カルクチ・・・?・・・じゃぁ、オモクチは・・・
「乙亥(イッシ)の変」⇔645年がヘン・・・
「乙=乚=L=ℓ=л=Р」+猪(豚・豕)
海豚=いるか=入鹿
↓↑
輕=軽=かる⇔珂瑠皇子=文武天皇&孝徳天皇
↓↑
「輕皇子=珂瑠皇子=「文武&孝徳」天皇+「木梨の輕皇子」
↓↑ 「允恭天皇」の第一皇子
「軽皇子=孝徳天皇」へ譲位
「軽皇子=孝徳天皇」
↓↑
「軽 口」・・・「重 口」・・・?
↓↑
「軽皇子=孝徳天皇」へ譲位
「軽皇子=孝徳天皇」・・・
↓↑
皇極三年(644年)・・・6+4+4=14
↓↑ ・・・1+4=5
考語句纂念?
・・・皇=白+王
極=木+亟
亟=キ・キョク
すみやか・はやく・急いで
あわただしい
しばしば・くりかえして・何度も
木+丂+叹+一
叹=ため息・嘆息・歎息
木+了+叹+一
木+丂+口+又+一
丂=曲がった釘・小刀・さまたげられる
異体字「于 ・考」・・・巧=工+丂
木+乛+亅+口+又+一
十+八+乛+亅+口+又+一
↓↑
「蝦夷」・・・支持豪族の根拠地
物部麤鹿火(もののべのあらかい)
物部荒甲
関東・東北⇔阿倍比羅夫の遠征の根拠?
と
「入鹿」・・・鹿=覇王に入る・海豚・鞍作・・・渡島半島・男鹿半島
が
「甘樫丘」
に邸宅を並べ
「上の宮門」
「谷の宮門」
と称し
入鹿の子供を「王子」と呼ばせた
「蝦夷」
の
「畝傍山」の「東の家」も武装化・・・?
↓↑
皇極天皇四年六月十二日
645年
7月10日
「入鹿」暗殺
↓↑
皇極天皇四年六月十三日
645年
7月11日
「蝦夷」自殺
↓↑
「蝦夷」は舘に火を放ち
『天皇記』
『国記』・・・焼かれた・・・?
その他の珍宝を焼いて自殺
「船恵尺」
がこの内
『国記』
を火中から拾い出して・・・焼かれなかった?
「中大兄皇子=天智天皇」
へ献上
↓↑
皇極天皇四年六月十四日
645年
7月12日
皇極天皇は
「軽皇子=孝徳天皇」へ譲位
「軽皇子=孝徳天皇」は
「中大兄皇子」 =皇太子=立太子
「阿倍内麻呂」 =左大臣
「蘇我倉山田石川麻呂」=右大臣
「中臣鎌足」 =内臣
に任じられた
↓↑
斉明天皇元年(655年)
・・・斉明天皇=皇極天皇
=寶媛重祚
祚=示+乍
ソ
くらい
さいわい・しあわせ
とし=年
天から授かった幸福
天子の位
乍=イ+三
丿+丨+三
𠂉+丨+二
サ
たちまち・急に・さっと・ふと
ながら
~したり~したり
~したかと思うと~する
~ではあるが
~にもかかわらず
~しつつ
に
「つがる」
「津刈蝦夷」が記録初見・・・津軽=津刈・・・?
難波宮で
「捕養の蝦夷九人
掌刈(つかる)・・・津軽=津刈=掌刈・・・手軽?
