌 
 ↓↑ 
 二首 
 ↓↑ 
 集歌3786 
 (其一) 
 春去者・・・・・春さらば 
 挿頭尓将為跡・・挿頭(かざし)にせむと 
 我念之・・・・・我が思(も)ひし 
 櫻花者・・・・・桜の花は 
 散去流香聞・・・散りにけるかも 
 ↓↑ 
 集歌3787 
 (其二) 
 妹之名尓・・・・妹が名に 
 繋有櫻・・・・・繋(つ)ぎたる桜 
 花開者・・・・・花咲かば 
 常哉将戀・・・・常にや恋ひむ 
 弥年之羽尓・・・弥(ひ)さ年のはに 
 ↓↑ 
 或曰・・・・・・・或は曰はく 
 有三男・・・・・・三(みたり)の男(をのこ)有りき 
 同娉一女也・・・・同(とも)に一(ひとり)の 
          女(をみな)を娉(よば)ふ 
 娘子嘆息曰・・・・娘子(をとめ)嘆息(なげ)きて曰はく 
 一女之身易滅如露・一の女の身は滅(めつ)し易く露の如く 
 三雄之志難平如石・三(みたり)の雄(をのこ)の志(こころ)は 
          平(にき)び難く石(いはほ)の如くといふ 
 遂乃彷徨池上・・・遂に池の上(ほとり)に彷徨(たもとほ)り 
 沈没水底・・・・・水底(みなそこ)に沈没(しづ)みき 
 於時其壮士等・・・時に其の壮士(をのこ)等 
 不勝哀頽之至・・・哀頽(かなしび)の至(きはみ)に 
          勝(あ)へずして 
 各陳所心作謌三首・各(おのおの)所心(おもひ)を 
          陳(の)べて作れる謌三首 
  (娘子字曰縵兒也)・(娘子、字(な)を 
          「縵兒(かづらこ)」と曰ふ) 
 ↓↑ 
 集歌3788 
 (一) 
 無耳之・・・・・耳成の 
 池羊蹄恨之・・・池し恨めし 
 吾妹兒之・・・・吾妹子が 
 来乍潜者・・・・来つつ潜(かづ)かば 
 水波将涸・・・・水は涸(か)れなむ 
 ↓↑ 
 集歌3789 
 (二) 
 足曳之・・・・・あしひきの 
 山縵之兒・・・・山縵(やまかづら)の兒 
 今日徃跡・・・・今日行くと 
 吾尓告世婆・・・我れに告(つ)げせば 
 還来麻之乎・・・帰り来(こ)ましを 
 ↓↑ 
 集歌3790 
 (三) 
 足曳之・・・・・あしひきの 
 玉蘰之兒・・・・玉蘰(たまかつら)の 
 如今日・・・・・今日の如(ごと) 
 何隈乎・・・・・いづれの隅(くま)を 
 見管来尓監・・・見つつ来(き)にけむ 
 ↓↑ 
ーーーー 
 「善信尼」 
 ↓↑ 
 司馬達等の 
 娘である 
 「嶋」を得度させて 
 「善信尼」とした 
 善信尼はわが国最初の 
 女性留学生として 
 百済におもむき・・・「百合(ゆり)の花」=「lily」・・・百済 
 ↓↑           ユリアス・シーザー 
               ユリアス・カエサル(変え申) 
          ガイウス・ユリウス・     カエサル 
         (Gaius    Iulius       Caesar) 
          臥意   百合碓・由理得素  替え作留 
           「ビャクゴウ(百合)」 
          ・・・倭国は百済と白百合(小百合・早百合) 
                   新羅・・・紗友里・小由里・・・ 
           「 Lilies grow from bulbs. 百合は球根から育つ」 
 ↓↑       「漢字の『百合』は、鱗茎(百合根)の重なり合い」 
 仏教を学んで帰国して活躍した 
 (『日本書紀・扶桑略記』の記録 
 ↓↑ 
 702年(大宝二年)・壬寅 
 大宝律を全国に頒布 
 度器、量器を初めて全国に頒布 
 薩摩の隼人征討 
 粟田真人 
 山上憶良 
 を遣唐使に派遣 
 第八次遣唐使派遣 
 執節使 
 粟田真人 
 が 
 則天武后 
 に謁見 
 ↓↑ 
 善信尼は 
 587年 
 百済に行って仏教の戒律を学ぶ 
 翌588年に百済の使節が来日し 
 帰りの船に乗って百済に渡り 
 590年に帰国 
 善信尼は桜井寺に住まい 
 11人の女性に得度した 
 ↓↑ 
 第一次遣唐使 
 ↓↑ 
 舒明天皇二年(630年) 
 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣 
 「唐の文化や舞いを学ぶ為の 
  若い女性も乗っており・・・???・・・? 
  財宝、命もろとも略奪された」 
 ↓↑ 
 寛平六年(894年) 
 遣唐大使 
 菅原道真 
 の建議により停止 
 遣唐使が廃止 
 唐での内乱 
 遣唐使の遭難で人材喪失 
 ↓↑ 
 遣唐使船には 
 唐の文化や舞いを学ぶ為の 
 若い女性も乗船・・・???・・・? 
 ↓↑ 
 遣唐第四回派遣 
 ↓↑ 
 斉明五年(659年) 
 斉明七年(661年) 
 坂合部石布(大使) 
 津守吉祥(副使) 
 伊吉博徳 
 7月3日出航 
 8月11日に博多出帆、江南路 
 10月1日 
 第2船の副使 
 津守吉祥 
 越州(浙江省紹興)に入港 
 駅馬で 
 長安に入り洛陽にて皇帝に拝謁 
 大和朝廷の 
 服属国民としての 
 蝦夷人 
 男女を伴って・・・「男と女」・・・奴隷? 
 皇帝に献上 
 ↓↑ 
 同年11月1日 
 冬至の儀に参加 
 その後 
 韓智興 
 の従者(東漢草足嶋か西漢大麻呂か?) 
 による讒言 
 唐と百済の戦役などで 
 暫く長安に幽閉・抑留 
 韓智興 
 は唐の政府によって 
 三千里の外に流罪 
 ↓↑ 
 660年8月 
 百済滅亡 
 9月12日 
 抑留は解かれ 
 19日に洛陽へ向かった 
 ↓↑ 
 9月13日 
 第1船は往途で 
 百済の南の島に到着 
 9月15日日没後 
 逆風で遭難 
 南海の島 
 「爾加委」に漂着し略奪に遭い 
 大使の 
 坂合部石布が殺害され 
 東漢長阿利麻 
 坂合部稲積 
 ら生き残った5人は 
 島の船を奪って 
 大陸に至り 
 役人に護送されて洛陽に運ばれた 
 長安の2船の一行同様、洛陽にて抑留・・・ 
 監禁が解け洛陽に移動した 
 津守吉祥らと 
 翌 
 660年10月19日に再会 
 11月1日に捕虜となった 
 百済の義慈王ら 
 王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が 
 唐の朝廷に護送されるのを目撃 
 24日、長安を出発 
 翌 
 661年4月1日 
 越州から帰国の途 
 7日 
 舟山郡島の 
 須岸島南岸に到着 
 翌 
 8日夜明けに出発 
 暴風に遭い9日間漂流 
 耽羅(済州島)に漂着 
 耽羅国王子の 
 阿波伎等9人を伴って帰国 
 東漢草足嶋は 
 帰路で落雷により死亡 
 『伊吉博徳書』 
 『難波吉士男(津守吉祥)人書』 
 が日本書紀に引用 
 ↓↑ 
 『延喜式』大蔵省式による 
 遣唐使一行 
 ↓↑ 
 大使、副使、判官、録事、知乗船事 
 訳語生、請益生、主神 
 医師、陰陽師 
 絵師、史生、射手、船師 
 音声長 
 新羅・奄美訳語生 
 卜部、留学生、学問僧、従、雑使 
 音声生、玉生、鍛生、鋳生、細工生 
 船匠、柂師、人、挟杪、水手長 
 水手など 
ーーーーー 
 ・・・・???・・・日本女性は「大陸(隋唐)」に渡った、か・・・? 

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