蝦夷六人
に
冠各二階を授く(日本書紀)」
↓↑
掌=龸+口+手
⺌+冖+口+手
丨+丷+冖+口+手
ショウ
たなごころ
つかさどる
てのひら
役目を担う・管理する
掌(たなごころ)=手の平
掌(つかさど)る
掌(てのひら)
↓↑
鞅掌(オウショウ)=多忙で暇なし
合掌(ガッショウ)=両手を合わせて拝むこと
車掌(シャショウ)
手掌(シュショウ)=手を握った内側の部分
手の平・たなごころ
掌握(ショウアク)=権力を握る
掌中(ショウチュウ)=手中
↓↑
易如反掌(イジョハンショウ)
物事を簡単に成し遂げることができること
手の平を返す程度の難易度
「易きこと掌を反すが如し」
↓↑
孤掌難鳴(コショウナンメイ)
何かを成そうとしても
一人ではどうすることもできないこと
孤掌=片手の手の平
拍手は片手ではできない
「孤掌鳴り難し」
↓↑
掌上明珠(ショウジョウのメイシュ)
非常に大切にされている人や物
両親に可愛がられる子どものこと
↓↑
掌中之珠(ショウチュウのたま)
自分の中で一番大切なもの
自分の妻と子ども
手の平の中にある宝石
↓↑
孤掌鳴らし難し
掌上に運(めぐ)らす
掌中に収める=手中に収める
掌中の珠
掌(たなごころ)の内
掌(たなごころ)を合わす
↓↑
斉明天皇四年(658)四月条
「阿倍引田臣比羅夫が180般の船を率い
て
欝田(秋田)
浮代(能代)
の蝦夷を伐ち
淳代
津軽の郡領を定め
有間濱で
渡島蝦夷らを
聚めて大饗」
↓↑
斉明天皇五年条
180艘を率いた比羅夫が
「飽田・淳代・津軽
膽振鉏(いぶりさえ・いぶりすき)
の蝦夷とその虜を聚めて
饗たまひ禄賜う」
「後方羊蹄(しりべし)を以って政所とすべしJ
斉明天皇六年条
「比羅夫が200艘で粛慎を討った」
↓↑
斉明五年(659)
「遣唐使が道奥の蝦夷男女二人を
唐の皇帝に詔介」
↓↑
「都加留(つかる)蝦夷」
「麁(あら)蝦夷」
「熟(にぎ)蝦夷」
↓↑
「行基圖」
には
「津軽大里」
と記録
↓↑
「新井白石」の
「蝦夷志の序」
「鰐田=秋田」
「柵養=城養」
「津刈=津軽=都加留」
「後方羊諦=之利邉之
今
南之利邉之J
と解釈
明治
「新撰陸奥国誌j
「ツガルと辻津借の意味で
むかし蝦爽が松前島から渡ってきて
この聞の津を倍ちて住んだ
この地は日本の尽頭にあたるから
酉の野鳥に対して
東方蕃国の津所とし
都加留の意味をあらためて
津加留とした
津刈・津軽の津は正字で
刈は復字で
日東流=東日流とあるのは誤用か
荒服最遠(あらふくサイエン)
の意味で
日東=日本
流=荒服最遠
処の意味で
津軽をあるいは津加呂ともよんだらしく
「日露轄朝臣集」
の歌などにそれがみえる
都加留
ツカルとは
都我留となるのである」・・・説
「ツカル=夷(アイヌ)語
夷語のトカリ=海豹(あざらし)」
・・・?・・・「訳借」・・・
↓↑
トガル=尖る=先端・・・?
津=氵+聿(シ・はじめ・ふで)
軽=車+圣(コツ)・・・?
輕皇子=珈瑠皇子=「文武&孝徳」天皇
か る=蝦留
蝦夷(えぞ・カイ)が、に留まる
津⇔津波・・・津波が軽い車輪のような様
↓↑
平安時代には「津軽」と記録
↓↑
つかる
「水に漬かる」
「尽きる」
・・・所という説
↓↑
津軽
青森県の西半分にあたる地方の俗称
古くは
「津借」と書記録・・・
蝦夷が松前から渡って
津を借りて住んだとの説
15~16世紀
南部氏が青森県全域を支配
16世紀末
「大浦為信」
が津軽地方を統一
「津軽氏」を名のって
「弘前」藩をおいた
↓↑
十三湖・十三湊
日本海と湖の間の狭い水路を
「と(門)」+「さ(狭い)」=「十三(とさ)」
の字をあて
「ジュウサン」
とも読ませた
↓↑
膽=月+詹=胆・肝・・・記模・模擬?
月+厃+儿+言
月+⺈+厂+儿+言
タン
トウ
きも=胆嚢(タンノウ)・内臓の一
気力・きもったま・きもだま
度胸・判断力・勇気
心・本心
↓↑
懸胆=ケンタン=・懸膽(けんたん)
自らを苦しめて励むこと
肝を懸ける
ーーーーー
・・・???・・・
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源) + (表紙・画像・音楽)」の 移転先・・・
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ボクの「古事記字源」の発端・・・
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干支歴
↓↑
追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」